2008年03月24日

[著作権]インド著作権法に関する覚え書き

必要があってインド著作権法を調べていると日本法と異なるところが少なからずある。
おもしろかったので、覚え書き程度に書き留めてみた(注1)。

■立法上の相違点
□貸与権の対象がプログラムの著作物に限定

インド著作権法は著作物の類型ごとに著作権の権利内容(支分権)を規定している。その中で貸与権に該当する権利はプログラムの著作物にしか与えられていない(14条(b)(ii))。
日本において貸与権は貸レコード対策として立法され、その後著作物一般を対象とする支分権とされたものと説明されるが、インドでも同様にレンタルソフト対策として規定されたのであろうか。その立法過程が知りたいところである。
なお、同号但し書きはプログラムを貸与の本質的目的としない貸与には及ばない旨を規定している。

□著作権譲渡は原則時限譲渡
インド著作権法は著作権譲渡にあたって書面での契約を要求しているが、その中で譲渡の期間を定めないと5年の譲渡であるとみなされる(19条5項)。
このような立法例は管見の限り主要国で見られない。
利用許諾でなく譲渡契約の期間を限る理由はどこにあるのであろうか。

■余談:私の誤解

インド著作権法を調べている中で、恥ずかしながら、大きな発見が2つあった。

□英米法だって著作者人格権の規定がある
「英米法は著作者人格権の規定が無く、一般人格権で処理している」と妄信していたのだが、インド著作権法第4章にはばっちり著作者人格権の規定がある。インドはイギリス法を継受している点が多いので、イギリス著作権法を調べてみると、これまたばっちり規定があった。
これは、ベルヌ条約に批准した影響であるようだ(注2)。
歴史的な経緯としては正しいのだろうが、現状もそうだと理解していた自分が恥ずかしい。

□著作権の譲渡には書面性が要求される立法が多い
上にも挙げたようにインド著作権法は著作権の譲渡に書面性を要求している。
特異な例かと思いきや、アメリカ、イギリス、フランスも同様の規定があった。
著作権の譲渡契約が支分権ごとや、地域的範囲などを限定した契約がなされること(つまり細分化されること)がしばしばあるという実務状況を反映し、紛争の防止のためこのような規定が設けられていると考えられる。
日本においても平成17年に書面性の要求について検討がなされていたが、
 ○我が国では主要な契約は諾成契約であり、著作権譲渡契約のみ要式契約とする合理的理由が見いだせない
 ○自由心証主義のもとに契約締結の事実についての認定が行われた方が妥当な解決を図ることができる
 ○些細な著作権譲渡に要式性を求めるのは煩雑
 ○弱者保護の観点は下請法で達成している
との理由で否定的な結論が下されている(注3)。

■参考
インド著作権庁(人的資源開発省中等・高等教育局)
http://copyright.gov.in/

社団法人著作権情報センター>外国著作権法>インド編(山本隆司・岡雅子共訳)
http://www.cric.or.jp/gaikoku/india/india.html


(注1)なお、私は2月段階にこれを調べたのだが、わずか1ヶ月後、日本語訳がCRICから公表された…。なんとムナシイ。
(注2)神繁司「ギリス新著作権法寸描」カレントアウェアネスNo.128(1990年) http://current.ndl.go.jp/ca658
(注3)文化審議会著作権分科会法制問題小委員会契約・利用ワーキングチーム「文化審議会著作権分科会法制問題小委員会契約・利用ワーキングチーム検討結果報告」 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/013/05072901/003.htm
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2008年03月03日

[著作権]行政目的の複製に対する複製権の制限(著作権法42条1項)に公衆送信権は含まれると解するべきか?

〔社会保険庁LAN雑誌記事事件〕東京地判平成20年2月26日(判例集未搭載)平成19年(ワ)第15231号(※設樂コート)は、著作権法42条の興味深い論点を示している。

■事案の概要
被告(国)の設置した社会保険庁内のLAN(利用者:社会保険庁全職員約17000人)に、原告が著作権を有する雑誌記事(社会保険庁に対する苦情に関するものであった)を掲載したことが、原告の当該著作物にかかる複製権または公衆送信権を侵害するものとして争われた事案。
被告は、複製権侵害の主張に対しては著作権法42条1項(行政目的の複製に対する複製権の制限)に該当するとし、公衆送信権侵害の主張に対しては、文言上著作権法42条には公衆送信権は含まれないが、その趣旨を没却しないためにも、公衆送信権が同条の対象に含まれると解釈するべきと述べていた。
他方原告は、複製権侵害の主張に対する抗弁への反論として、「国家意思等を決定するに必要であり、その著作物を複製しなければ行政の目的を十全に達成できないような場合でなくてはならない」と述べていた。

■判旨(42条1項の該当性について)
「42条1項は,…(中略)…特定の場合に,著作物の複製行為が複製権侵害とならないことを認めた規定であり,この規定が公衆送信(自動公衆送信の場合の送信可能化を含む。)を行う権利の侵害行為について適用されないことは明らかである。」
「また,42条1項は,行政目的の内部資料として必要な限度において,複製行為を制限的に許容したのであるから,本件LANシステムに本件著作物を記録し,社会保険庁…(中略)…及び社会保険事務所内の多数の者の求めに応じ自動的に公衆送信を行うことを可能にした本件記録行為については,実質的にみても,42条1項を拡張的に適用する余地がないことは明らかである」


■考察
本事案は42条1項にいう「行政目的」の該当性について判断する機会であったが、判決はその判断を避けている。42条の文言上公衆送信権が含まれていないことから、公衆送信権は同条の対象外と述べた上で、公衆送信権の侵害を認定して原告の請求に応えている。

しかし、これには疑問がある。

42条1項の文言上公衆送信権が含まれていないことは間違いないが、複製と公衆送信の違いを区分する必要性があるのだろうか。仮に行政内部において公衆送信可能化することにより当該情報を受領する者の数が増えることを問題にしているのであれば、同条但し書きに言う、
「当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない」

に該当するとして同条の適用を否定すればいいのではないか。
このような判断の背景には、あるいは30条以下は限定列挙であるから限定的に解釈しなければならないという考えがあるのかもしれない。しかし、そのような一般的な命題には異論のあるところである(注1)。

もっとも、判決が本件行為について「実質的に見ても,42条1項を拡張的に適用する余地がない」と述べていることに鑑みれば、行為態様によっては同条が公衆送信に拡張して適用される可能性もある。
しかし、仮にそのような意図であるとすれば、42条1項但し書きに照らし、本件行為が不当な利益を害するものか否か、判決は丁寧に述べているはずである。おそらくそのような読み方は出来ないのであろう。

■余談
余談になるが、執務の参考情報として行政が著作物を共有する場合、著作権者への許諾が必要…となると、そのライセンス料契約は『随意契約』となる。これって大変な手間では…などと余計な心配もしてしまう。

(注1)総論的にそのように触れるものとして中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)241頁。なお、42条1項にいう行政目的を限定的に解するべきと述べるもの(本件原告の主張である)として、加戸守行『著作権法逐条講義 四訂新版』(著作権情報センター、2003年)283頁。
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2008年01月19日

[著作権]コンテンツ産業への投資誘導施策は有効かもしれない

読売新聞2008年1月17日(東京版)に掲載された、土井宏文「著作権投資に減税を」は興味深い施策提起をしていた。

■論稿の概要
土井さんのロジックは次のようにまとめられる。
日本のコンテンツ産業は、(1)海外進出不足、(2)関与者による権益確保に起因する流通モデル革新の遅れ、(3)コンテンツ産業関係者の資金調達手法への理解不足、が課題である。それを解決しコンテンツ産業を振興するためには、国が直接投資を行うよりは、多くの諸外国が導入するようにコンテンツ産業への投資優遇税制をとるべきである。そうすると、(1)、(2)の解決につながるのではないか。

