2013年03月13日

[その他]「斜め上」の宣伝に「斜め横」からツッコミを入れてみる:『アラサーエアコン』に見る宣伝・マーケティング、おまけで商標

#知財とは関係のない話題ではあるが、面白かったので…。

テレビコマーシャルや通勤電車内のデジタルサイネージで流される、パナソニックのエアコンの宣伝に対して、「斜め上」だ(どこかおかしい、現実にあっていない)という批判が出ているのを見かけた。

批判や違和感の要点としては、
・絵の中に比較的大きい子供がいる(6歳〜10歳程度に見える)が、現在のアラサー(27歳〜33歳)の家庭では考えにくい。
・そもそもアラサー世代で核家族に子供というのが標準的な世帯像ではない。
・前提としている世帯像が「昭和」の常識を引きずっている。
というところだろう(注1)。

これについてはアラサー世代の筆者も、この批判・違和感に共感できるところである。ただ、一歩立ち止まって定量的に違和感を確認してみたい。実際に数字で見るとこの違和感はどのように説明できるのだろうか。

■宣伝に出てくる、子供ありのアラサー世帯ってどれくらいあるのか?
家庭用エアコンの購買の主導的意思決定を担うのはおそらく女性だ、ということにして(注2)、この宣伝でのアラサーは女性(お母さん)を指している、ということとしたい。
また、絵面では6歳〜10歳程度に見えるが、現代の状況に合わせて、6歳未満の子供がいる世帯のみを前提とすることとしたい。

ここで、国勢調査、人口統計(いずれも平成22年(2010年)の値)を用いて、アラサー世代の女性の数、うち配偶者を有する女性の数、さらにそのうち6歳未満の子供を有する女性の数を計算してみた。

その結果、6歳未満の子供を有する女性の数は169万人(世帯)、アラサー世代女性の31.2%に留まることがわかった(図1参照)。
「アラサー」の残り68.8%は対象外(注3)というのであれば、反発を覚えられても仕方ない。

→結論1:宣伝の手法として「アラサー全体を対象としている」かのような印象を一部(又は大部分)の受取手に与えてしまったのは失敗。

図1.『アラサー子供あり世帯』はどのくらいあるのか?
around30aircon_02.png

■アラサーエアコンは市場を見ていない製品なのか?
宣伝の手法の課題はともかく、ニッチ市場向けの製品として当初から想定されていた可能性は少なくない。仮にニッチ市場向けであれば、宣伝から昭和の香りがしようと、当該需要層に届けば良いのであるから問題は無い。

まず、この製品はニッチ市場向けなのだろうか?

前述の推計をそのまま用いて、エアコンの耐用年数(買い替えの平均年数)が7年と仮定して、アラサー子供あり世帯でのエアコンの買い替え需要をラフに推計すると、24万台程度であることがわかった(図1参照)。(もちろん、実際の宣伝文句は「アラサー」であっても「アラフォー」だって買うかもしれない。ただ、「アラサー」とつけてしまった以上、「アラフォー」は手を出しにくくなるだろう。)

ルームエアコンの2010年〜2012年の平均出荷台数は836万台(注4)であるので、24万台の需要は全体の2.8%である。これくらいの推計はマーケティング部門は行っていると想定できる(注5)。そうだとすると、どちらかといえばニッチ市場向けの製品であったと見た方が良さそうである。

ニッチ市場向け製品は、製品あたりの付加価値額が高いことが多い。そこで、この「アラサーエアコン」(パナソニックエアコン Tシリーズ)について見てみると、価格は15万円〜20万円である(定価はオープン価格であるが、40万円程度と表示している小売があった)。『小売物価統計調査』によると2011年の平均小売価格は17〜18万円前後であるため、「アラサーエアコン」が特別に高い製品とはいえない。特別に安くできる製品とも思えないため、付加価値額は特別に高くないと推測せざるをえない(注6)。

そうすると、せっかくニッチ市場を狙ったのに付加価値を効果的に挙げられていない(マイケル・ポーターの競争戦略のフレームワークに載せれば、差別化戦略を採ったのに、付加価値面で十分なうまみを得られていない)ということになるだろう。

→結論2:ニッチ市場向け製品と考えられるが、やや高めの製品として発売できていないようである点はもったいない。

■違和感の本質
上記をあわせると、「アラサーエアコン」の宣伝から感じる違和感は以下の2点に集約できる。
・宣伝とマーケティングの不整合
・競争戦略としての不整合(こちらはそれほどでもないが)

いずれも違和感の発端は「アラサー」を宣伝につけてしまったことにある。この「アラサー」の宣伝文句の本気度の一端を知るために、商標登録されているかを確認してみた。そうすると、
アラサーエアコン」での登録例は2013年3月13日段階ではない。いわゆるWeak Markであるので拒絶されている可能性も少なくはないが、パナソニックとしては、とりあえずのところ「アラサー」を本気でマーケットとしようとしているわけではなさそうだ、と推測できる。

(注1)諌山裕「パナソニックが妄想する顧客像「アラサーエアコン」」BLOGOS2013年03月05日記事。
(注2)これはF1層(20歳〜34歳の女性)がどのような消費材に対しても積極的に購買を行う傾向があるので、エアコンに対しても購買の中心となるだろうという推測が根拠である。決して、アラサー世代で専業主婦が一般的で、家の中のことは全て女性が担っているという「昭和」のイメージを前提にしていない(筆者個人の周りでは既婚の同世代で専業主婦は少数派である。また、専業主婦/主夫で暮らしていけるような所得を片方が稼いでいるという例は極めて少ない)。
(注3)この中には、6歳以上の子供が居る女性も含まれているので、もう少し低く見た方が良いとは思うが…。
(注4)一般社団法人日本冷凍空調工業会の統計に基づく。
(注5)筆者がここで行ったチャチな推計よりずっとマシな推計を行っているだろう。(…チャチな推計を基に議論してすいません…。)
(注6)大手家電量販店で見る限りではやや高めであるし、また、メーカーからの卸売価格では十分に高い可能性もある。
posted by かんぞう at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月04日

[知財一般][著作権]法の正当化過程:著作権保護期間延長を求めるのであれば審議会委員の選考の中立性を権利者側が求めてみたほうが戦略的に良いのでは?

法律の正当化にあたって政策プロセスに着目するアプローチも悪くない、とくに、法の経済学分析との関係では良さがある、と述べる論稿(得津(2009))(注1)に、知的財産権に関する言及があった。考えさせられる点があるので、拙いながらも考察を加えたい。

なお、同論稿は日本における法の経済学分析の中で大きな力を与えている藤田友敬教授、森田果准教授の採る考えの根底にあると思われる点への疑問点を述べたものである。具体的には両教授とも国家の介入の正当性については実証を伴うべきであるとの考え(以下では便宜的に「実証主義的な法の経済学的分析アプローチ」と呼んでみる)であるように見える(注2)が、常に実証可能なものだけではなくそのような考えを一貫することは難しいし、他にも正当性が担保できる場合がある、との指摘を行っているものである。

■実証主義的な法の経済学的分析アプローチから見た知的財産権制度
創作インセンティブ説から知的財産権制度が説明できるとすると、以下のように評価できるという。
「知的財産権制度によって効率性〔筆者注:具体的には情報の豊富化が挙げられる〕を改善する「理論的な」可能性があることを示したに過ぎないはずである」(得津(2009)355頁)。
このとき、仮に法の経済学分析に関して日本において主流の立場が採る前提(=国家の介入は市場の失敗があり、かつ、国家による介入によって改善するという場合に限られるべき)に立った場合で、かつ、介入の正当性はまず実証されるべきであるとの考え方に立つならば、知的財産権制度の導入により具体的に効率性が改善していることの実証研究が乏しい現状においては、「とりあえず廃止すべき制度ということになる」(得津(2009)355頁)。

また、「生産者個人の情報の利益」>「生産者個人の情報生産コスト」(=「社会全体の情報生産コスト」)という自然に情報の豊富化が達成される状況においても、情報に対する排他的な利用権が設定され取引費用が発生してしまう可能性があることも併せて指摘している(注3)。

もっとも、米国の研究を見ると実証研究は既に実施されている(注4)し、排他権を伴う形の知的財産権制度の歴史が長い(注5)ことも効率性が達成されていることの傍証になると思われる。実証主義的な法の経済学的分析アプローチに立ったときに、「とりあえず廃止」といえるかという点については疑問もある。もちろん、かつては効率性が実証されていたが、現在はそうではない(あるいは沿うではない領域が明確になっている)という批判を否定するものでは無い。

■法制度の正当性を担保するalternativeが政策プロセスにあるとするならば、著作権制度を巡る議論で権利者団体は何をしなければならないか
さて、これがこの記事の本題である。

