2008年06月25日
2008年06月03日
[著作権]著作権法学会2008年研究大会を通じての示唆2:フェアユース規定の導入か、あるいは立法での対処か?
前回に続き、今回は、フェアユース規定の導入の可否について、研究大会での示唆を紹介し、考察する。
■フェアユース規定は導入することが望ましいか
権利制限規定を類推解釈しても、対処しようの無い、許容すべき利用形態もあるかもしれない。それに備えてフェアユース規定を導入するべきであろうか。
□研究会で得られた示唆
導入をするべきとの見解が複数見られた。その根拠としては、社会変化への柔軟な対応を挙げるものが多いようであるが、欧州の教訓を挙げる意見もあった。具体的には、EUの情報社会指令(2001/29/EC)は、権利制限規定を列挙し、加盟各国がこれ以外の権利制限を設けることを許容していない。その結果、欧州では、技術の進展、社会の変化に対応できていないところがある。そのような予測のできない領域に備えた一般条項の制定は行ってもよいのではないかというものである(注1)。
なお、研究会のシメには、新たなビジネスモデルの芽を摘まないためにフェアユース規定を入れるべきとの意見が挙っていた(注2)。
他方で、フェアユース規定は判例の集積がない限り、予測可能性が担保できない点を留意点として挙げる意見も見られた。
□考察1:なぜ「フェアユース規定」が望まれるのか?
少なくともインターネット上での議論では「フェアユース規定」導入を望む声が多い。
しかし、社会の変化に伴って生じた著作権法上の不適合の回避手段としては、立法的対処でも良いはずである。では、なぜ「フェアユース」に親和的なのであろうか?その理由として3つ考えられる。
○立法的対処では迅速な社会の変化に対応できない
これは、従来から指摘されているところである。しかし、フェアユース規定では予測可能性が担保されない点でデメリットであり、立法的対処の場合と同じように、なんらかの判決が下るまで行動の自由は保障されない(しかも立法的対処と異なり、行動の自由は「完全に」保障されない)。これでは、フェアユース規定導入の決定的理由にならないのではないように思う。
○広範な刑事罰があるため、フェアユースの領域が無いと立法的対処のニーズが育たない
著作権侵害に対する刑事罰のサンクションは大きいものであり、著作権に抵触しうる利用は控えるように行動することがおそらく合理的であると考えられる。しかも、コンプライアンスが重視されつつある企業文化の醸成を併せ考えると、少しでも著作権侵害となりうる利用は控えるのではないか。
そうであるならば、そもそも立法のニーズを醸成するまでに至らないままになってしまう。もっとも、迅速に立法が対処するのであれば、その趣旨を加味して権利濫用法理で処理されることが期待されるであろうから、問題としては大きくないのかもしれない。(ただし、立法的対処が迅速であること、立法的対処によって適切な利益調整が期待できることが前提である。)
○立法による利益調整への不信
立法の場で適切な利益調整ができていないため、立法的対処では不足と考えられている可能性もある。とくに近時、文化庁の審議会で、適切な委員が選ばれていないのではないか、との声もある。もちろん、文化庁の思いもわかる。一億総クリエーターといわれるなかで、利害関係者の一人である一般の利用者の代表は誰なのか定めにくいだろう。また、事実上の産業法となったいま、多様な利害が絡むため誰を委員に選ぶか極めて難しいこともよくわかる。とはいえ、もし不信が生じてしまっているならば、それはそれとして受け止める必要があるだろう。
仮にこの推測が正しいならば、著作権法の制度設計にあたり、適切な刑事罰の範囲が設定されること、および、十分な利益調整がなされることの2点が達成されると、フェアユース規定を導入する声は必ずしも高くならないようにも思う。
もし、フェアユース規定は著作権者の利益を害する、とお考えの方がいたら、ぜひ
○刑事罰規定の適正化
○著作権法改正の審議における十分な利益調整(これは一億総ユーザーとなった今、特定の利益団体だけでは十分な利益調整とはいえないだろう)
を訴えていただきたい(注3)。これが、フェアユース規定の導入を阻止する適切な手段であると私は考える。
□考察2:「フェアユース規定」は導入するべきか?