■コンテンツ産業への投資優遇税制策への私見
私はこの案に賛同したい。
知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会で議論されているところによると、現状のコンテンツ産業は、(1)条件の良くない創作環境、(2)プロデューサー人材の不足、(3)資金不足が課題であるとのことである。
(2)に対しては、政府は関連する大学の整備を押し進めているようであるから、あるいは解消されるのかもしれない(もっとも、私は、(1)の解消でそのような人材が自ずと集まると思うのだが)。
(1)は土井さんが問題とするように、流通モデルの問題に起因するところもあるように思われる。流通サイドは、流通チャンネルを限定することでクリエーターに対して自己の立場を優位に立つことが(理論上は)できる。それゆえ、流通モデルを革新させないインセンティブがある。
残された課題の(3)には投資優遇税制という解決策は効果的である。投資者がガバナンスを働かせる余地が生じ、流通モデル刷新や、クリエーターの創作インセンティブ向上策を働きかける可能性が生まれるように思う。

■留保したい点と注意点?
もっとも、同論稿では、「多くの国がコンテンツ産業への投資の優遇策を行っている」と述べていたが、これはどこまで正確なのだろうか。私は正確に把握していないので恐縮だが、少なくとも筆者が挙げていた英国、ドイツ、フランス、カナダでは、映画産業への優遇策を設けており、その中に投資優遇策が含まれていることは間違いなさそうである。

しかし、「コンテンツ産業」すべてに対して、ということは管見の限り見当たっていない。
上記の優遇策は、権力者あるいは国民の映画産業へのノスタルジーが生んだ政策である可能性や、映画産業と言うロビイストの活動の成果である可能性もある。諸手を上げて倣うべきというには精査が必要であると思う。

また、優遇税制は他国の制作現場に悪影響を与えかねず、国際問題となることもあるようだ(注1)。導入するならばそれなりの覚悟はいるのだろう。

(注1)たとえば、カナダの映画への優遇税制はハリウッドを害するものとしてアメリカから不満が挙っているという。なお、"Canadian province to extend film tax incentvies" Returners (2007/10/19)最終段参照。
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2008年01月06日

[著作権][やるべきこと]著作権と憲法に関する論稿

奥村弁護士のブログ「奥村徹弁護士の見解」(2007年3月9日記事)で紹介されていた、
大林啓吾「表現の自由と著作権に関する憲法的考察――判例法理の批判から新たな議論の展開へ」大沢秀介『東アジアにおけるアメリカ憲法 憲法裁判の影響を中心に』(慶應義塾大学出版会、2006年)
は面白そう。

奥村先生がまとめるところによると、日本の判例が著作権と表現の自由の関係について触れるところがないことを問題視されているようだ。

この指摘に対しては、
・日本の裁判例において、原告が著作権法上の規定に対し違憲の可能性を述べていたにもかかわらず黙殺された例が多いのか(逆に言うと、著者の主張に対しては「単に原告側から憲法上の問題が持ち出されなかっただけでは?」とも思う。)
という点が特に知りたい。
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2007年12月14日

[著作権]私的複製の範囲の行方

文化庁文化審議会著作権分科会私的録音録画小委員会がまとめた中間報告に対するパブリックコメント結果が、「私的録音録画小委員会中間整理に関する意見募集の結果について」として公表されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/020/07112907/002.pdf

ざっと見ただけの段階であるが、気になったことをコメントしたい。

私は「違法サイトからのダウンロード違法化」という流れには、少々懸念している。

■違法サイトとの峻別について
いちおう「明白に違法な複製物」という限定を付す方向であるが、その峻別方法として、日本レコード協会は「違法サイトと適法サイトを峻別するマーク」を提案されているが、少なくとも下記の2点には対応する必要があるのではないだろうか。

「本来著作権の対象でないものを頒布するサイトに対して違法とマークすること」
「本来違法な複製物を頒布するサイトが勝手に適法マークを付すこと」

前者は、マークに対する信用性が高ければ高いほど、これを野放しにすることで表現の自由を損なう可能性があるし、後者は、マークへの信頼性を低下させ、峻別方法が不明確となった結果、ダウンロード行為一般を萎縮させる可能性がある。

もっとも、マークへの信用が低下した結果、「明白に違法でない」という認定につながるのであれば、利用者が被る不利益は懸念されるものでなくなるだろう。ただし、その場合、違法サイトからのダウンロード違法化は単なるメッセージ的な規定となるに留まる。
レコード協会が指摘されるように、本問題の根がモラルの問題であるならば、そのようなメッセージ的な規定と解釈をすることでも十分なようにも思える。

罰則について
中間報告案は罰則を適用しないことを提言している。

これに対し、日本国際映画著作権協会などは疑問を呈している。
しかし、仮に罰則を適用しても、果たして、権利者の望む運用がされるかについては疑問である。多数の「犯罪者」を出すような解釈をすることを裁判所がためらわないだろうか。刑事罰対象としたために「明白に違法でない」と認定する範囲が多くなるかもしれないと思えてしまう。
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2007年11月19日

[著作権]著作権制度を巡る望ましさ―私的複製の範囲の制限と、「権利表示」の適正化―

■録音・録画物の複製物のダウンロードを私的複製の範囲から除くことの評価
先月、文化庁著作権審議会私的録音録画補償金制度検討小委員会の中間報告が発表され、違法に公衆送信された録音・録画物の複製物のダウンロード行為を私的複製の対象から外すことが提言として織り込まれた。

違法複製物のダウンロード行為を私的複製の範囲から外す最大の理由は、その規範的な問題点にあると思われるが、提言は録音・録画物に敢えて対象を絞っている。限定した根拠を中間報告から探ると、「経済的被害の深刻さ」にあるのだろう(注1)。

この点について穿った見方をすれば、「経済的被害の深刻さ」があるからこそ、私的領域まで権利を及ぼすことが許容されているのであり、公衆の表現活動の保障と、著作活動のインセンティブとの間のきわめて微妙なバランスの位置にあるように見える。

もちろん、まだ提言段階であり、どのような態様のダウンロード行為が私的複製の対象外とされるかわからないが、ここでは、著作権を侵害して複製された複製物の、故意または重過失によるダウンロード行為が私的複製の範囲外とされることを想定して考えてみた。

■提言により生じる懸念
もし、きわめて微妙なバランスの上に成り立っているとするならば、これにより損なわれる他の利益への配慮も行われるほうが望ましいように思われる。

一部の著作物に限り、また、対象となる行為が「ダウンロード」であるとはいえ、私的複製の範囲が減少することで、公衆に与える影響は少なくないものと私は考える。

私は、パブリックドメインとなった著作物についても、何者かが権利主張をし、その結果、公衆の利用阻害となることの弊害を懸念している。

懸念する状況は次のようなものだ。

ダウンロードするに当たり、「違法でない」ことを利用者が確保するためには、主にウェブを通じて、(i)対象となる著作物に係る著作権(もっとも、著作権のうち一部を譲渡することもあろうから、公衆送信権が対象となろう)を有する者を探し、(ii)その者が、自由利用を許諾しているか、あるいは、当該著作物がアップロードサイトを通じた公衆送信を許容しているか、を確認することになろう。
(著作権には(プログラム著作物を除き)登録制度がないため、利用者は著作権者と思われる者の表示を信じることになろう(注2))

このモデルが正しい場合、(a)真の著作権者は自由利用を許諾しているが、著作権者でない者が権利者であるかのような表示を行っている、(b)パブリックドメインとなったにもかかわらず、創作者が著作権を有するかのような表示を行っている、時に、公衆は本来利用できるはずの著作物を利用できない状況が事実上生じてしまう(注3)。創作活動を阻害につながることも十分考えられる。

もちろん、このような状況は、これまでもありえた訳であるが、従来は私的複製の範囲にある限り複製が出来たので、弊害がそれほどまでに顕在化していなかったと考えられる。

しかし、中間報告が提言する(注4)ように、(録音・録画物に限るとはいえ)著作物の複製物のダウンロードを私的複製から除くと、このような状況が顕在化することが懸念される。

■懸念への対処
上記の懸念への対処としてそれぞれ検討する。

(a)に対しては、虚偽の権利者表示であるが、「著作者名」を偽っていると評価できれば著作権法121条での対処や、著作者人格権侵害に基づく対処が考えられるが、そうでないならば何もできない。