知的財産権制度は一般に創作インセンティブにその根拠を求めざるを得ないと考えられている。自然権的な立場を採ることは難しい(とくに法人著作や著作隣接権などの規定がある我が国の著作権制度では自然権に根拠を求めることは難しい(注6))。

例えば著作権を巡ってはその保護の強化に対して議論が分かれている。前述のように自然権の立場に立つことが出来ないため、保護の強化を正当化するには、
1)法目的が達成されることを実証(すくなくともモデル化して示す)する
2)政策プロセスの正当性を担保する
のいずれかを採ることになる(もし第三の正当性の担保の手法があるのなら別)。

著作権の保護期間延長問題を例に取ると、日米の実証研究では否定的な結論が導かれているものが複数ある(注7)。そうすると、2)に正当性を求めるしかない。

しかし、著作権政策を巡っては審議会の委員の選考過程で所管官庁の作為が入り込んでいるとの政治学的研究成果(ただし、過去の政治過程を分析したものであり、現在は妥当しない可能性がある)があるとおり、官庁での審議会→国会審議という流れでは政策プロセスとしての正当性担保が十分でない可能性が出てくる。

であるならば、例えば著作権延長を求める側は、審議会の委員について反対意見を唱える者をより含むように求めることが、かえって利益になるのではないか。もしそれが出来ないのであれば、その主張の正当性には疑問がつく。

(注1)得津晶「《法の経済分析研究会(1)》負け犬の遠吠え−多元的法政策学の必要性またはその不要性」新世代法政策学研究1号(2009年)341頁-373頁。
(注2)果たして常に実証を求めているのかという疑問はあるが…。
(注3)〔ヨミウリオンライン事件知財高裁判決〕(知財高判平成17年10月6日平成17年(ネ)10049号)などは著作権を認めることにより取引費用が課題になることを懸念し、創作性判断によって著作権による保護を否定した事例と捉えられないこともない。
(注4)David M.Grould and William C. Gruben, "The role of intellectual property rights in economic growth" Journal of Development Economics 48(2) (1996): 323-350.
(注5)石井正『歴史のなかの特許 発明への報奨・所有権・賠償請求権』(晃洋書房、2009年)
(注6)創作の労力に対する見返りとしての著作権であるのならば、自然人の成果が当然に法人に帰属することとなっている法人著作規定はあまりに酷な制度設計をしている。また、創作行為とまで評価されない著作物の流通を促す行為に著作隣接権を与えることも十分な説明が難しい(これらは創作、情報豊富化のインセンティブであるとしないと説明がつかない)。
(注7)田中辰雄・林紘一郎『著作権保護期間―延長は文化を振興するか?』(勁草書房、2008年)、Paul J. Heald, "Property Rights and the Efficient Exploitation of Copyrighted Works: An Empirical Analysis of Public Domain and Copyrighted Fiction Bestsellers", Minn. L. Rev. 92 (2008):1031-、Amici Curiae in support of Petitioners(2002)。
(注8)京俊介「著作権政策形成過程の分析(1)(2)―利益団体,審議会,官庁の行動による法改正メカニズムの説明―」『阪大法学』第57巻第2号、第3号(2007年)。
posted by かんぞう at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月03日

[その他]総務省がDPI技術を用いた広告を容認したとの評価は誤っているし、DPI技術は英米で違法だという主張も筆者が調べた限りでは誤っている

インターネット上や、朝日新聞の記事(注1)で、総務省『利用者視点を踏まえたICTサービスに係る諸問題に関する研究会 第二次提言』(2010年)のDeep Packet Inspection(DPI)技術を用いた行動ターゲティング広告に対する姿勢が批判されている。

批判は概ね、
・通信の秘密を損なうような行為を総務省が容認したことは適切でない
というところに集約できる。

■総務省がDeep Packet Inspection技術による行動ターゲティング広告を容認したと理解するのは誤り
たまたま私はスリーストライク制度を巡って上記提言に目を通していた(注2)ため、この批判のおかしさに気がつくことが出来た。この批判は、総務省がどのようなスタンスでDPIを許容したかという評価を大きく誤っている。

そもそも総務省提言でも利用者の同意が欠かせないとしている。

さらに求めているその同意の程度については、Takuji Hashizumeさんの『企業法務マンサバイバル』の2010年5月30日記事「“web(画面)上の契約約款なんてみんな読まずに同意する”ことを前提にしちゃったら、「個人情報の収集・利用のオプトイン同意」ってどう取ればいいの?」が適切に総務省の提言を評価している。Takuji Hashizumeさんの言を借りると総務省の提言は以下のように評価出来る。
違法性を阻却するために事業者が採用すべき“新しい同意の取り方”が、何とも事業者泣かせな嫌な感じになっています
つまり、総務省提言はハードルの高い同意を要求している。総務省はDPIの広告への利用について後ろ向きであると評価できる(注3)。

■インターネット上で指摘される、「DPIは違法として欧米で扱われている」というのは本当か
記事に騙されたと感じた腹立たし紛れに、インターネット上での批判意見の根拠も疑った。そうすると、どうも誤った批判の根拠がいくつか紛れているらしいことがわかってきた。

いくつかのサイトでDPIが欧米で違法であると扱われていると述べた上で、具体的に以下のような指摘を行うものがあった。
2008年には、〔筆者注:米国Phorm社が〕英国でプロバイダーとDPIを共同実施すると公表したところ、国内外から激しく批判され中断。
欧州委員会が英国政府に訴訟手続きをとる事態に発展した。
米国でも商用化が試みられたが、下院で違法との疑問が呈され撤退。
これだけを見ても、「DPIが欧米で違法である」との帰結には疑問がわく。上記の文章だけでも「米国では違法となっていないが立法が検討されている」ということがわかり、違法ではないということが明示されているように思う。また、英国については欧州委員会との関係で問題になっていることはわかるが、違法といっていることとの関係がわからない。

では実際のところどうなのだろうか?筆者の力だけでは及ばなかったため、この分野に詳しい友人の力を借りて調べてみたところ、いずれも誤った理解と考えられることがわかった。

■英国の動き:英国で送受信者双方において同意が得られている場合にDPIなど通信の傍受を許容していることは、欧州委員会との間で問題になっていない
英国が欧州委員会から訴えられた点を見てみると、
Regulation of Investigatory Powers Act 2000 (RIPA)3条1項が、送受信者双方において傍受の同意が得られている場合に加えて、傍受者がそのような同意が得られていると信じるに足る合理的理由があるときにも傍受を許容していることがEU指令との間で問題である
と述べられている(注4)。これは、英国法の中で欧州共同体の指令との関係で問題がある点を指摘したものである。

DPI技術利用の場面に落とし込むとこうなる。
・利用者、Webサイト提供者においてDPIを行うことへの同意が得られている場合に、その両者の間の通信を行動ターゲティング広告提供者が傍受することを法で許容することは、欧州共同体との関係で問題が無い。
・利用者、Webサイト提供者においてDPIを行うことへの同意が得られていると行動ターゲティング広告提供者が信じるに足る合理的理由があるときに、DPIを実施することを法で許容することは、欧州共同体との関係で問題である。

英国では、利用者の同意がある場合は欧州共同体との関係で問題にはならないと考えられる。

また、少なくとも現在の英国では、「利用者、Webサイト提供者においてDPIを行うことへの同意が得られていると行動ターゲティング広告提供者が信じるに足る合理的理由がある」場合にはDPI技術を用いた行動ターゲティング広告が適法なものとして扱われていることがうかがわれる。

英国は現在のところDPI技術に対して寛容と評価しても良いかもしれない(注5)。

■米国の動き:違法になったというわけではない
2010年5月に米国の下院議員がDPIを巡る法案をまとめている旨が報道されている。

しかし、法案のドラフトの説明(注6)によると
・インターネット上で個人に関する情報収集を行うことや、第三者から情報を受け取り利用するにはオプト・アウトによる同意が必要である
となっている。

裏返せば、利用者のオプト・アウトによる同意があれば適法、というように読むことが出来る。

もしかすると他の立法化の動きがあり、そちらでは厳格に規制することが検討されているのかもしれないが、管見の限り見当たらない。

なお、米国で議員立法は盛んであるため、これがどの程度の意味を持っているのかは評価が難しい。

■まとめ
これまで調べたところをまとめると以下のようになる(2010年6月6日、図を追加)。
・総務省提言→利用者の同意がある場合にのみDPI技術を用いた広告提供を容認。しかし、「同意」の程度のハードルが高く、消極的な姿勢を取っていると評価することが出来る。

・英国→利用者の同意がある場合にDPI技術を用いた広告提供をすることは法的に問題なく、また、これを法的に許容していることは欧州共同体との関係でも問題が無い。問題になっているのは、「利用者、Webサイト提供者においてDPIを行うことへの同意が得られていると行動ターゲティング広告提供者が信じるに足る合理的理由があるときに、DPIを実施することを法で許容すること」。