訴訟の長期化という弊害を招きかねないものであるとはいえ、私は導入に賛成である。その理由は、上記に挙げた2つ目の理由(=広範な刑事罰があるため、フェアユースの領域が無いと立法的対処のニーズが育たない)にあげたところにある。おそらく刑事罰規定の見直しはかなりの労力を必要とするだろう。ならば、フェアユース規定の導入が適切である。
また、立法的対処の迅速化も難しい。現在は、前年の秋頃に翌年度の審議会予算を確保しなければならない。機動的に審議会をひらくことが予算上難しいのである。
■フェアユース規定は導入することが望ましいか
権利制限規定を類推解釈しても、対処しようの無い、許容すべき利用形態もあるかもしれない。それに備えてフェアユース規定を導入するべきであろうか。
□研究会で得られた示唆
導入をするべきとの見解が複数見られた。その根拠としては、社会変化への柔軟な対応を挙げるものが多いようであるが、欧州の教訓を挙げる意見もあった。具体的には、EUの情報社会指令(2001/29/EC)は、権利制限規定を列挙し、加盟各国がこれ以外の権利制限を設けることを許容していない。その結果、欧州では、技術の進展、社会の変化に対応できていないところがある。そのような予測のできない領域に備えた一般条項の制定は行ってもよいのではないかというものである(注1)。
なお、研究会のシメには、新たなビジネスモデルの芽を摘まないためにフェアユース規定を入れるべきとの意見が挙っていた(注2)。
他方で、フェアユース規定は判例の集積がない限り、予測可能性が担保できない点を留意点として挙げる意見も見られた。
□考察1:なぜ「フェアユース規定」が望まれるのか?
少なくともインターネット上での議論では「フェアユース規定」導入を望む声が多い。
しかし、社会の変化に伴って生じた著作権法上の不適合の回避手段としては、立法的対処でも良いはずである。では、なぜ「フェアユース」に親和的なのであろうか?その理由として3つ考えられる。
○立法的対処では迅速な社会の変化に対応できない
これは、従来から指摘されているところである。しかし、フェアユース規定では予測可能性が担保されない点でデメリットであり、立法的対処の場合と同じように、なんらかの判決が下るまで行動の自由は保障されない(しかも立法的対処と異なり、行動の自由は「完全に」保障されない)。これでは、フェアユース規定導入の決定的理由にならないのではないように思う。
○広範な刑事罰があるため、フェアユースの領域が無いと立法的対処のニーズが育たない
著作権侵害に対する刑事罰のサンクションは大きいものであり、著作権に抵触しうる利用は控えるように行動することがおそらく合理的であると考えられる。しかも、コンプライアンスが重視されつつある企業文化の醸成を併せ考えると、少しでも著作権侵害となりうる利用は控えるのではないか。
そうであるならば、そもそも立法のニーズを醸成するまでに至らないままになってしまう。もっとも、迅速に立法が対処するのであれば、その趣旨を加味して権利濫用法理で処理されることが期待されるであろうから、問題としては大きくないのかもしれない。(ただし、立法的対処が迅速であること、立法的対処によって適切な利益調整が期待できることが前提である。)
○立法による利益調整への不信
立法の場で適切な利益調整ができていないため、立法的対処では不足と考えられている可能性もある。とくに近時、文化庁の審議会で、適切な委員が選ばれていないのではないか、との声もある。もちろん、文化庁の思いもわかる。一億総クリエーターといわれるなかで、利害関係者の一人である一般の利用者の代表は誰なのか定めにくいだろう。また、事実上の産業法となったいま、多様な利害が絡むため誰を委員に選ぶか極めて難しいこともよくわかる。とはいえ、もし不信が生じてしまっているならば、それはそれとして受け止める必要があるだろう。
仮にこの推測が正しいならば、著作権法の制度設計にあたり、適切な刑事罰の範囲が設定されること、および、十分な利益調整がなされることの2点が達成されると、フェアユース規定を導入する声は必ずしも高くならないようにも思う。
もし、フェアユース規定は著作権者の利益を害する、とお考えの方がいたら、ぜひ
○刑事罰規定の適正化
○著作権法改正の審議における十分な利益調整(これは一億総ユーザーとなった今、特定の利益団体だけでは十分な利益調整とはいえないだろう)
を訴えていただきたい(注3)。これが、フェアユース規定の導入を阻止する適切な手段であると私は考える。
□考察2:「フェアユース規定」は導入するべきか?