ただし、真の著作権者に本来向けられるべき著作物利用の諾否のアクセスが行わなくなることなどが想定でき、真の著作権者に対する一般不法行為とされる可能性がある。

(b)に対しては、法的手段は考えにくい。

先に述べたように、弊害があることは述べた。では、どうすべきか。

たとえば、誤った著作権の存否、帰属に関する表示に対して公衆からの差止請求を認める、あるいは、さらに踏み込んで刑事的規制を加えるという手もある(しかし、表示が法的には意味を持たないことから刑事的規制は不自然であろう)。

もちろん、この方策はあくまで「望ましい」著作権制度についていうものであり、理論的に必要というものではない。
内容としてはあまりに突飛な意見かもしれないが、私的領域へ著作権が入り込む今、見直す部分は大きいように思えるのである。もっとも、誰もそんなこと言ってないので、実はクリティカルな間違いをしているかも…とも思っている。その場合はやさしく(笑)教えていただきたい。

(注1)しかし、その被害が本当に深刻であるのかについて疑問を呈する見解もある。たとえば、慶應義塾大学の田中辰雄准教授の研究は、ファイル共有ソフトのユーザーはそもそも潜在的消費者でない可能性を示している。また、中間報告のような書きぶりが、情緒的に過ぎるという旨の批判が小委員会の委員からもなされている。
(注2)私的な範囲の利用の場合、その真偽を確かめるだけのコストをかけることは事実上困難だろう、との推測が前提として存在する。
(注3)もちろん、法令遵守を前提とする限りである。私は、あまりに身近に違法領域ができることは、かえって著作権を守ろうとする意識の低下を生むのでは…とも懸念している。
(注4)厳密には、委員の多くがオーソライズした、というべきだろうか
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2007年09月28日

[著作権]文化芸術だけを守るものかどうか

岡本薫「国際政治問題になった著作権」時の法令1787号(2007年)26頁以下読書メモ

岩波新書『著作権の考え方』で、率直な見解を述べられたことで有名な岡本薫、元・著作権課長のエッセイが載っていた。面白いものだったのでちょこっと紹介…。

■エッセイの概要
著作権は、近時、経済問題としての性質を帯びてきたと岡本さんは述べられている。その要因として3点を指摘されている。具体的には、産業と深く結びついた著作物が登場したこと、媒体が多様化し産業と深く結びついた媒体が一般化してきたこと、伝達経路も多様化し、その伝達経路が産業と結びついていること、の3つを挙げられている。
各国においても著作権を所管する省庁として経済系省庁が登場することが多くなっていることを挙げ、著作権が産業経済と関わりを深めつつ有ることを窺わせている。
さらに、経済問題が国際政治問題の中心となっている近時の傾向を挙げ、著作権も同様に国際政治の問題、つまり自国利益の確保が主要な関心に変化したと述べられている。
そして、これらの傾向はベルヌ条約設立当時の目的から離れていった、と指摘をされている。

■私見
おおよその方向性については共感を覚える。
著作物が有力な経済上の財貨である以上、ビジネスルールとして取り扱われるようになるのは、当然の成り行きだと思う。
もっとも、正直なところを言うと、元々の出自はビジネスルールにちかいところだったんじゃないか、とも感じているが…。
頭の整理ができていないが、私は、特定の事業法に近いものであった著作権が、技術の進歩で複数の事業にまたがるようになり、競争(の調整)法としての性質をもたざるを得なくなってきたと考えている。
このような変化を著作権の変化として受け入れるか、断固拒否するかは、岡本さんが指摘するように個々人の価値判断とそれらの総体である民主的な判断にゆだねられると思う。しかし、法解釈の上で、感情レベルの話として、「経済問題」としての理解が明示的でないにせよ影響を与える可能性はある。
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2007年09月23日

[著作権]iPodへの私的録音録画補償金課金のその後?

先日、文化審議会著作権分科会 私的録音録画小委員会、平成19年度第12回会合を傍聴してきた(注1)。
本論については、縷々意見が出ているところなので私はコメントをしないが、この会合で気になった点を備忘として残しておきたい。

PCなどもっぱら録音・録画に使われない記憶装置ついては私的録音録画補償金の対象とすることに対しては消極的な意見が出ていたが、委員のお一人が「もっぱら私的録音録画に用いるソフトウエアについて議論をする余地がある」ということを匂わせる発言をされていた。

視点としては面白いと思うし、補償金の対象とする正当性はある程度担保されるだろう。
ただ、政治過程の問題として、そんなことをしたら、電機メーカーだけでなく、ソフトウエアベンダーも敵に回しかねない訳で、なかなかそうはいかないよねーと思った次第である。

(注1)文化庁関係者の皆様、どうか探さないでくださいね(笑)
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2007年09月06日

[著作権]映画盗撮防止法施行を受けて

ネット上の著作権の議論ではあまり評判の良くない「映画の盗撮の防止に関する法律」が施行された。

これに関しては、すでにFJneo1994さんが「誰が作ったんだこんな法律。」『企業法務戦士の雑感』(2007/5/31記事)で、審議過程で明らかとなった問題点を整理されている。

その中でも「映画の一部だけ撮っちゃったらどうなのよ」との点についてちょっと考えてみた。

程度問題ではあるが、20秒とかそれぐらいの「一部」であれば、審議における甘利大臣の発言通り、法目的に照らして「不当」である印象は拭い去れない。

もっとも、条文を素直に読む限りでは、heatwaveさんが「映画盗撮防止法を全力で批判してみる」『P2Pとかその辺のお話』(2007/9/4記事)で指摘される通り、「不当」であっても逮捕されうるのである。

では、なんとかしてこの不都合から法律を救えないだろうか?(注1)

切り口として、「映画館等において観衆から料金を受けて上映が行われる映画」の解釈論に持ち込んでみることはどうだろうか。つまり、(若干詭弁めいて聞こえるが)「一部に留まる場合は『料金を受けて上映する映画』とはいえない」(その一部分だけ流してもお金とれない)ぢゃん、ということで法の対象外、と解釈する方法である。

ただ、そこの解釈論の持ち込んでも、どこを『料金を受けて上映する映画』の判断基準とするかは悩ましい。
作品全体としての利用が意図されていたのであるから、映画全体に限りなく近いところ二判断基準を置くべき、という考え方もあり得るが、場合によっては部分部分の利用が企図されていたりもする。ではケースバイケースで、とすると、不当性は解消されない。
悩ましい…。どなたか良いアイディアはないだろうか?

(注1)暗に「文言がしょぼいんだよ」という思いがこもっていたりする。本法律の条文の文言についてのつっこみは、本ブログでかつて行ったことがある。ただ、内容につっこみをいれたものではないのでしょっぼいが…。内容面での突っ込みは先に挙げたFJneo1994さんの記事が適確。
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2007年08月26日

[著作権]国会審議をインターネット配信することの著作権法上の議論を紹介する記事の疑問と、これが示唆する問題提起(下)

[著作権]国会審議をインターネット配信することの著作権法上の議論を紹介する記事の疑問と、これが示唆する問題提起(上)(2007/8/25記事)の続きです>

■疑問3:「日本の著作権法[引用者注:の権利制限規定]は限定列挙であるという一部の知財法専門家の常識は、知財法に定められた以外の多種多様な権利の存在を失念した思い込み」か?
瑣末なことであるが、私はこの行は「書かなければ良かったのに」と感じている。

まず、コンテクストとして疑問がある。
太田さんのこの記事は、40条2項の行為類型が「限定列挙」と解する文化庁への批判ではなかったのだろうか。
なぜ、広く限定列挙(おそらく権利制限規定のことを指す)を問題にするのだろうか。なぜ、「一部の知財法専門家」まで対象が拡大されるかのような表現をされるのだろうか。

確かに、著作権の権利制限規定は限定列挙と理解されている。
もっとも、その不都合は認識されているところであり、必要に応じて解釈論で対処し(注7)、あるいは、必要に応じて法を改正すればよい(注8)。
立法の態度決定として、予測可能性を担保するため、ある程度明確に線を引くことを選んだのである。

また知的財産法の現状の理解としても疑問がある。
制限規定は少なくとも憲法上の権利との衝突が問題となる場面はかなり網羅されている。本件のような「参政権」との衝突(注9)も、40条は対処していたのであり、問題は40条に含まれる行為類型に本件のようなものが想定されていないために明記が無かっただけであり、議論の途中となっているだけである。技術の進歩が想定外の事態を生じさせたのであるから、法が後追いで対処すればよいだけではないだろうか(注10)。