・米国→現在は違法ではないし、議員立法の法案でも利用者の同意がある場合にDPI技術を用いた広告提供をすることは法的に問題がないと評価していると読める。

100602DPI.jpg
総務省提言に対する一部の方の評価や、英米での法的評価に対する一部の方の指摘は誤っていると考えられる。もちろん、英米については筆者の調査が不足している可能性があるので、正しい情報をお持ちの方がいらっしゃったら是非ご教示いただきたい。

なお、上記のように結論づけたからと言って筆者はDPI技術を許容することに前向きであるという訳ではない。DPI技術は望ましくないものであるとしてこれに厳格な立場を採ることは、制度を巡る議論としては十分にあり得ると考えている(注7)。ただ、現在のところ、同意を条件として許容することに対して特段問題点が浮かばないため、許容することはいいのでないか、と考えている。

(注1)朝日新聞2010年5月30日記事「「ネット全履歴もとに広告」総務省容認 課題は流出対策」
(注2)本ブログ2010年5月21日記事「[著作権]違法ダウンロード行為を抑止するために日本版三振(スリーストライク)アウト制を導入するとしてもISPによる自主的な取り組みを促すためには解決しなければならない課題
(注3)記事にするならしっかりソースを読んでよ…といいたい(2010円6月6日修正)。
(注4)European Commission, "Telecoms: Commission steps up UK legal action over privacy and personal data protection (IP/09/1626)" (2009).
(注5)その後、英国で法改正があれば結論は違ってくるが、私の拙い調査の限りではそのような動きは見当たらない。
(注6)Rick Boucher, "PRIVACY DISCUSSION DRAFT EXECUTIVE SUMMARY"(2010)
(注7)たとえば高木浩光さんが提言するように第三者からの監査を要求する制度などもありうる。高木浩光さんのブログ記事「DPI行動ターゲティング広告の実施に対するパブリックコメント提出意見」『高木浩光@自宅の日記』(2010年5月30日記事)。
posted by かんぞう at 21:16| Comment(1) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月24日

[その他]米国連邦最高裁判事交代を巡っての雑感

日本とアメリカでは裁判官の任用システム、任期が違う。同様に、メディアでの取り扱いも違う。連邦最高裁判所の交代にあっては報道が過熱する点が面白い(注1)。

この6月(または7月)に引退するStevens判事は、最近の知的財産関係の事件では次のような意見を述べているので、印象に残っている方も少なくないだろう。

判事は、既存であるか将来発生するものであるか限定をしていない著作権の保護期間の延長を定める著作権法改正(Sonny Bono Copyright Term Extension Act)の、連邦憲法への適合性に関する裁判の最高裁判決(注2)において、「著作権条項の真の目的は私的利益の保護ではなく、一般公衆の著作物へのアクセスを保証する点にある」と述べ、「事後的に保護期間を延長することは公共の利益を過度に制約する」との反対意見を述べている。

先日、オバマ大統領が最高裁判事候補に指名したKagan司法長官は、これまで判事経験がないため、どのような判断をすることになるか傾向が読めないところであるが、報道によると「学生時代からリベラルと保守の間を調整することに長けた人物」とのことである(注3)。このことが評価されて保守とリベラルの断絶があったハーバード大学でも学長を任されたという。

かつではシカゴ大ロースクールの教授もしていたKagan氏の学術的業績を見ると表現の自由(とくに公的な立場と表現の自由)を専門の一つとしているようだ。

著作権に関わる論点では表現の自由との関係が問題になることが少なくない。ロークラークに任せきりにせずに、判事自身が力を入れた判決が出てくるかもしれない。

(注1)制度の違い、温度感の違いについては、朝日新聞のWebサイトの特集記事が詳しいし参考になる(「第27号 日米最高裁、少数意見が社会を変える」朝日新聞グローブ(2009年))。
(注2)Eldred v. Ashcroft, 123 S.Ct. 769 (2003)
(注3)Jeffrey Rosen, "Now Playing For Center Court", TIME Asia, May 24; 2010, 29-30.
posted by かんぞう at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月09日

[その他]プライバシー侵害と個人識別性:インターネット広告の発展で変わるもの

■インターネット広告の強み:ターゲティングの容易さ・明確さ
最新の(株)電通の発表によると、日本でのインターネット広告への広告費の2009年の総額は、新聞を抜きテレビ、インターネット、新聞、雑誌、ラジオ、衛星メディア、プロモーションメディアの中で第2位を占めたようだ(注1)。

インターネット広告の利点の一つは、特定の属性をターゲットとした広告を打ちやすいということにあるだろう。

雑誌では大規模な読者アンケートをしなければ属性自体が明らかでなく、テレビでは視聴率の集計で属性ごとの視聴状況を大まかに図れていたものが録画機器の進歩と視聴のユビキタス化(どこでもテレビが見られる状況の進展)によって測定が難しくなった結果、受け手の属性が明らかで無くなってきた。

他方、インターネットでは、直接利用者が提供した情報以外を用いなくても、閲覧履歴などの過去の行動履歴に基づいて属性を推定することが出来る。

■行動ターゲティング広告で問題になりうるプライバシーとの関係
しかしこのような行動履歴に基づいた広告(「行動ターゲティング広告」)はプライバシーとの関係で問題があるのではないか、との不安感が生じることもやむを得ないと思われる。もっとも個人情報との関係で問題となる場面もあるが、これらは個人情報保護法で既に対処されている問題である。残された問題は個人情報でない情報(個人識別情報を伴わない行動履歴情報など)によるプライバシー侵害の可能性である。

新潟地裁の裁判例(〔防衛庁リスト事件〕新潟地方裁判所平成18年5月11日判決・判例時報1955号88頁)が以下のように指摘するように、個人識別性が無い限りプライバシー侵害を具体的に肯定することは難しい。少なくとも個人識別性が無い情報を収集されることがプライバシー侵害になるというような法的規範は形成されているとはいいにくと思われる。
プライバシー等が侵害されたというためには、そのリストに記載された原告に関する個人情報が個人識別性を有することが必要である。

そうであるならば、行動ターゲティング広告とプライバシーの関係について、現状では問題は発見できない。

しかし、米国連邦取引委員会ではそのスタッフレポート(注2)で「技術が急速に変化している現在の状況下では、個人識別の可否の境界線はますます不透明になっており、個人識別性の持つ意味は低下している」とのポジションを取っていることが指摘されている(注3)。

先日発表された、総務省のレポート「利用者視点を踏まえたICTサービスに係る諸問題に関する研究会 第2次提言」でも、個人識別性が無い情報であっても直ちにプライバシー侵害の該当性から除くべきでないとの意見があがっている。

だからといって行動ターゲティング広告を規制せよ、という話には結びつかないし、おそらくプライバシーの懸念が生じるものは相当に限定的な領域に限られるだろう。

だが、インターネット広告が発展することで、個人識別性の境界線を巡る事例が蓄積され、プライバシーを巡る法解釈については新しい刺激を与える動きであるように思う。

(注1)株式会社電通「2009年日本の広告費ハイライト」電通Website, available at here.
(注2)Federal Trade Commission,"FTC Staff Report: Self-Regulatory Principles For Online Behavioral Advertising" (2009)
(注3)二関辰郎「ライフログ・行動ターゲティング広告とプライバシー」『骨董通り法律事務所』Webサイト available at here.
posted by かんぞう at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月31日

[著作権]1%が全体を止める(『破天荒力』著作権侵害事件 地裁判決)

松沢成史さんの著書『破天荒力』に、山口由美さんの著書『箱根富士屋ホテル物語』で用いた表現が複数箇所用いられている、として『破天荒力』の販売差止と損害賠償を求めた訴訟の第1審判決が下され、1カ所(240頁中2行)の著作権侵害が肯定され、販売差止が命じられたとの報道がなされた。

■侵害認定について興味を引く点:微妙な侵害認定
判決文が入手できていないが報道を読む限り、問題となった表現は以下の箇所のようである。(あくまで、報道の限りであるので不正確である可能性がある)
「彼は、富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない」との部分が、山口さん記述の「正造が結婚したのは、最初から孝子というより富士屋ホテルだったのかもしれない」の複製と指摘
(共同通信2010年1月29日「松沢知事の本、販売禁止命じる 著作権侵害と東京地裁」)

判決を読まないとわからないが、直観としては非常に微妙な認定である。アイデアにとどまるのではないか、という思いを持つ方もいるだろう。「YOL記事見出し事件」での創作性の評価と照らし合わせると、著作権の侵害を巡る悩ましさがいっそう増す。裁判官も相当悩んだのではないだろうか。