訴訟の長期化という弊害を招きかねないものであるとはいえ、私は導入に賛成である。その理由は、上記に挙げた2つ目の理由(=広範な刑事罰があるため、フェアユースの領域が無いと立法的対処のニーズが育たない)にあげたところにある。おそらく刑事罰規定の見直しはかなりの労力を必要とするだろう。ならば、フェアユース規定の導入が適切である。
また、立法的対処の迅速化も難しい。現在は、前年の秋頃に翌年度の審議会予算を確保しなければならない。機動的に審議会をひらくことが予算上難しいのである。
(注1)駒田泰士〔著作権法学会2008年研究大会おける発言〕。
(注2)BLJ Online「著作権法に未来はあるのか」(レクシス・ネクシスジャパン)参照。
(注3)端的に言えば、著作権者の利益保護にあたって、文化庁あるいは権利者(こちらはそのような方法を望んでいないのかもしれない)が「万全の」方法をとれば、かえって主権者の行動が著作権者の利益保護に不利な方向に転化させている、と感じている。これは刑事罰規定についても同様である。厳罰化すればするほど(これは量刑と、構成要件の双方を意味する)、かえって著作権者に利益になっていないのではないかと感じている。
2008年06月02日
[著作権]著作権法学会2008年研究大会を通じての示唆1:フェアユース規定の導入か、制限規定の解釈での解決か?
筆者の怠惰が原因で大変遅いペースでの著作権法学会参加報告となっている。お恥ずかしい限りである。
残りの個別報告については、各報告のまとめではなく、その場で得た知見とそれに基づく考察をまとめていきたい。
そのようにする理由は単純である。
○実は午前の部は駒田先生以降しか聞けなかった(注1)
○島並先生の報告の時間は、不覚にも寝てしまった(注2)
…ごめんなさい…。
なお、今週末の工業所有権法学会も、午前の部が聞けない。どなたか聞きに行かれる方、レポートしていただけないだろうか…。
ともかくも、以下、社会の変化によって著作権法を適用すると「社会通念上」妥当でない結論が出る場合にどのように対処すれば良いか、という問題を出発点に、フェアユース規定の是非を考えていく。
■権利制限規定の類推解釈は可能か?
まず、現在の権利制限規定の解釈論で解決可能かが問題となる。しかし、これまで、制限規定のような例外規定は厳格に解釈されるべきとされてきている(注3)。
□研究会で得られた示唆
研究会の大勢は、制限規定であるから類推解釈が不可能との理解ではないように窺えた。また、制限規定自体の性質は権利者と利用者の利益調整にあるとの理解が多数を占めているようである。このような考えは、日本に留まらず、ドイツでも同じようである(注4)。
ただし、規定ごとに類推解釈の可否が検討されるべきとの考えが示されていた。具体的には、立法趣旨として例外を認めない趣旨であれば類推適用は認めるべきでないとの指摘があった(注5)。
なお、裁判実務上、地裁レベルで類推解釈を行うことは、上級審で覆された場合、以後の当該条文の類推解釈を困難にする可能性があるため、難しいとの発言があったことは興味深い(注6)(注7)。
他方、権利制限規定をより厳格に解釈する方向での類推解釈自体は許されるべきでないと指摘されていた。著作権侵害には刑事罰が存在するため、厳格に解釈すると侵害罪の範囲が拡張し、罪刑法定主義に抵触するというのがその趣旨である(注8)(注9)。
□考察
制限規定の厳格な解釈を示唆するような判決は依然としてあるものの(注10)、学説として制限規定の類推解釈に態度が緩やか(=類推解釈を許容する方向)であることが窺えた点は一つの収穫である。類推解釈の事例ではないが、飯村敏明判事の報告も示唆的である。
各権利制限規定の性質について吟味した上で、解釈により妥当な解決を導くことができる余地がないか、理論的な検討のポイントがまだまだあるのではないだろうか(注11)。
とはいえ、類推解釈で対処できないものもある。それに対して、フェアユース規定の導入を行うべきであろうか。次回では、「フェアユース規定の導入の可否」を考察し、その後、「一般条項を導入した場合における条約との関係と課題」をささやかではあるが考察する。
残りの個別報告については、各報告のまとめではなく、その場で得た知見とそれに基づく考察をまとめていきたい。
そのようにする理由は単純である。
○実は午前の部は駒田先生以降しか聞けなかった(注1)
○島並先生の報告の時間は、不覚にも寝てしまった(注2)
…ごめんなさい…。
なお、今週末の工業所有権法学会も、午前の部が聞けない。どなたか聞きに行かれる方、レポートしていただけないだろうか…。
ともかくも、以下、社会の変化によって著作権法を適用すると「社会通念上」妥当でない結論が出る場合にどのように対処すれば良いか、という問題を出発点に、フェアユース規定の是非を考えていく。
■権利制限規定の類推解釈は可能か?