このセンセーショナルな一文があることで、本件の問題点がぼけてしまっているように思われる。

■何が問題か、どう対処すべきか
私は「衆議院TV」はの問題の核について、次のように考えている。

疑問2のところで触れたが、問題の核心は40条2項にどのような行為を挙げており、挙げられるべきかに尽きる。IPマルチキャスト放送が含まれるべきであるならば、文言解釈か立法による対処が望まれる。この点について私は、現状でも40条2項の文言解釈で対処可能かもしれないと考えている(重ねて述べるが、文言上苦しいことは間違いない)。

もっとも、壇俊光弁護士が「国会審議のネット中継の適法性」『壇弁護士の事務室』(2007/8/23記事)(http://danblog.cocolog-nifty.com/index/2007/08/post_8c41.html)で指摘されているように、
しかし、悲しいかな、世間で認められれば立法されて合法になるが、それまでは犯罪者というのが、日本の著作権法の一般的な解釈である。

というのは、予防法務の観点からは当然であり、まっとうな感覚である。

そうであるならば、40条2項の対象に自動公衆送信一般を含めることの是非を、Three Step Testに留意しつつ検討し、立法で対処することがベストだろう。

この点について、なぜ40条2項が結果として、視聴者に同時に届くことを問題にしているかが気になる。
仮に、編集など恣意的な改変のおそれを懸念しているのであれば、それは著作権法上の考慮の対象外ではないだろうか(注11)。
この点については40条2項の研究にゆだねたい。

縷々疑問点は挙げたものの、40条2項の問題点を浮き彫りにした点で、太田さんの記事は興味深いものであった。

(注7)例えば、ネットオークション上での美術の著作物出典に当たってのサマリー画像掲示について引用の解釈論での対処を志向するものとして、たとえば、田村善之「絵画のオークション・サイトへの画像の掲載と著作権法」知財管理56巻9号(2006年)1307頁以下。
(注8)限定列挙の不都合については立法サイドの方も認識されている。加戸守行『著作権法逐条講義 四訂新版』(著作権情報センター、2003年)224頁。※版が古いですが…
(注9)もっとも、参政権がそのようなものであるかはなお憲法学上の議論があるだろう。ここでは、松井茂記『日本国憲法 第2版』(有斐閣、2002年)で示されているような、表現の自由と参政権を結びつけた理解(つまり、政治参加のためには政治に関する情報の取得と伝達が必須であり、これは憲法上保障されている、との理解)に、敢えて基づいて捉えている。
(注10)口の悪い人ならば、「知財法に多種多様な権利との調整が既に織り込まれていることを失念した思い込み」によって、この記事を太田さんが書いたと批判されると思う。
(注11)そもそもそんなことを言い出したらマス・メディアが伝えるものも恣意的な編集はされているし…。問題は、情報を受領する国民がきちんと判断できれば良いのである。判断できない、との思い込みの下に、過剰なパターナリスティックな介入が行われることは望ましくないように思う。
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2007年08月25日

[著作権]国会審議をインターネット配信することの著作権法上の議論を紹介する記事の疑問と、これが示唆する問題提起(上)

太田昌孝「国会審議のネット中継が浮き彫りにした、フェアユースをめぐる矛盾」CNET Japan(2007/8/23記事)(http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,2000055923,20354036,00.htm)に触れた。

非常に面白い問題提起を含むものであるが、法律を学んでいる者の視点からは3点疑問が沸いた。まずはこれを検討し、何が問題の根にあるのかを整理してみた。

■この記事の概要
その概要は、次の通りである。
(以下、要約)
衆議院の事務局が議員運営委員会の議決を踏まえて行っている「衆議院TV」は、国会審議をインターネット中継し、また、ビデオライブラリーとして配信している。
だが、国会審議等の著作物としての側面の自由利用を認めた著作権法40条2項は、自動公衆送信を明示していない。つまり、条文上は著作権侵害に当たる。
この点、衆議院事務局は「自動公衆送信」ではあるが同項に挙げられる「放送」または「有線放送」に当たると解し、「衆議院TV」は合法であると主張している。他方、文化庁著作権課は著作権法40条2項に挙げられた行為類型は限定列挙であると解し、自動公衆送信は「放送」または「有線放送」に当たらないと解している。
しかし、国会審議を国民が視聴することは「参政権」である。その点から、「衆議院TV」のような利用方法はフェアユースとして認められるべきである。より踏み込んで、日本の著作権法は、著作権と他の権利が衝突する場面では「フェアユース」が認められている、と解するべきである。
(以上、要約)

結論に当たって、太田さんは次のようにも述べられている。
日本の著作権法[引用者注:の権利制限規定]は限定列挙であるという一部の知財法専門家の常識は、知財法に定められた以外の多種多様な権利の存在を失念した思い込みに過ぎない。


■疑問1:「日本の著作権法はフェアユースを認めている」か?
細かな点にこだわれば、太田さんの使われているこの問いは表現が正確ではない。
もし「フェアユース」=「著作権の権利制限」と理解するならば、答えは簡単である。30条以下で認められている。
他方、もし仮に「フェアユース」=米国著作権法107条に定めるようなルール、というのであれば、これは苦しい。もっとも、太田さんもこの点は言葉を選ばれているようであり、
権利と権利が対立する場合には
という限定を附されているので、米国著作権法107条の意味でのフェアユースとは違う、何らかの前提をもったフェアユースを言っているように読める。
おそらく「日本の著作権法は、明文にないフェアユースを権利衝突の場面では認めている」との趣旨であろう。

なお、ここでいう「権利」が単なる私法上の権利一般を指すのか、あるいは、憲法上の権利を指すのかは判然としないのだが、参政権に言及されていることから憲法上の権利と読むのが適切であるように思われる(もっとも、表現の自由を盾にすれば多くの場合に憲法上の権利との衝突がある、と考えることも出来るかもしれない。)

仮に以上のように太田さんの主張を理解するならば、当たり前のことを言っていることとなる。
著作権といえども財産権の一つである(注1)から、「公共の福祉」による制限を受ける。
ただし、安易に制限を認めると、裁判所による立法を認めることにつながり、あまり望ましいことではないと考えられるし、また、TRIPs条約13条のいわゆるThree Step Testとの関係で問題が生じる場合がありうる。慎重な考慮が必要だろう。

■疑問2:この場面は広義のフェアユース議論の場面なのか?
さて、次に疑問が沸くのは、『40条2項の条文上挙げられていないが、参政権との関係で「フェアユース」を認めるべきである』、というように大上段に構える必要性があるのか、という点である。

40条2項は次のように定めている。
(平成19年7月まで)
国若しくは地方公共団体の機関…(略)…において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送を行うことができる。
(平成19年7月以降)
国若しくは地方公共団体の機関…(略)…において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送し、若しくは当該放送を受信して同時に専ら当該放送に係る放送対象地域において受信されることを目的として自動公衆送信(送信可能化のうち、公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置に情報を入力することによるものを含む。)を行うことができる。
※強調部は平成18年改正(平成一八年一二月二二日法律第一二一号、平成19年7月1日施行)

さて、この問題への対処の可能性として、40条2項の文言解釈ではだめなのだろうか?