■1%が全体を止めること:当然であるがいいのか?
この結果差し止め請求が認められた点も興味深い。

損害額の認定にあたっては、報道をみる限り、
松沢知事の著書、約240ページのうち、「2行が著作権侵害にあたる」と指摘。松沢知事の著書が約1200万円の売り上げだったことから、損害額を5万円と算定。これに慰謝料5万円と弁護士費用を加えた。
(MSN産経ニュース2010年1月29日「松沢知事の著作権侵害認める 12万円賠償命令 東京地裁」)
とあり、単純な計算では全体の0.4%の著作権侵害が全体を止めた、ということになる。

もちろんこれは著作権法上、著作権侵害の場合に常に差止請求が認められるようになっているからであり、差止を認めたことは至極真っ当な結論であるのだが、感情論として違和感を持つ方もいるだろう。

とくにプロの作家の方にとっては、無意識に第三者の特徴的な表現をわずかでも利用してしまった場合に、自著の出版が止められる可能性を意味しているのであり、反発があってもおかしくない。

■出版社に取っての示唆
この判決を評価するには、本来は被告(侵害とされた側)の主張をみてからでないといけない(主張が残念ながら適切でなかった可能性もある)。また、高裁(知財高裁)で覆される可能性もある。そのためこの件は直ちに一般化できない(著作権侵害を否定して不法行為で処理する可能性があるように思う)。
しかしあえて先取りして出版側の立場に立った点を検討しておきたい。
本件は、紙で出版しつづけることのリスク(注1)を認識させる一つの事例であるように思う。電子出版とした方が、侵害箇所を削る場合のコストは少ない。電子出版のベネフットを認識させる一つのポイントになるだろう。
(注1)ただし、本件については同著が平成19年に出版されていることから、現状ではほぼ販売を行っていない可能性もあり、実質的なダメージは少ないかもしれない。(だからこそ裁判所も差止を認めることに躊躇がなかった可能性がある。)
posted by かんぞう at 23:58| Comment(4) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月27日

[著作権]米国著作権法における著作権侵害訴訟にあたっての制度上の違いについての覚え書き

(2008年8月6日修正)
以下の記事は重要な点で誤りがありました。
2005年の著作権法改正で、登録または仮登録が必須の要件となっていました…。
ご指摘いただいたタコさん、ありがとうございます。

↓以下、間違い↓

スザンヌ・スコッチマー(著)=青木 玲子 (監訳)=安藤 至大 (訳)『知財創出イノベーションとインセンティブ』(日本評論社、2008年)は、イノベーションに資する制度とは何かを丁寧に経済学的な分析によって検討する興味深い本であるが、その中で訳の誤り、もしくは、原著者の表現が足らなかったところと思われる箇所があった。
同書では(アメリカにおいて)「依然として著作物の登録は必要であり、登録をしていないと訴訟が提起できない」旨の記述がある。

これは少なくとも「実質的には訴訟が行われない」の誤りであると思う。

上記の記述が指しているのは米国著作権法の412条(注1)であるが、同条によると、法定の損害賠償規定の適用(一定額の範囲の損害賠償が逸失利益に関係なく保障される)と、弁護士費用の填補が受けられるようになるだけである。
第412条 侵害に対する一定の救済の前提要件としての登録
第106A条(a)に基づく著作者の権利に対する侵害につき提起された訴訟または第411条(b)に基づき提起された訴訟を除く本編に基づく全ての訴訟においては、以下のいずれかの場合、第504条および第505条に定める法定損害賠償金または弁護士報酬は認められない。
(1)(略)
(2)
著作物の最初の発行前かつ登録の発効日前に開始された著作権の侵害。ただし、登録が著作物の最初の発行後3ヶ月以内になされた場合を除く。
(出所:著作権情報センター http://www.cric.or.jp/gaikoku/america/america.html

法定の損害賠償金は、30000ドル未満(2008年7月の為替レートでは約320万円)の賠償を保障している(なお、故意侵害であれば15万ドルにも及ぶ)。高額な賠償であり、著作権者には有利ではあるが、これ以外にも侵害者の利益の額を以て損害賠償の額とする規定(504条(a))もある。そうであるならば、損害賠償を得るためには著作物の登録が事実上必須といえない。まして、差し止め請求訴訟は登録の有無に関わらない。

もし、訴訟が提起できないとされるのであれば、その要因は、弁護士費用の填補が大きく関わっているのかもしれない。近年、知的財産紛争に関わるコストが増大していることが指摘されている(注2)。

この点は、本来であれば原文で確かめるべきではあるが、参考のため指摘した次第である。

(注1)17 U.S.C.S 412
(注2)James E. Bessen&Michael J. Meurer, Patent Failure: How Judges, Bureaucrats, and Lawyers Put Innovators at Risk, Princeton Univ PRESS 2008など参照。
posted by かんぞう at 20:05| Comment(4) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月08日

[その他]「無敵の人」―少年犯罪と高齢者犯罪ー

高齢者犯罪を統計によって分析した太田達也「高齢者犯罪の実態と対策――処遇と予防の観点から」ジュリスト1359号(2008年)116頁以下は少なからず衝撃であった。

同論文で興味深い点は、
○刑法犯検挙人員に占める高齢者(65歳以上の者)の割合は、平成18年までの10
年間で4.1%から12.1%に増加 (116頁)
○初犯、再犯とも増加 (116頁)
○要因は「社会的孤立化」にある可能性(121頁)
とのことであった。

近年(本当はいつの時代もなのかもしれないが)、「物騒なってきた」という。
長期的に見ると、人口千人当たりの犯罪認知件数としては、1970年代の水準よりも低い。
では何が「物騒」感をもたらしているのか?
単に「物騒」という人の物忘れがひどいだけなのか?
あるいは「キレる若者」が原因のなのか?
はたまた、実は高齢者の犯罪がその要因なのか?

まず、刑法犯検挙人員数を被疑者の年齢別に整理してみた。
chiteki080707_01.png
(出所:警察庁「平成18年の犯罪」より筆者作成)
これによると、近年の検挙人員の増加には高齢者が大きく寄与していることがわかる。もっとも、高齢化も進んでいることを併せ考えると、人口千人当たりの検挙人員で見ることが適切である。そこで、人口千人当たりの刑法犯検挙人員数を被疑者の年齢別に整理してみた。なお、統計上の制約により2000年と2005年の2点のみになっている他、少年の人口千人当たりの刑法犯検挙人員数については分子である少年の検挙人員には14歳が含まれているが、分母である人口に14歳人口が含まれていないため、見た目には大きく数字が表れていることに留意されたい。
chiteki080707_02.png
(出所:警察庁「平成18年の犯罪」、総務省「国勢調査」より筆者作成)

これを見ると、20歳台、60歳以上の伸びがわずかではあるが目立つ。そして、少年は圧倒的に件数が多い。

これらを見ると、「失うものが無い」「社会的に結びつきが弱い」人が存在しやすい年代において犯罪に手を染める可能性が上昇していることが窺える。もちろん、慎重な検証がいるが、このような「無敵の人」が犯罪に走りやすいことが、「物騒」感の要因なのかもしれない。
posted by かんぞう at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

[その他]パブリシティ権を巡る、新たな興味深い事案

■振り付けにもパブリシティ権?〔ピンクレディー振り付けパブリシティ権事件〕の概要
MSN産経ニュース(2007年10月8日記事)によると、
 元ピンク・レディーの未唯(みい)さんと増田恵子さんが、女性週刊誌に掲載された過去のステージ写真をめぐり、「振りつけにもパブリシティー権がある」として、出版元の光文社に計312万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていることがわかった。
とのことである。

事実関係の概要は次のようである。
(同記事より引用)
 訴えによると、週刊誌「女性自身」は今年2月27日号で、「ピンク・レディーの激しいダンスでダイエットする」との趣旨の企画記事を掲載。記事とともに、大ヒット曲「ウォンテッド」「渚のシンドバッド」などを歌い踊る2人の過去のステージ写真など、計14枚の写真を無断掲載した。
 2人は訴えの中で、「ピンク・レディーとして5曲連続ミリオンセラーを記録するなど人気を集め、その知名度はいまだ衰えていない」として、まずは肖像のパブリシティー権を主張。
 その上で、振りつけ自体にもパブリシティー権があると主張している。

これから判断するに、主たる主張は、
・雑誌の一記事の中で無断で写真を使用したことがパブリシティ権の侵害である。
というものであり、予備的に、
・振り付け自体にもパブリシティ権があり、その振り付けを撮影した写真の無断使用もパブリシティ権の侵害である。
と主張していることが窺える(注1)。

■筋の悪い主張か?
これを見て、「なんて無茶な」という感想もあると思われる(注2)。

だが、予備的主張の構成はともかく、主としてオーソドックスな意味でのパブリシティ権を主張しているのであるし、(後述するが)それが100%認められるか難しい局面であるため、なんとかして予備的な主張をひねり出す代理人の姿勢には、私は筋の悪さは感じない。