まず、現在の権利制限規定の解釈論で解決可能かが問題となる。しかし、これまで、制限規定のような例外規定は厳格に解釈されるべきとされてきている(注3)。
□研究会で得られた示唆
研究会の大勢は、制限規定であるから類推解釈が不可能との理解ではないように窺えた。また、制限規定自体の性質は権利者と利用者の利益調整にあるとの理解が多数を占めているようである。このような考えは、日本に留まらず、ドイツでも同じようである(注4)。
ただし、規定ごとに類推解釈の可否が検討されるべきとの考えが示されていた。具体的には、立法趣旨として例外を認めない趣旨であれば類推適用は認めるべきでないとの指摘があった(注5)。
なお、裁判実務上、地裁レベルで類推解釈を行うことは、上級審で覆された場合、以後の当該条文の類推解釈を困難にする可能性があるため、難しいとの発言があったことは興味深い(注6)(注7)。
他方、権利制限規定をより厳格に解釈する方向での類推解釈自体は許されるべきでないと指摘されていた。著作権侵害には刑事罰が存在するため、厳格に解釈すると侵害罪の範囲が拡張し、罪刑法定主義に抵触するというのがその趣旨である(注8)(注9)。
□考察
制限規定の厳格な解釈を示唆するような判決は依然としてあるものの(注10)、学説として制限規定の類推解釈に態度が緩やか(=類推解釈を許容する方向)であることが窺えた点は一つの収穫である。類推解釈の事例ではないが、飯村敏明判事の報告も示唆的である。
各権利制限規定の性質について吟味した上で、解釈により妥当な解決を導くことができる余地がないか、理論的な検討のポイントがまだまだあるのではないだろうか(注11)。
とはいえ、類推解釈で対処できないものもある。それに対して、フェアユース規定の導入を行うべきであろうか。次回では、「フェアユース規定の導入の可否」を考察し、その後、「一般条項を導入した場合における条約との関係と課題」をささやかではあるが考察する。
(注1)病院行ってました。
(注2)お昼食べ過ぎました。
(注3)駒田先生の報告によると、ドイツには「例外は厳格に解釈すべし」との法格言があったらしい。もっとも、〔そんなのおかしい」という考えもドイツにはあるようだ。いずれにせよ、日本における制限規定の厳格解釈の態度の根底にはドイツの法格言が影響していたようにも思う。
(注4)駒田泰士〔著作権法学会2008年研究大会おける発言〕。
(注5)島並良〔著作権法学会2008年研究大会おける発言〕。
(注6)事例に応じた適用の可否を論じたにもかかわらず、一般的解釈論として受け取られるから、という趣旨と理解した。
(注7)飯村敏明〔著作権法学会2008年研究大会おける発言〕。だから、知財高裁はがんばっているのかもしれない…。
(注8)島並良〔著作権法学会2008年研究大会おける発言〕。
(注9)今後述べていくところであるが、現在の刑事罰規定のあり方が、罪刑法定主義との関係や、サンクションの過大さとの比較衡量に基づく萎縮的な著作権規定の適用を生んでいるようにも思う。実は著作権の保護強化は、かえって著作権を弱めるインセンティブに作用しているのではないか。
(注10)本ブログ「[著作権]行政目的の複製に対する複製権の制限(著作権法42条1項)に公衆送信権は含まれると解するべきか?」(2008年3月3日記事)参照。
(注11)修士論文のタネですよ。
2008年05月29日
[著作権]飯村敏明「著作権侵害訴訟における権利制限規定の意義について」報告受講メモ
飯村判事の報告は、裁判所(正確には飯村コート)の思いが伝わる、興味深いものであった。ここに概要をまとめ、若干の考察を行う。ただし、筆者が誤って理解している可能性があることを留意いただき、正確な内容は『著作権研究』(2010年刊)に依っていただきたい。
■報告要旨