平成19年7月以前については、そもそも40条2項の立法時に自動公衆送信を「意識していなかった」と理解すれば(注2)、あとは法目的上自動公衆送信を認めることの是非が検討されることとなる。文言上は苦しい(定義規定との整合性は欠く)が、参議院事務局の言うように40条2項に限り「自動公衆送信」は「放送」「有線放送」に当たる、と解することができよう。

仮にこのように解しても、「著作物の通常の利用を妨げ」てはいないし、「権利者の正当な利益を不当に害していない」ものと思われる(注3)。また、国会審議という「特別な場合」であるから、Three Step Testに照らしても問題が無いのではないか。

もっとも、平成19年7月以降は状況が変わる(注4)。「自動公衆送信」が含まれたのである。ただし、送信の同時性が求められているため、「衆議院TV」にあっては、国会審議をインターネット中継することは40条2項で許容されるが、ビデオライブラリーとして配信することは、条文上明らかに40条2項で許容されない行為となる。

ただ、平成18年改正で40条2項にいう「自動公衆送信」に同時性が求められたのは、改正時の状況としてやむをえないものであったにすぎず、明示に自動公衆送信を除外する意図は無かったのかもしれない。平成18年当時(から現在に至るまで)IPマルチキャスト放送をめぐる議論が活発に行われているところであり、送信の同時性を持つ自動公衆送信が有線放送と同視しうるのか否かで議論が進められていた(注5)。

この中で、送信の同時性を持つ自動公衆送信についても40条2項の対象としたことは大きな前進であったのだと推測される。そのような中で、広く「自動公衆送信」一般についての議論は深まっていなかったのではないだろうか。
あるいは広く「自動公衆送信」一般について議論すると、議論が混乱することを恐れたのかもしれない。

文化庁著作権かはこのような背景があるからこそ、40条2項の行為類型を限定列挙と述べているのではないか。

仮にそうならば平成19年7月以降であっても、文言上は苦しいが、解釈論として自動公衆送信一般が認められる余地が無い、とはいえない。
以上のところからは、(少なくとも私には)大上段にフェアユース一般の議論を持ち出すことへの疑問は解消されていない。

<長くなりすぎたので明日へ続きます>

(注1)細かい点は憲法学の世界にお任せしたい。ただ、どこかで長谷部泰男先生がそう仰ってた気がするので、ここではあっさり財産権として扱った。
(注2)もっとも立法の経緯は管見の限り明らかでない。詳細な研究を行っている方はいらっしゃらないだろうか?
(注3)この点は、異論があるかもしれない。こんな場面では問題がある!とお気づきの方はお教えいただきたい。
(注4)衆議院TVのスタートが数年前であることから平成19年7月以前の規定の議論を持ち出されているのかもしれないが、改正法に触れていない点で、太田さんの議論にはちょっと首を傾げてしまう。
(注5)詳しくは文化庁『著作権分科会(IPマルチキャスト放送及び罰則・取締り関係)報告書』参照。
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2007年08月24日

[著作権][競争法]頒布権の消尽は知的財産法が競争秩序の中に位置づけられることを表しているか

若手の競争法学者で、著作物再販制度について業績を挙げられている石岡先生の論文、「消尽原則と競争秩序―頒布権の行使と取引の制限」日本経済法学会年報27号(2006)年117頁以下に触れた。

■石岡論文の要旨
その要旨は、おおよそ次のようである。
「知的財産権であっても競争秩序との関係で権利内容が考慮されるようになってきた。その表れが、権利の消尽原則である。特に著作物の頒布権の消尽を認めた〔中古ゲームソフト事件(大阪)〕(注1)は、権利保護の前提として「市場における商品の自由かつ円滑な流通」という
社会公共の利益が考慮されなければならないことを示している。」

■知的財産権の保護においても市場における商品の自由かつ円滑な流通の保護という競争秩序が前提とされているのか
知的財産法秩序と競争秩序の関係については、近時議論のあるところとなっている。石岡論文が主眼としている、知的財産法秩序が競争秩序の中に位置づけられる、という理解は、田村善之教授や白石忠志教授によっても示されている(注2)。
石岡論文は、ここでいう競争秩序を独占禁止法が規律する競争秩序と理解されているようにも読める(注3)が、ここでいう競争秩序は、独占禁止法が規律する秩序と同義と考えることができるかについては、異論が存在する。たとえば、稗貫俊文教授は、独占禁止法が規律する競争秩序と知的財産法が規律する競争秩序は性質が違うと理解されている(注4)。ここでいう競争秩序は私法一般の秩序と理解することもできよう(注5)。
この点については、なお検討の精緻化の余地があるところと思われる(注6)。

■頒布権の消尽は知的財産法が競争秩序の中に位置づけられることを表しているか
石岡論文は最高裁判例等を分析することにより、知的財産法の権利内容確定にあたって市場における商品の自由かつ円滑な流通と言う視点が考慮されるようになってきたと観察されている。しかし、私はなお、慎重に検討すべき点があると考える。
最高裁が著作権との関係で明示的に流通の自由を保障しようとしたのかについて、判然としないように思われるのである。
著作権法学においては頒布権が特殊な存在として位置づけられてきた(注7)。著作権は伝統的に流通をコントロールするものでないと(半ばドグマティックに)理解されてきたようにも思われる(注8)。その理由には、著作権が保護するものが表現物であるが故に、表現の自由との関係が生じうる点もあるのかもしれない。もしそのようなドグマからの帰結にすぎないのであれば、積極的に石岡論文のような主張をすることは、なおためらわれるように思う。

■石岡論文に学ぶ点
以上のような議論点を示している点、また、裁判例の観察として流通の自由保障と言う競争秩序の観点が知的財産法の権利範囲の考慮に含まれてきつつあることを指摘している点は、この論文によって大いに学ばされたところであった。

■補遺
なお、石岡論文の中で挙げられている興味深い論点として、『頒布権の内容には「価格制限をおこなうこと」も含まれているか』という点もあるが、これは別の記事で検討したい。

(注1)最判平成14年4月25日民集56巻4号808頁。
(注2)たとえば、白石忠志『独占禁止法』(有斐閣、2006年)334頁。
(注3)石岡論文126頁の記述から読める、というだけであるので、正確なところは不明である。
(注4)金井貴嗣ほか編著『独占禁止法 第2版』(弘文堂、2006年)〔稗貫俊文執筆部分〕337頁注3。
(注5)精読をしていないので挙げるのは恐縮なのだが、田村善之「競争政策と民法」NBL863号(2007年)はそのような理解をされているように思われる。
(注6)もっとも抽象的な「秩序」を議論することが、知的財産法の権利範囲内用の確定にあたって決定的なものとなるようには思われない。むしろ、事後観察の際に、概括的な評価としてどのような秩序に位置づけられるかの議論になるのに留まるのではないだろうか。
(注7)未だ議論のあるところである。世界的な議論の俯瞰は、斉藤博『著作権法 第2版』(有斐閣、2004年)172頁〜178頁参照。
(注8)この点については別途検討したい。
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2007年07月02日

[著作権][つぶやき]著作権保護期間についての考慮要素についてのSam Ricketsonの考え、および、保護期間延長をめぐる理論的考察の意味

RCLIP第21回研究会に参加してきた。
タイトルは「著作権の保護期間に関する理論的考察―欧米の議論を踏まえて―」であったが、報告者ご本人が自身が断りをいれてらっしゃったように、欧米での議論の紹介にとどまるものであった。著作権の保護期間に関するRicketson教授の理論的考察の紹介と、米国での著作権保護機関を巡る諸議論(表現の自由との関係を中心とした議論)の紹介であった(注1)。

その中で、私は「保護期間についての考慮要素」と「保護期間延長をめぐる理論的考察の意味」について思うところがあったのでひとこと。

保護期間についての考慮要素

研究会の報告を元にすると、Ricketson教授は次の考慮要素がある、と述べられているようだ(整理は筆者)。
1)保護期間と創作者の寿命
1-1)保護期間算定において創作者の寿命を基礎とするか否か?
 1-1-a)積極的理由
  ・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
 1-1-b)消極的理由
  ・不公平感を生じさせる
  ・投下資本の回収に必要な機関さえ保護すれば十分なのではないか
1-2)死後も保護するかどうか?
 1-2-a)積極的理由
  ・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
 1-2-b)消極的理由
  ・相続人等が作品を抑圧するような権利行使をする可能性がある
  ・長期の保護につながるが、長期の保護がなされある場合、権利者の確認が困難になる場合が多くなる
2)保護期間と著作物の類型
2-1)著作物の類型に関わらず統一的な保護期間を設定することは妥当か?
 2-1-b)消極的理由
  ・新しい著作物に対応できない

これ考慮要素が果たして網羅的なものなのか?というと疑問を覚えてしまう。おそらく、Ricketson教授も網羅的なものとして挙げられているのではないだろうか。
目立つものでは、
2-1-a)・類型の区分が困難である
というものが欠けている。