まず主たる主張について検討する。
パブリシティ権侵害との明示がないものもふくめて、これまで芸能人の肖像写真の無断利用が不法行為であるとされてきた事案は多い(注3)。それゆえ、主たる主張としては真っ当なものである。

ではこの主張が受け入れられる可能性はどうか。
本件のような雑誌の一記事での利用の場合について、利用の態様からの総合判断によって不法行為該当性が否定された事案(注4)があることから、何らかの予備的主張をしておくことが望ましい。その意味で、代理人の方針は真っ当である。

■予備的主張の「振りつけにもパブリシティー権がある」はどう評価できるか?
こちらの主張は、直観的に苦しい。
少なくとも先例は無い。

では、この主張を根拠づけることはできないだろうか。
現在、パブリシティ権は複数の法的性質からなるものとの理解がある(本ブログ「[知財一般][やるべきこと]パブリシティ権を整理する枠組みについてのおもいつき」(2007年5月4日記事)参照)。

それに基づいて考えると、次のようになるだろう。

□人格権
振り付け自体の人格権と言うものは認められないだろうし、仮に、振り付けに化体した人格、と説明してしまうと、著作物の通説的な理解と重複し、「著作権の主張ぢゃん、あんたは著作権もって無いヨ」と言われてしまうので、この性質に基づく構成と理解するのは苦しいものと考えられる。

□不正競争型の競争秩序違反(標識の冒用)
まず、振り付けが、それが利用されたサービス/商品の出所がピンクレディーであることを表すものだ、と言う必要があろう。これは難しいのではないか。たしかに振り付けは「ピンクレディー」を想起させることに疑いは無いだろう。しかし、ピンクレディーの振り付けを見て、商品等出所の混同が起こるか、と言われれば、私は疑問を感じる。
ただ、この性質に基づく構成が本件では一番無難かもしれない。

□当該行為のインセンティブを著しく削ぐと言う意味での競争秩序違反
こんな利用のされ方をするのでは、もう振りをつけて踊れない!…というにも難しいように思う。よって、これは苦しいのではないか。

若干無茶な主張であるように素人目には感じるが、そういう無茶な主張をすると原告のパブリシティを傷つけかねないことは原告代理人も承知されているところであると思う。ならば、よほどの理論的正当化ができており勝算があるのか、あるいは、よほど光文社に恨みが有るのか…。
(注1)あくまで産経新聞の報道による限りであるので、「窺える」とした。残念ながら他の新聞から報道はなされていない。
(注2)私は最初そう思っていた…。
(注3)詳細は内藤篤=田代貞之『パブリシティ権概説 第二版』(木鐸社、2005年)を参照。
(注4)たとえば〔ブブカ2002事件高裁判決〕(東京高判平成18年4月26日判タ1214号91頁)。
posted by かんぞう at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

[その他]法学と経済学のあいだ:矢野誠編著『法と経済学 市場の質と日本経済』読書メモ

矢野誠編著『法と経済学 市場の質と日本経済』(東京大学出版会、2007年)読書メモ

Law&Econ.(法と経済学)の視点から、各種法制度と、教育制度について検討する興味深い本があった。慶應義塾大のCOEの取り組みのまとめ、ということであり、オムニバス形式になっている。全般的にはやっつけ仕事という感じがそないではないものではあるが、2つの意味で面白かった。

1つは、Law&Econ.の視点から上手に法制度を分析しており、「へぇー、おもしろいなぁ」と思えるものがあったという面白さ。
いま1つは、法制度を経済学的に分析をしてはみているけれど、「噛み合ってないなぁ、なぜ噛み合ってないのかなぁ」と考えされられる面白さ。

実はもう1つ面白さがあって、全く経済学的な分析でもないし、法学的にも面白くないというという、「本書の目的を理解して書いてないぢゃん」っていう代物が含まれている面白さ。これは突っ込みをいれるには楽しいのだが、批判だけするのは好きじゃないんで省略。


■Law&Econ.による興味深い分析
利息制限の設定がまずいとかえって低所得者が苦労して追い込まれるよ、というあたりとまとめている、福井秀夫教授の執筆部分と、借家法の規定はかえって賃借のコストを上げてしまって若者や高齢者などの層も打撃を与えているよーというあたりをまとめている八代尚之教授の執筆部分は面白い。

どちらの法制も「弱者保護」が保護法益のひとつとして説明される。そうであるならば、上記の指摘は重要だろう。

ただ、それぞれの法制の保護法益が実は「弱者保護」じゃないんだよ、となると批判は当らない可能性がある。

例えば、利息制限に関しては、こういう考え方もありえるかもしれない。(あくまで仮想的な話だけど)
「リスクのある資金調達をさせて、何もかも手がなくなってしまって社会保障に逃げ込まれると社会にとって負担が大きいから、大怪我をして立ち直れなくことを阻止している。」
たとえば、低所得者の中には多重債務に陥ってもすぐに再生の道を選ぶことなく、生活がどん底になってようやく社会保障に救済を求める人が多い、という事情があって、もっと手前で再生の道を選んで欲しい、という価値判断をしているという、ということがその1例になる。

次に借地借家については、こういう考え方もありうる。
「地方によっては賃貸借家屋提供者が寡占状態になっている。その場合、契約の自由にゆだねていては、借り手との差が解消し得ない。そこで、法が介入している。」
もっとも、そんなの独占禁止法のスコープじゃん、といわれればそのとおりだし、全国一律でそのようなルール設定をする不合理は解消されない。

ついでに借地借家法に対する(本書ではない)一部の説明への疑問を述べる。一部の説明では貸主=強者、借主=弱者、という構図を描いているところもある。しかしこれは常にはあてはまらないように思う。相続で承継した1、2件の物件のみを持っている個人も貸主となりうる。

そういう背景事情を加味すれば、借地借家法での対処でなく、独占禁止など他の法律の観点からこの問題は検討されるべきではーとも思えなくもないのだが、専門外なので言及はこれくらいに。

■法律学と経済学が噛み合わない箇所
以上のように、面白い箇所もあったのだが、残念ながら、Law&Econ.をきちんと使えてないのではないかと思える箇所があった(注1)。「法と経済学ってなんかねー」というネガティブな声が存在する要因として、大きく3点上げられることがあるので、本書においてそのような箇所があるかを洗い出してみた。

(1)法律解釈が間違っている
経済学的視点からはおかしい!とおっしゃっている箇所が、実は法律の読み違い、という場合もあるようだ。これではガクっときてしまう。もっとも、この本ではそういう箇所はなかった…はずである。本書の場合、法学者と経済学者がコラボレーションしているのでそこのところは担保されている。

(2)経済学的に批判しなくてもいい場面で批判をしている
法学から見ても十分議論の対象となるところで、経済学を持ち出して、法学から見た見方はおかしいと主張されているかの様な箇所も見受けられる(注2)。確かに、一部の法解釈論ではドグマとも言えるところから出発して埒があかないような説明をされているものもある。それを批判するのに、経済学的なモデルによる分析は補強材料にはなるだろうが、クリティカルな批判とするには、議論が噛み合わない恐れがある。

(3)分析モデルが古い
高校の「政治経済」で見るようなモデルを提示されて、「ほら!こんな風に説明できます」なんていうものもあった(注3)。学生のレポートじゃないんだから、といいたくなってしまう。
古典的経済学のモデルからでなく、きちんとゲーム理論で分析してみろよと非難が世の中にはある。これは確かに当っていると思う。法律では情報の非対称や複数の立場の異なるプレイヤーの利益調整を問題として制度設計をすることが少なからずある。それなのに、情報の完備を前提とするモデルや2人ゲームモデルで分析されて、「ほらダメだ」なんていわれたらたまらない。情報不完備n人ゲームモデルで説明して、それでも法律または法解釈がおかしいといえるのかまで踏み込んで欲しい気がする。

とまぁ、こんな感じなのかなぁとは思うけれど、下を見たらきりがないし、自分の無学ぶりも披露する結果になっているであろうから、上を見ようってことでまとめておく。

(注1)じゃあお前が使えるのか、といわれれば、全くダメなので、えらそうな言い方であることは心苦しいのだが…。
(注2)例えば、八田達男=阿部泰隆「借家法」〔阿部泰隆執筆部分(第2節 借家法と契約自由の原則)〕『法と経済学 市場の質と日本経済』167頁は、現行の借地借家法解釈では老朽化した家屋であっても家主から更新拒否ができないかのような説明を行っている。しかし、家屋の老朽化に関しては借地借家法28条の「正当事由」の解釈論の問題として法学的な視点から十分議論可能であり、わざわざ経済学的視点に立ち入らなくても議論ができるように思う。法学から見た場合、老朽化して十分なペイが得られないという負担(場合によっては、維持コストが収入を上回ることもある)を所有者に負わせることを、「借主の生活の保障」を理由に正当化できるか、ということになると私は考える。
(注3)若杉隆平=若杉春枝=川本明「薬事制度」『法と経済学 市場の質と日本経済』48頁以下は、薬剤に関する特許とジェネリック医薬品の関係について単純な価格決定直線で説明されていた。そんなもん、グラフにせんでもわかるわい!というのが正直な感想。
posted by かんぞう at 00:33| Comment(2) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

[その他][書評]格差社会の根をちょっとだけ考える

■橘木俊詔『格差社会―何が問題なのか』 (岩波書店、2006年) 読書メモ

「格差社会」の中身を統計的分析によって示していく入門書。格差の切り口を、世代、職業の固定化、地域と言った点から整理している。それぞれの方が、それぞれに抱いている「格差」像が、かなり多様なものであるんだ、というのを認識し、議論を整理するのに適した本であるように思う。

また、かなり冷静な視点で記述されている点には好感が持てた。

興味深かった分析は次の3点。

・若者世代の「就業形態」「収入」格差が深刻であり、改善の必要がある。
・職業階層の固定化も進んでおり、これが格差を感じさせる要因になっている可能性がある。
・税を通じた富の再分配が、G8+北欧諸国の中で上手に行えていない。

もっとも、その主張部分については、
・なんで北欧とやたら比べるの?
という疑問が湧いた。

北欧は理想的なシステムを導入しているかもしれないが、若い頃は海外で過ごして、老後北欧に戻ってくる、という福祉へのフリーライダーが少なからず存在するという問題点もはらんでいる。

最後に、読んでいて抱いた私のぼんやりとした思いを羅列しておく。

・格差社会といわせる主観的な要素は「高齢化」かもね。
・若者の格差は将来を考えたら手を打たないとやばいよね。
・都市圏と地域の格差があるっていうけれど、統計的に見ると、都市圏のはずの関西圏が良い数字出してないなぁ。
・お医者さんって階層固定の度合いが高い気がするなぁ…。
posted by かんぞう at 19:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月23日

[知財一般]日本の技術を守るために、普遍的な技術を持つ人材の帰属意識を高める取り組みを!

産業構造審議会 知的財産政策部会に「技術情報の保護等の在り方に関する小委員会」が設けられた。

目的は、
技術情報の流出防止の観点から、企業等における技術情報の管理の現状や現在の技術情報の法的保護の有効性の検証等を行って官民それぞの課題を総点検し、技術情報の保護等の在り方について検討を行う

ところにあるようだ。

すでに不正競争防止法の改正により、法制度として技術情報保護が図られているが、その制度の点検という意味があるのだろう。作ったら作りっぱなしでない、という点は高く評価したい。

素人考えではあるが、日本の法制度面での抜け穴は無いように思われる。問題となるのは主に海外への流出だろう。懸念される流出先に技術情報保護法制の導入要求や、場合によっては法制策定支援を行うことがいるのではないだろうか。

運用の点については、経営サイドで改善すべき事項があるかもしれない。退職者の処遇についてである。

第1回小委員会の配布資料5「我が国における技術流出及び管理の実態について」に上がっている通り、ヒトからの流出、それも退職者からの流出は依然として大きな流出原因となっているようだ。

だからといって、一概に退職者による技術指導活動を禁止することはすべきでないと、私は考えている。技術情報は時に退職者の人格の一つになっていることがあるだろう。それを活用するな!ということは、あまりにも酷であろう。生きがいを失わせる場合もあるように思う。法的にも問題があって、「職業選択の自由」ないし「営業の自由」と言う点から、おそらく憲法上の問題をも生じさせる。

そうであるならば、退職者が問題となる流出を自発的に生じさせないようなインセンティブを設ける必要がある。「組織への帰属意識向上」や「継続雇用」への取り組みは、そのようなインセンティブの一つである。この観点から言えば、「猫も杓子もリストラ」という風潮は最悪であった。技術者の組織への帰属意識を削ぐのに十分であったと推測される。(言うのは簡単なので恐縮だが)多様な視点から評価できる仕組みによって、帰属意識を高める仕組みづくりを進めていってもらいたい。

ただ、退職者からの技術流出が本当に競争上の脅威となっているかについては、なお調査の余地がある。例えば中国を例に取ると、確かに、多くのOB人材が中国で技術指導を行い、結果として中国の製造業を中心として競争力が向上した。しかし、そうでなくても中国は競争力が増している過程でもあり、また、リバースエンジニアリング等を通じて得ていたものもあるだろう。

退職者から流れるのは、かつての技術情報である。必ずしも競争上の脅威に直結するものではない。問題は、ある程度普遍的な技術情報の流出であろう。そのような技術を持った人材を適切に確保する取り組みを行ってもらいたい。

なお、小委員会の情報は以下から入手できる。
《議事録、議事要旨、配布資料への入り口:経済産業省にリンク》
posted by かんぞう at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月09日

[その他][書評]本間義人『地域再生の条件』

●本間義人『地域再生の条件』岩波書店(2007年)読書メモ

地域の再生成功事例集と言える本で、どのようなことがポイントかの検討を行うのに一つの材料となるものと思われる。

リピーターを集める工夫をした横浜・元町、スローライフの場として棚田を都会の人々に貸し出す鴨川市、地元の良さを生かした町づくりをした会津若松など、いずれも自己の強みを、継続的に生かせる形で再生のきっかけをつかんだ事例が取り上げられている。

成功例に共通するものは、住民の自発的な取り組みと、地域として続けている要素が存在することである、と指摘している点は、うなずける(注1)。地域においてサステイナブルでない、キャッチーなテーマで再生できるほど甘くない、という感覚を抱いているが、本書も、そのことを示唆するもののように思えた。

ただし、この本の第1章、筆者の価値観を大きく反映した章については異論が多々ある。本書の切り口を示している章なのであるが、まず、「人権の尊重」こそ公の役割であるとした上(注2)で、そこからブレイクダウンし、「ノーマライゼーション」と「交通弱者の救済」が必須の条件である、とし、後者については再三のみに着目して第三セクターの鉄道を廃止することは「人権を損なうもの」と評価している。どうように「公営住宅」がないこともセーフティーネットの欠如としている。

ここでいう「人権」が何をさすのかわからないが、仮に「人間的な生活の保障」の意味での人権と捉えるなら「鉄道がないこと」や「公営住宅がないこと」は人権侵害に当たらない。鉄道については、バスなりタクシーなり代替手段の提供もあり得るし、運賃補助という手もある。思い切って白タク解禁を特区で唄うのもありかもしれない。住宅については、単に家賃補助をすれば良い。

以上のように筆者の価値判断の点において問題は感じるが、事例集としての価値はあるものと思われる。

(注1)なお、これに加えて本間教授は国の施策が地方の特性を生かしておらず画一的であったことを批判する。過去にあってはそうなのかもしれないが、現代においては、中央の取り組みに甘んじ、自らのレベルにブレイクダウンを行ってこなかった地方自治体が一部に存在していたことが要因の一つであるように思われる。
(注2)「人権」とまで持ち出す必要があるのか、という疑問点がまずあるのだが、これについては高齢の識者は比較的好みやすい議論の仕方なので一歩譲ることとする。
posted by かんぞう at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月24日

●[その他]産学連携の背景と今後―西村吉雄[2003]読書メモ―

西村吉雄『産学連携――「中央研究所の時代」を超えて』(日経BP社、2003年)読書メモ。

知的財産が深く関わってくる分野の一つに、産学連携がある。その産学連携の行方を追いかけるために、いったいどういう背景事情が作用したのか、ということも知っておきたかった。そこで、読んでみたのがこの本。エレクトロニクス研究からビジネス誌の編集者に転じた著者が、アメリカの事情にも分析を加えて、歴史的な推移をわかりやすくまとめている。