また、こういう要素も挙げられる。
1-2-a)・死後も保護しないと、著作物を利用したい者が創作者を殺そうとするインセンティブになる(笑)
冗談である。

著作権は人格を保護しているのか、単なる経済的利益の保護にとどまるのか、というレベルの観念的なものまでつっこむのであれば、この考慮要素で決定的に決まると思うが、そうでない限り、この要素ではどうしようもないように思う。使い方としては、価値観対立のデッドロックに陥った時に、民主的解決を図る際の、説明ツールなのかなぁと思う。

なお、出席者のコメントで勉強になった点があった。アメリカでの保護期間延長の際、創作インセンティブ増大の効果について経済学者らは「きわめてマージナル(めっちゃ少ない)」といっていたらしい(注2)。政策的には考慮できる見解である。

保護期間延長をめぐる理論的考察の意味

研究会で気になった(残念ながら悪い意味で)点が、政治的力学の説明にも注力されていたことである。さらに、政治的力学を検討した上での法理論支持をしたいともとれる発言はきわめて残念であった。会場からも質問が上がっていたが、政治力学が強く作用する、というのであれば、理論的検討を事前に行う必要がない。事後的な記述的な分析さえあれば、学問的に十分ということになる。

私はそういうスタンスは違うと思う。多くの法制度設計に置いて政治的力学が最前面に出ることは、少なくとも十分な教養ある人たちが立法に中心的に関わる社会ではまず無いと思う。理由は2点だ。

・理論的な裏付けに乏しい、政治力学のみで制度をつくっていっても、利害の異なる人たちの中では合意形成が困難だと考えられる。バカばかりならば政治力学でなんとかなるかもしれないが、立法の現場はバカではやっていけない。これは国際的な場になればいっそう強調されるのではないか。
・理論的な裏付けに乏しいまま立法しても、エンフォースの段階で対立利害の者のコミットを得られない。結果的に力で押し通した意味が大きく減殺される。合理的な人間ならば、立法段階で理論的裏付けを確保し、コミットメントを得ようとする。

さらに言えば、私は政治的力学が働く場面は次のようなきわめて限定的な場面だと思っている。

・理論的につめていったときに、価値観の対立に至ることがある。そのときに政治的な力学が考慮される(これは言い換えれば民主的正当性が担保されるということだが)。

質問者は、著作権制度の立法課程の政治過程研究というきわめてユニークな研究をされていた方だった。おそらく、質問者の意図は法学研究全体の意味を否定したかったのではなく、政治学研究者の立場から、法学者が理論を詰めていく作業を怠ってはならない、という警鐘を報告者に対してなさったものと思われる。

(注1)記述的な調査報告と、理論的研究の報告には聴衆の期待が大きく異なる、と私は思う。その意味で、タイトルのつけ方が残念であった。また、報告者はプレゼンに慣れてらっしゃらないのか、Ricketson教授の議論紹介でほぼ終わってしまった点も残念であった。これからの糧にしていただければ、と感じた。
(注2)おそらく、これ:Amici Curiae in support of Petitioners, May 22、2002。
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2007年06月26日

[著作権]著作権延長の効果の実証的研究

Paul J. Heald, Property Rights and the Efficient Exploitation of Copyrighted Works: An Empirical Analysis of Public Domain (1906-1922) and Proprietary (1923-32) Fiction Best Sellers, UGA Legal Studies Research Paper No. 07-003(2007) 読書メモ

著作権延長の効果として、著作者によって「著作物の改良」と「効率的な利用」が促進されることを挙げる見解がある(注1)。この論文は、これを実証的に分析したもの。なかなか面白いものであるので読んでみた。

論文の概要

著作権延長の効果として、著作者によって「著作物の改良」と「効率的な利用」が促進される
という見解が真か否かを検証するため、出版後75年を経過し著作権が切れた1906年〜1922年までの著作物と、少なくとも85年は保護される1923年から1932年までのベストセラーにつき、著作物の利用の程度等を調査し、分析している。

分析の結果、少なくとも近年においてはパブリックドメインとなった物の方が利用が盛んがであり、しかも値段も安いことがわかった。それまでの傾向は、著作権の保護があろうが、なかろうが、利用の程度はあまり差がなかった。つまり、著作権での長期の保護により「効率的な利用」が促進されるという仮説は証明されなかったといえる。

Healdは、利用の促進という観点から見た場合、再出版・頒布コストが高い場合には、長期的な投下資金回収の期間が無いと供給が過小になるため、著作権による保護の長期化は支持できるとしているが、他方、現代のように再出版・頒布コストが低い場合には、長期の著作権による保護には懐疑的な態度をとっている。

また、著作物の改良についても、「版数」について見る限りパブリックドメインとなった物の方が、改良されていることが窺えていた。これは、パブリックドメインでは著作物の改変を行うと、その部分が著作権で保護され、また、その部分が競争力の源泉となることから、頒布者には改良のインセンティブがあることを考えれば妥当な結果であると述べている。これらを考えると、著作権延長の効果としての「著作物の改良」促進という仮説は誤りである可能性がある。

しかし、著作権の保護がないと、「コモンズの悲劇」が生じ、過剰な利用によりイメージの低下がおこるのではないかという懸念もある。Healdはこのような考えは、利用が頻繁になることによる広告効果を見落としていると指摘し、さらに、少なくとも書物については、複数の同一書籍が書店に一気に並ぶことが無いことを考えると、イメージの稀釈化もおこらないのではないかと述べている。

以上のところから、適切さを欠く著作権保護の長期化は問題である、との結論を導いている。

私見

保護期間が長過ぎるために困難な著作権の効果の実証研究であり、大変興味深い。著作権延長の効果としての「著作物の改良」と「効率的な利用」促進効果については有力な否定の根拠となるのではないかと思う。

他方、米国で出てきたこれらの延長根拠は「Copyright」としての理解によるものであり、日本では「人格的な利益の保護」としての側面もある、というのが伝統的なタテマエであるから、直ちに日本での議論の決定打になるものではない。

例えば、著作者の人格の発露としての著作物であるから人格同様、長期に保護されるべきであり、3代を目安に保護が続くべきである(そして、現代は寿命が延びたから70年が適当である)、という理由が日本など「Authors Right」では挙げられ得る(注2)。

「人格の発露」に関わるから、「コモンズの悲劇」によるのイメージ稀釈化の恐れも長期の著作権による保護により「防がねばならない」という主張もあり得る。

しかし、そもそも論として人格の発露として著作物の保護というスタイルは、人格権議論の側から疑問が呈されているところであるし、著作権法の歴史的発展経緯から人格的な要素は後漬けであることの指摘もある(注3)。

また、人格的なものを理由にできない法人著作についてはどうしようもない。さらに、実際上の起こりうる問題として、長期の著作権保護をしても結局多数の相続人が存在し、結局権利行使が困難になることが予想される(注4)。

あるいは、長期の保護でも権利が活用され得たのは、制度として分割相続が採られていた大陸法諸国でも、実際は長子相続が一般的であったから、上記のような問題が起こらなかったのかもしれない(注5)。

いずれにせよ、著作権延長の正当化理由にはもっと深堀りが必要なように思う。「コンテンツ大国化」を錦に御旗した論調が進められないことを願う。

(注1)William M. Landes & Richard A. Posner, Indefinitely Renewable Copyright, 70 U.Chi.L.Rev.(2003)、この見解は米国議会でも採られた。
(注2)斉藤博「著作物の保護期間に関する考察」L&T35号(2007年)4頁〜10頁はこのような見解を示唆しているかもしれない。
(注3)白田秀彰『コピーライトの史的展開』(信山社、1998年)。
(注4)もっとも現在の少子化を前提にすればそのような懸念は乏しくなるが。
(注5)誰か調べた人いませんかね?