○この本の概要:産学連携へのニーズを生み出した、リニアモデルから技術と科学の相互作用モデルへの転換
まず西村は、利潤の源泉は、研究開発行為により、現在の価値を未来の価値体系につなげることだと述べる。言い換えれば、なんらかの知識を、ニーズに答える形で実用化すること、であるとする。この前提が正しいならば、研究開発には、知識を生み出すだけでなく、ニーズとの接点が必要となってくる。
しかし、20世紀においては「技術」の上流に「科学」が存在し、「科学」が成長すれば、自動的に「技術」が好転すると捉えられていた。その実現例がナイロンである。企業の研究室という、「科学」の世界から生まれたのがナイロンだった。企業はこれに倣って、「中央研究所」をこぞって作った。現場のニーズから遠い「中央研究所」が研究開発の中心となる時代が長く続くこととなった。
ところが、事態は半導体の時代となって変化する。あまりに高度化したため、専門的分業が望まれる。分業を進めるには、インターフェースさえ共通化すれば良い。「分業」が「中央研究所」の必要性を揺るがす契機となった。
この傾向は、コンピュータの世界で顕著に進み、「中央研究所」を持たないインテル社の成功が、大きなインパクトを持つこととなる。初のマイクロプロセッサ404は、大学の知識と技術の現場と深く接点を持っていたための産物だった。西村は、これを科学と技術が対等になったと評価している。(そして、一時期日本が「アメリカの基礎研究のただ乗り」をしていると批判していることが当たらないと反論している)
インテルの成功は産学連携のベストプラクティスモデルとなった。大学は異なる知が出会う場面であり、ニーズとの接点さえあれば、新たな研究開発の可能性を秘めていることを、西村は指摘するのである。

○この本を読んで:大学のあり方をどうするか?
歴史的経緯から、よい産学連携のあり方の一つを推測するなら、企業の技術者が大学と深く関わっている、あるいは、交流の場面がある、というものがあげられるだろう。他方、無理無理に大学の知識を、大学がビジネス化する、というのは、歴史的にみれば異質、ということになる。
後者の方向性も産学連携と捉えられているようだが、意味合いとしては大学の外部資金の方策の一つであり、区別して考える必要もあるのではないかと思う。
posted by かんぞう at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

[その他][民法]射倖契約と有意義な棘

●森田果(もりた・はつる)「射倖契約はなぜ違法なのか」NBL849号(2007年)35頁以下 ざっと読書メモ

知財の話題ではないが、刺激的な内容であり、また、学ばされるところもあった論文。若手の力のある学者の書いた生きのいい論文で、切れ味が鋭い。なにより面白い(interestingとamusingの両方の意味で(笑))。

1.論文のえー加減な概略(門外漢なのでまともにまとめる能力も無いが)
「射倖契約」、すなわち、「偶然の利益を得ることを目的とする契約」(『大辞林』より)は、公序良俗に反するとの処理が日本ではなされてきた。では、なぜ違法(あるいは公序良俗に反する)といえるのか。
この説明をするのに、フランス法での議論を用いるべきだという意見がある。フランス法での分析によれば、「偶然性」が、違法性の論拠だというのである。
しかし、これは説明になっていない。偶然性を言うならば、保険契約もデリバティブ契約も偶然性をもつものである。そうであるならば、違法性の論拠は他に見出さざるを得ない。
ここで、ファイナンスの視点から分析を加えると、興味深いことが分かる。保険契約やデリバティブは、当事者がリスクを避ける選好を有するときに合理的なものである。同時に、射倖契約である賭博契約も当事者がリスクを好む場合には合理的なものなのである。
しかし、後者は当事者の中で合理性があっても社会的効用をもたらさず、また、派生する効果の懸念から、禁止されているものと考えられる。

2.感想
本論もさることながら、「比較法をやったからって、なんでもかんでも使いたがっちゃダメ。使えなかったら捨てる勇気を。」という趣旨のメッセージがあり、身につまされた(もっとも、私の場合は日本法で調べたことを何でも載せたがる、という傾向があることに対する反省である。比較法すら出来ていない努力・能力不足の輩である)。
ところでこれは、第70回私法学会の個別報告で大盛り上がりを見せたやり取りがあったようなのだが(私はそのやり取りの場にいなかったが、参加していた先輩から聞いた)、その当事者からの論稿である。それゆえ、相手方への鋭いとげがしっかり埋め込まれている。
ちなみにハツル先生のブログによると、NBLの検閲…ではなく自主規制がかかった論文らしい。あれで、マイルドなのか!?と思う(笑)
posted by かんぞう at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月25日

[その他][パブリシティ]パブリシティについての内藤説

●内藤篤「標識法としてのパブリシティ権の限界:ブブカアイドル訴訟判決を読む」判例タイムズ1214号(2006年)19頁以下 読書メモ

パブリシティに関する問題に造詣が深い内藤先生の、パブリシティ権への切り口についての考え方がわかりやすい言葉で時に面白く書かれている論稿である。ちょっとした遊び心が含まれているあたりが個人的に好み。

1.この論文の概要
(1)ブブカアイドル訴訟判決への評価
〔ブブカ2002事件地裁判決〕(東京地判平成16年7月14日判タ1180号232頁)は、顧客吸引力に着目しながら、その利用行為態様を総合判断するアプローチを取っている。、同様の手法は、〔ブブカ2002事件高裁判決〕(東京高判平成18年4月26日判タ1214号91頁)にも用いられていると考えられる。この方法は、主観的・恣意的なものにとどまる。現に、両判決の認定の違いがその問題を浮き彫りにしている(25頁)。
他方、〔ブブカ2003事件〕(東京地裁平成17年8月31日判タ1208号247頁)は、情報の事由流通を確保する見地から、著名人の顧客吸引力を根拠に著名人に関する情報をコントロールできないとした。この一般論については、看過できないパブリシティ権侵害に対処できないことから問題であると考える(25頁)。
では、いかなる判断基準を取るべきか。その前提として、パブリシティ権の位置づけを次のように捉える。

(2)パブリシティ権の位置づけに対する考え方
パブリシティ権の発端は著名人の宣伝推奨機能にあったが、現在は、商品化事業にも用いられている(例えば、タレントグッズ)。同様に商標も多量の宣伝等によりそれ自体が財産的価値を持ち、商品化事業のコアとして機能している。社会通念として、両者の機能は変わらない。ここから、標識法としてパブリシティ権を考えることが出来るのではないかと考えられる(27頁)(方向性を同じくするものとして、井上由里子「『パブリシティ権』と標識法体系」日本工業所有権法学会報25号(2001年)37頁)。(なお、パブシティ権については、人格権を基礎とするものという考えが有力であるが、少なくとも〔ギャロップレーサー事件最高裁判決〕最判平成16年2月13日民集58巻2号311頁では、人格権を基礎とする旨の言及は無い。(19頁脚注(2)))
標識法と考えた場合、標識性の冒用が規制対象となるが、具体的には顧客吸引力の利用という実質があるか否かが判断基準となる。

(3)パブリシティ権侵害の判断基準
パブリシティ権が問題となる場面が多様であるため、判断基準は相関的・総合的なアプローチにならざるを得ない(29頁)。この点について具体化すると、「広告・宣伝における使用の態様」(広告で特定の顧客吸引力をイチオシか)(この点に関して、内藤篤=田代貞之『パブリシティ権概説 第2版』(木鐸社、2005年)338頁の記述が若干改められることとなる)、「商品それ自体における使用の態様」(商品として特定の顧客吸引力をイチオシか)であると考えられる(30頁)。この考えからは、多数の顧客吸引力を満遍なく使う場合にはパブリシティ権侵害と構成できないが、これは標識性を出発点とする以上やむをえないことである(31頁)。

2.感想
この論文のミソは、顧客吸引力の持つ標識性を基礎としたパブリシティ理論のひとつである内藤説の、最新の修正説であるという点にある。もっとも、この論文や内藤先生の本の読み込みが足りないせいか、なぜ(3)のような判断基準に至るのかが分からなかった。ともかくも、この見解はパブリシティ権を考えていく上で重要な軸の一つと思われるため、今後もこの見解には注目したい。
ところでこの論文で示したロジックに立つと、いわゆる物のパブリシティもありうることとなるように思われた(人格を基礎にしていないからであり、かつ、人格の制約について触れていないからである)。この点については、今後さらに見解が示されることを期待したい。
なお、瑣末な点であるが、〔ブブカ2002事件地裁判決〕〔ブブカ2002事件高裁判決〕のアプローチへの批判として、総合判断アプローチの端緒である〔キングクリムゾン事件控訴審〕(東京高判平成11年2月24日(判例集未登載)(LEX/DB未登載))との事案の違いを一つの論拠にされている点(23頁)はおかしいと思う。いずれの事件も判断基準についてキングクリムゾン事件を引用しているわけでない。異なる事案においてキングクリムゾン事件での判断基準と同様の判断基準を「初めて」用いただけとも思えるのである。

なお、この論文では、従来の裁判例を検討したとき、パブリシティ権の主体の「セクシーさ」が結果に重大な影響を与えているのではないか、と軽妙な冗談がなされている。この仕掛けが素敵である。
posted by かんぞう at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月21日

[時事][著作権]未知の利用にかかる実演家の著作隣接権の報償請求権化?

新聞報道(朝日新聞2007年1月21日《asahi.comへのリンク》(リンク切れとなる可能性あり))によると、知的財産戦略本部が、テレビ放送用の番組について、いわゆるビデオポッドキャスティングとして再利用する際に、出演者の著作隣接権に関してその許諾を得なくても良い方向で検討するようだ。

この問題も、「未知の利用」に関する検討課題の一つである。対象行為をポッドキャストに絞るのか、対象を実演家の著作隣接権に絞るのか、今後注目される。おそらく報償請求権としての方向で検討されるのだろうと思っている。

しかし、検索サービスについては経済産業省が、ビデオポッドキャストについては知財戦略本部が、それぞれ文化庁の所管する著作権法について提言しているわけである。それぞれの動きが面白い。
posted by かんぞう at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月17日

[商標]ひよこ立体商標事件知財高裁判決の意義を探ってみた

〔ひよこ立体商標事件控訴審〕(知財高判平成18年11月29日(判例集未登載)平成17年(行ケ)第10673号)の意義とは何かを整理する。

1. 基本構造
「立体商標」について〔特殊事情〕、「普通に用いられる方法で表示する標章のみからなる」商標(商標法3条1項3号)ではあるが〔論点1〕、「使用をされた結果需要者が何人かの業務に係る商品又は役務であることを認識することができるもの」(商標法3条2項)に当たるか〔論点2〕が争われた事案である。
事案においては〔論点1〕については争っていないが、「立体商標」との関連で議論があるところであるので、理論面の理解を深めるための参考として触れる。

2. 商標法3条1項3項〔論点1〕と立体商標〔特殊事情〕
(1)学説
「普通に用いられる方法で表示する標章」が、立体商標の場合にどのように解釈されるかには、議論があり、次の2説がある。
(i)意匠法との調整必要説
立体商標が、もっぱら標章として用いられる物に限らず、商品についても対象となるため、意匠法を中心とする知的財産法の意義を没却しかねない(注1)。であるならば、機能的な点あるいは意匠的な点から「普通である」ものを除外すべき、と考えることが出来る。具体的に、「用途、機能から予想し難いような特異な形態や特別な印象を与える装飾的形状等を備えている」(〔筆記具立体商標事件〕東京高裁平成12年12月21日判例時報1746号129頁)もののみを対象とすべき、と述べるものもある(注2)。
(ii)意匠法との調整不要説
しかし、3号の列挙事由に鑑みれば、機能的な形態のみを対象としていると読めること、意匠的な観点からの「普通」が観念できないこと(注3)を理由に、同号を(1)のように読む必要が無いとする見解もある(注4)。この見解からは、機能的な観点から「普通である」ものが除外されることとなる。

(2)理論面の検討
制度間調整の必要性については意匠が関係する局面では、しばしば問われるものであり、実際著作権との間では調整が図られている(注5)。意匠法の趣旨を没却しかねないことは見逃しがたく、(i)意匠法との調整必要説に立つ見解に妥当性があろう。
理論的な面から、「普通」であることを分析すれば、「他にもある」という意味の「普通」と、「競争上不都合を生じさせる」という意味の「普通」があると考えられる。後者の意味がある以上、(ii)意匠法との調整不要説が言う点は当たらないのではなかろうか。

(3)本事案の検討
本事案は「他にもある」表示であることを理由に3条1項3号の認定において出所識別性が無い、とされている。指定商品が「まんじゅう」であるため、機能的な形状というのはおそらく「まるい」という点くらいに限られよう。そうであるなら、本事案は意匠的な観点から「普通である」と判断されたものと考えられ、(i)意匠法との調整必要説に立つ事案であると考えられる。
この点については、従来の裁判例と変わるところは無い。また、理論的にも適切であると考えられる。

(注1)厳密にはどういう点が、を明らかにしなくてはならない。今後の課題とする。
(注2)この考えを支持するものとして、三山峻司「〔筆記具立体商標事件〕判批」判評514号(2001年)38頁。特異な形態とまでは述べていないが、審査基準は立体商標につき登録の対象となるものを限定的に捉えているようである。
(注3)後掲の渋谷教授の指摘する点を誤解している可能性があるので、少なくとも管見として、という留保を付す。今後精査する。
(注4)渋谷達紀「商品形態の商標登録」紋谷暢男教授還暦記念(発明協会、1998年)321頁。
(注5)応用美術の問題として取り扱われている。

3. 商標法3条2項〔論点2〕と立体商標〔特殊事情〕
(1)論点の整理
3条2項を巡っては、更に細かく論点がある。「使用された結果…」の解釈〔論点2−1〕と、立体商標と文字標章との関係を巡る点〔論点2−2〕である。

(2)「使用された結果」の解釈〔論点2−1〕
(i)周知性要求説
出所識別性を欠く標章を例外的に保護する制度であることに鑑みれば、自他識別機能が十分に発揮されていることが必要であるという立場に立ち、全国的な周知性を求める(注6)。
(ii)周知性不要説
他方、文理上周知性が読み取れないことから、「現実的な」識別力のみを問題にする見解も存在する(注7)。この立場からは、標章が本来的にもつ識別力によって分けており、識別力が極めて乏しいものならば全国的な周知性を求めるものの、多少識別力があるものならば、使用による現実的な識別力獲得を問題にすれば良いとしている。

(3)立体商標と文字標章との関係を巡る点〔論点2−2〕
立体商標は言語性を欠くため、言語つまり文字標章と組み合わされたときの識別力認定には見解が分かれ得るところである。
この点については、立体商標としての独立の自他識別性を求めることで一致しているものと窺える(注8)。

(4)理論面の検討
識別力の余地があるとはいえ、3条1項3号の解釈について、(i)意匠法との調整必要説を採ったがために否定されたような場合であれば、識別力を相当高度に求める、もしくは、3条2項の適用を限定的に解するのが整合的であると考えられる(注9)。

(5)本事案の検討
〔論点2−2〕については、本件では文字標章を含まないことから、自明の点であるが、周知性の認定において大きく影響している。審決では文字標章による出所識別力の高さも含めた周知性認定が行われていたようなのである。
話が前後するが、〔論点2−1〕については「周知性」を問題にしていることから、(i)周知性要求説に立っている。これは過去の裁判例も採るところであり、目新しいものではない。
唯一独自性がある箇所かもしれないと思われるところは(注10)、大量の広告を行っていても「他にもある」「普通な」ものであるが故に、周知性を否定している点である。商品形態に関わる立体商標ゆえの判断基準なのであろう。

(注6)田村善之『商標法概説 第2版』ほか。
(注7)平尾正樹『商標法』(学陽書房、2002年)130頁−131頁。
(注8)東京高判平成13年7月17日判例時報1769号(2001年)98頁。
(注9)本当か?という突っ込みが入りそうなので、とりあえずの考え(下手の考え)として…。
(注10)要は、本当に独自か検討できてないのである…。反省。

4. 結論
理論的には従来の裁判例や有力な学説に沿ったもので目新しさは無い(FJneo1994さん《企業法務戦士の雑感》「[企業法務][知財] 立体商標の行く末」が指摘している。)
以前、感想として触れたように判決文が目新しいもの…と今のところは結論付けておく。
posted by かんぞう at 01:18| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

[その他]論文を書く上で学んだこと

分量だけは論文並みの「論文まがい」(笑)を書いてみて、いろいろと勉強になった。終わってみるとできなかったなぁという点を列挙してみる。

構成面では、2点。
「問い」に対する答えを示すものが論文の基礎だということを常に意識する必要がある。そして、その答えを示すために、さらに「問い」が派生するが、派生したそれぞれの問いの必要性を十分に吟味しなければならない。

表現面では、3点。
接続詞は答えを導く過程で、読み手がその過程をたどるのに重要。だからこそ、接続詞において、「この点」という接続詞は使うべきでない。「この点」は「この点については」「しかし」と置き換えられる。論理的なつながりについて思考停止をする危険な言葉になる。(もっともこれは会社法の伊藤先生の受け売りである。)
次は、表記。「できる」「いう」「うる」など、表記ゆれは読みにくくなる一つの要因となる。書き始めるときにどちらに統一するかを決めて書き始めることが望ましい。
最後に改行の位置。これだけで、論理構造がわかりやすくもわかりにくくもなる。できれば1つのことを表現するのが1段落としておきたい。
posted by かんぞう at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月03日

[不法行為][不正競争]胃潰瘍治療薬カプセル事件(仮名)─不法行為成否につき自由競争の優越を明示した事案

知財高判平成18年9月28日平成18(ネ)10009は、少しだけ気になる判決であった。
不正競争で保護されない形態につき不法行為の成否が争われたが、
「しかしながら,一般に,経済活動ないし取引行為は法令等による規制に抵触
しない限り,原則としてこれを自由に行うことができるものというべきである。」
と指摘する。近時の知財高裁には珍しく、「例外」の検討をしていない。衡量問題として、相当の優越を示したものとも理解できるかもしれない。
posted by かんぞう at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。