追記(2007/06/28)
早稲田大学のRCLIPがHeald教授を9月に呼ぶようだ。
http://www.21coe-win-cls.org/project/activity.php?gid=10052
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2007年06月12日

[著作権]著作権保護期間の歴史がまとまった論文

●斉藤博「著作物の保護期間に関する考察」L&T35号(2007年)4頁〜10頁読書メモ

大御所斉藤先生がホットなテーマを扱っているので思わず手に入れてしまった。「考察」ではあるが自説の展開は乏しく、欧州、米国、日本の著作物の保護期間の変遷とその背景についてコンパクトにまとめた論文であった。しかし、経緯を抑えるには最適な論文の一つであることは間違いない(注1)。

論文の概要

著作権の保護が50年という世界的な趨勢になったのは、ベルヌ条約部ラッセル規定(1948年)。当時の欧州では「著作物=人格の発露」との理解が強く、「3世代先まで」保護することが必須だと考えられていた(注2)ことが影響している。次なる転機は欧州統合である。統合にあたり各国まちまちの保護期間を統一するには、長い者にそろえた方がよい、という考えが働き、「著作者の死後70年」にそろえられた。このときの正当化理由には「寿命が伸び3世代先まで保護するには50年では足りない、というものがあげられていた。巨大ソフト産業国の米国も欧州に追随した。現在、70という数字は保護期間のシンボルとも言えるものとなってきている。

私見

著作権の一元説に立つなら、「3世代先までの保護」も否定しにくいところであるが、日本のように法の構造を見る限り二元説に立つと思われる制度を採る国には「財産権」にすぎない部分の「3世代先までの保護」への違和感は残る。実証的な研究を進めるべきではないか、と思う。経緯を読む限り、延長論についての賛同へ傾く、というものではなかった。

さて、本論より興味が持てたのはシェーン事件に対する言及と思われる箇所である(注3)。
すなわち、
映画の著作物の著作者を映画製作者とする規定が無い旧著作権法下では(注4)映画監督も著作権者たりうる。すると、著作者の死後38年間の保護の余地がある。シェーン事件に置いて監督は1981年に没していた。

ここから先は行間を読んだのだが、
映画配給会社は監督が共同著作者と言っておけばよかったのかもよ

という主張をされたいのかもしれない。

もっとも、権利をまるまる欲しい配給会社にはそんなことをしたいわけもない。実は強烈な皮肉なのかも…。

(注1)なんて書くと不遜に聞こえるかも…。読んだ方は誤解しないでね。
(注2)その核は「個人に対する追慕の情」ではないかと考える。
(注3)直裁におっしゃっている訳ではないのだが、行間を読んでみた。
(注4)私は確認できていないので、斉藤先生に丸乗りしている。
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2007年05月31日

[著作権]著作権で工夫している官庁・自治体の邪魔をしよう!?

今朝の日経新聞にこんな記事があった。
税金滞納者からの差し押さえ品をもとに、国税庁が6月から入札を始めるネットオークションを巡り、文化庁が「著作権法違反の疑いがある」と指摘していることが分かった。(NIKKEI NET 2007/5/31)


ネットオークションでは美術の著作物のプレビュー画像が欠かせない。それが公衆送信権侵害および同一性保持権侵害(これはプレビュー画像では通常元の絵を小さく映したり、トリミングが行われるため)になる、という指摘を行ったものと思われる。確かに、形式的には公衆送信権侵害に当たる。しかし、著作権侵害としてしまってよいのか?きわめて疑問である。

既に田村先生がその論文(田村善之「絵画のオークション・サイトへの画像の掲載と著作権法」知財管理56巻9号(2006年)1307頁以下)で指摘されていることがだが、頒布権を持たない絵画等の著作物の著作権者がネットオークションを通じた売買については事実上コントロールすることが可能になってしまうところに問題がある。

そんなところまで著作権で塞ぐことが、文化の発展につながるとは思えない。

田村先生が32条の解釈問題で解決しようと試みているのであるから、文化庁として行うべきは国税庁にケチをつけるより、この問題を法制度の問題として俎上にあげることではないだろうか。引用規定を多少書き換えるのか、あるいは、新たな権利制限を設けるのか、はたまた、フェアユース規定導入に議論を行うか、アプローチはいくらでもある。

こんなことを繰り返していると、著作権は旧弊な制度の保護者になりさがってしまう。まぁ、それが「文化伝統を愛する」「美しい国」のツールだと言われれば、もう手に負えないわけであるが。
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2007年05月30日

[著作権][時事]「ドラえもんの最終話」とキャンディキャンディの関係

ドラえもんの最終話と名付けた漫画を元プロ漫画家が描いて出版していたのだが、小学館と藤子プロの警告を受けて、出版の中止と利益の一部支払うことで和解契約をしたらしい。13000部も売れていたというのだから、なかなかのものだ。

さて、これは「著作権侵害」ということだが、この手の二次創作は厳密には著作権侵害の判定が難しいように思う。

例えば極端な例を考えていただきたい。

「緑色の大樹のような見た目の、森の妖精で、森のことは何でも知っている長老のような雰囲気のキャラクター」の一枚絵(注1)があったとして、世間にはこれだけしか公開されていないところ、これを漫画化したら著作権侵害なのだろうか?一枚絵と同じ絵ならば侵害に間違いは無いが、一枚絵と似てなかったら??それぞれの絵が「翻案」にあたるか、という微妙な問題となってしまう。

翻案の判定に当たっては、「緑色の大樹のような見た目」「長老のような雰囲気」というところを重視すると、抽象的なキャラクター、つまり、アイディアに近いところを保護してしまう(注2)。しかし、表現の表面的なところのみを問題にしようとすると、「翻案」というのが一体なんなのかわからないくなる。その基準をどこに置くかは悩ましい(注3)。

では、なぜこの手の二次的創作がアウトになるのか?

推測にすぎないが、多くの場合、たくさんあるコマ絵の中で、原作のコマ絵に似ているもの、同じものが登場していると考えられる。これが複製権侵害あるいは翻案権侵害となってしまう。(これは全ての絵がというのではなく、たくさんあるうちのいくつかが、ということである。なお絵がうまく、似ていれば似ているほど複製権侵害と言われる可能性があがるだろう。)

もちろん、二次的創作の作者としては、特定の絵をモチーフにしていない!と反論することもできるだろう。二次的創作として作っている場合は、明示的に元画を見ていなくても、頭の中に残った絵のイメージが強く作用した結果、似てしまったということもありうる。

しかし、著作権法上は「描くときに見たか」は問題でない。「表現上の特徴」が問題になるのだから、頭の中にあるものを真似たら翻案といわれても仕方の無い面がある。また、キャラクターを利用している以上、原作品へのアクセスがあったことは間違いない。独自創作と抗弁するのは厳しい。

キャラクターの保護は、悩ましい問題としてまだまだ議論に上っている。翻案の議論もしかり。「ドラえもんの最終話」は、終わらない問題を提示してくれたのである。

(注1)モリゾー(のつもり)である。
(注2)抽象的キャラクターを保護しないと明示したものは、〔ポパイネクタイ事件最高裁判決〕最判平成9年7月17日民集51巻6号2714頁。
(注3)今年の著作権法学会のテーマが翻案だったことを鑑みれば、古くて新しいホットトピックだと言えよう。
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2007年05月29日

[著作権]音楽曲のオンラインストレージサービスが違法とされた例〔MYUTA事件〕

話題となった、オンラインストレージが間接侵害となった例である。判決文《裁判所へのリンク》が出たので読んでみた。

〔MYUTA事件〕東京地判平成19年5月25日(判例集未搭載)平成18年(ワ)第10166号
著作権のいわゆる間接侵害が行為主体論によって認められた例


事実の概要

Xは、CDから取り込んだ楽曲をXの管理するサーバーに貯蔵し、ユーザーの携帯電話端末のみに配信することで、いつでもどこでもユーザーが所有するCDの楽曲を携帯電話端末で聴くことが可能となるサービス(以下、本件サービスという)を展開していた(注1)。これに対し、音楽曲の著作権管理団体であるYが本件サービスは音楽曲の著作権を侵害する恐れのあるものとして警告したため、Xは本件サービスを一旦停止した上で、著作権に基づく差止請求権の不存在確認を求めて提訴した。

判旨

本件サービスは、CD→aviファイルへ変換(複製)→3pgファイルへ変換(複製)→Xサーバーにアップロード(複製)→ユーザー携帯端末へ送信(公衆送信?)→ユーザー携帯端末に複製という過程を辿るものであり、太字の過程はXの提供するソフトにより実現していると認定された。そして、本件サービスを用いずに、3pgファイルへ変換(複製)後、自らの携帯電話端末で視聴することは困難であることが認められた。また、本件サービス提供時は無料のサービスであったが、有料化が検討されていたことも認定された。

その上で、Xサーバーにアップロード(複製)する行為の主体については、
 ・当該複製行為が本件サービスにおいて重要なプロセス
 ・XサーバーについてXは支配下に置き管理していた
 ・複製行為を行うシステムはXの設計に寄るものであり、複製行為はXのサーバー上で行われること
 ・著作権侵害となる可能性が高い
から、Xが行為主体と認定した。よって、複製権侵害の可能性を認めた。

また、ユーザー携帯端末へ送信行為についても同様の理由から行為主体はXであるとした上で、
ユーザは…(中略)…本件サーバを設置する原告にとって不特定の者というべき

と述べ、公衆送信権侵害の可能性を認めた。

私見

一般論を提示している訳でないので、どのようなロジックにたっているかについては精緻な分析をするべきと思われるが、表面的な分析の限りでは、「行為の支配・管理」「営利性」を前提としている点で、いわゆる「カラオケ法理」に立ったものと推測される。また、〔ファイルローグ事件中間判決〕(注2)のように、行為内容の悪性について言及していると読めないことから、〔クラブ・キャッツアイ事件〕(注3)の判断基準に近いものと考えられる(注4)。
裁判例ではこのような判断基準を採るものが多いことから、行為主体論について本件の判断基準が特殊であるとは言えない(注5)。もっとも、このような「カラオケ法理」そのものに批判が存在することには留意する必要がある(注6)。

一点疑問を持つとすれば、ユーザーが原告にとって不特定多数と言い切れるのか、という点である。これを一般化すれば通信事業者は「公衆送信」をしていることにならないだろうか?そうすると、メールサーバーの管理者は場合によっては、「公衆送信権侵害」をしている主体とされてしまうのだろうか?(注7)この点については、もうちょっと詳細な説示が欲しかった。

本判決のロジックについてはそれほど違和感は無い。しかし、世間では異論が少なからずあるように思われる。その要因は2つあると思われる。
第1に、ユーザーの感覚においてはCDの所有者内部で閉じた行為が違法とされることへの違和感が挙げられる。しかし、CDの所有者であることと、その内部の著作物を自由に利用できることは別物である。
第2に、サーバーへの複製行為の行為内容の許容性については踏み込んでいないこと違和感の要因となっていることが考えられる。この点についてはそうかもしれないが、間接侵害の判断基準の議論を進める必要があるだろうし、、あるいは、フェアユース規定導入の議論で解決を図るべきと思われる。いずれにせよ、今後の議論につなげていくきっかけとするのが良い。

なお、念のため述べておくと、本件サービスが著作権侵害とされたのは、あまりにユーザーに使いやすいシステムを提供したからである。Yahoo!などのオンラインストレージまで否定する論旨ではないので、過剰反応をする必要は無い。
(注1)仕組みはhttp://www.infocom.co.jp/cone_new_jp/info/
press/2005/p05111402.htmlを参照。
(注2)東京地中間判平成15年1月29日判時1810号29頁。
(注3)最判昭和63年3月15日民集42巻3号199頁。
(注4)本ブログ「[著作権]間接侵害についての整理」(2006年11月22日)http://chiteki-yuurei.seesaa.net/article/28054454.html>参照。
(注5)世間では高部裁判官であることを理由に異論があがっているようであるが、高部裁判官は著作権においてはそこまで突飛な考えをしてきたとは思えない。
(注6)上野達弘先生の論文の指摘が的確である。
(注7)感覚的な感想にすぎないが…。誤りがあればご指摘いただきたい。
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2007年05月28日

[著作権]映画盗撮防止法が成立へ…法技術上のちょっとした疑問

議員立法として提出された「映画の盗撮の防止に関する法律」《衆議院へのリンク》が参議院を通過した。

提出法律案の情報では刑の重さがわからないのであるが、その日のCNetの報道によると、「懲役10年以下もしくは1000万円以下の罰金」になったようだ。

この法律の要点は、
・日本の映画館で封切りされて8ヶ月以内の映画の著作物を許諾無く撮影または録音したら懲役!
・映画館も盗撮対策しなさい!

というもの。

著作権侵害の予備的行為を明示的に刑事罰対象としたところが特徴である。

何カ所かツッコミどころがある。

まず、なんで映画だけ手厚いの!?という疑問がわく。
映画と同じく、一定の管理可能な場所で著作物を公衆に提示することを行いロイヤリティを回収するビジネスモデルは、演劇、音楽実演(いわゆる音楽ライブ)も考えられる。配給会社制度は映画に特徴的だが、音楽ではプロダクションが同様の地位に立っているように思われる。
もっとも、この点はコンテンツ産業に政策的に力を入れているからだ、と言われればそれまでだが。

次に、なぜ特別法をもうけたか、という疑問である。
著作権法上の私的複製の例外の例外とするか、刑事罰規定の中に規定することもできたはずである。

また、条文についてもやたら定義を先にしており、構造に無駄も感じられる。
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
 一 上映 著作権法(昭和四十五年法律第四十八号)第二条第一項第十七号に規定する上映をいう。
 二 映画館等 映画館その他不特定又は多数の者に対して映画の上映を行う会場であって当該映画の上映を主催する者によりその入場が管理されているものをいう。
 三 映画の盗撮 映画館等において観衆から料金を受けて上映が行われる映画(映画館等における観衆から料金を受けて行われる上映に先立って観衆から料金を受けずに上映が行われるものを含み、著作権の目的となっているものに限る。以下単に「映画」という。)について、当該映画の影像の録画又は音声の録音をすること(当該映画の著作権者の許諾を得てする場合を除く。)をいう。

第四条 映画の盗撮については、著作権法第三十条第一項の規定は、適用せず…(略)

などというのは回りくどくて、たとえば
映画館等において観衆から料金を受けて上映が行われることを目的とする映画の著作物の影像または音声を著作者の許諾無く録画または録音した者は…

とすればすっきりしないだろうか。

蛇足的に述べれば、映画館に対する努力目標も定められているが、これは配給会社と映画館の契約で実現可能なものではないのか。あえて法定する必要はあるのだろうか。

最後に、予備的行為だと捉えてしまうと、著作権侵害罪は5年以下、500万円以下であることと対比すると違和感を覚えてしまった。(2007/5/25削除。平成19年7月1日より、著作権侵害罪の厳罰化があり、そことの辻褄はあっていました。ご指摘いただいた水際君さま、ありがとうございます。基本的な見落としに恥ずかしい…。)
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2007年05月15日

[時事][著作権]比較的珍しい罪での逮捕

Impress Watchで次の記事が流れていた。
 山口県警察本部生活安全部と岩国警察署が14日、携帯電話向けのレンタル掲示板サービスを使って権利者に無断で音楽ファイルを公開していた岩国市の男性(25歳)を著作隣接権侵害にあたるとして逮捕した。日本レコード協会(RIAJ)が同日明らかにした。

 男性は、携帯電話向けに音楽ファイルを無料ダウンロードできるレンタル掲示板を2006年5月から開設・運営するとともに、自らも権利者に無断で倖田來未やEvery Little Thingらの楽曲を多数アップロードし、不特定多数がダウンロードできる状態にしていた。着うたなどの携帯電話向けの違法音楽配信による逮捕は今回が初めてだという。

著作権侵害罪は全刑法犯でみると珍しい。レアだが5年以下もしくは500万円以下の罰金だからなかなか重たい。こういう事例では問題ないように思うが、ささいな著作権侵害でも同じように捕まる可能性があることには若干疑問も覚えてしまう。

さて、著作権法を学ばれた方ならうなずいていただけると思うが、このニュースのミソは著作者隣接権=送信可能化権侵害だ、という点にある。これが仮に作曲家から告訴があれば、公衆送信権侵害になる。微妙な規定の仕方の違いが面白くて仕方のない箇所である。

ところで、着メロの無断作成&配信と、本件のような着うたの無断作成&配信であれば、前者の方が許してあげたくなるのは私だけだろうか。前者はがんばって打ち込んだんだし…などと思ってしまう。着メロの事案は既にあるので、量刑で差が出たらおもしろいなあと思う次第である。
posted by かんぞう at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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