著作権と一般人の行動の自由との衝突が多発するようになっている。これまでは、立法の強化が進み、また、人々の法意識が著作権を重視するようになってきたことから窺えるように、著作権を保護する方向で作用してきているように思われる。これは裁判所においても同様である。以前は規範的な解釈は許されないとの理解が主流であったが、規範的解釈が採られるようになってくるにつれ、規範的解釈の下、著作権の保護を重視する判決が下されるようになった(注1)。
同時に、裁判所としても行為自由の確保を考慮して判決を下すことも可能となった。
その一例が〔はたらくじどうしゃ事件〕東京地判平成13年7月25日判タ1067号297頁である。46条の趣旨は、学説等によると著作権者の意思や社会的慣行を挙げられていたが、〔はたらくじどうしゃ事件〕では、敢えてこれと若干違う解釈を採り、一般人の行動の自由との調整を挙げた。本判決は45条との関係のみを意識して限定的に解する解釈からはなれ、46条各号の規定を加味して解釈した。
仮に行為自由の確保することを志向するのであれば、権利制限規定の解釈によることが手段の一つである。他の手段としては、著作物性の要件を厳格化する手段、いま1つは侵害の要件を厳格化する手段がある。前者の例は、〔ヨミウリオンライン記事見出し事件知財高裁判決〕であるが、これは今から思えばあまり良い手段ではないかもしれない。後者の例は〔雪月花事件〕であるが、紛争の長期化をもたらす点がデメリットと考えられる。
■私見
野心的な解釈論を試みられている、との評価もある(注2)判事の率直な考えに触れることができたことは貴重な機会であった。
〔ヨミウリオンライン記事見出し事件〕の創作性判断には批判的見解もあるが(注3)、敢えて裁判所が意図していたということがわかったことは面白い。ただ、筆者はそのような傾向が続くかと考えていたが、飯村判事は否定的なご意見であり、今後の権利者の情報の利用者との利益調整は権利制限規定の解釈論に依るところが多くなるのかもしれない。もしそうであるならば、近時学説の深化が目覚ましい引用(32条)などを駆使した判決が登場するのであろう。
たしかに、著作物性の要件の厳格化は、「創作性」という抽象的規範(本研究大会において島並教授の解説された、ルール/スタンダード論におけるスタンダード型規定)にすがることになるため、要件が通常人にとって明確でなく、萎縮的な行動(この場合は、権利者が本来行使できるべき権利を行使しないということになろう)を惹起してしまうし、飯村判事が指摘するように、これまでの著作権一般の解釈論を損なうことにもなる。飯村判事の述べられたところは非常にうなづけるものである。
■報告要旨
本要旨は、報告の主眼と思われる点が強調されるよう、筆者において再構成している。
構成においても筆者の解釈が含まれている点については留意いただきたい。
著作権と一般人の行動の自由との衝突が多発するようになっている。これまでは、立法の強化が進み、また、人々の法意識が著作権を重視するようになってきたことから窺えるように、著作権を保護する方向で作用してきているように思われる。これは裁判所においても同様である。以前は規範的な解釈は許されないとの理解が主流であったが、規範的解釈が採られるようになってくるにつれ、規範的解釈の下、著作権の保護を重視する判決が下されるようになった(注1)。
同時に、裁判所としても行為自由の確保を考慮して判決を下すことも可能となった。
その一例が〔はたらくじどうしゃ事件〕東京地判平成13年7月25日判タ1067号297頁である。46条の趣旨は、学説等によると著作権者の意思や社会的慣行を挙げられていたが、〔はたらくじどうしゃ事件〕では、敢えてこれと若干違う解釈を採り、一般人の行動の自由との調整を挙げた。本判決は45条との関係のみを意識して限定的に解する解釈からはなれ、46条各号の規定を加味して解釈した。
仮に行為自由の確保することを志向するのであれば、権利制限規定の解釈によることが手段の一つである。他の手段としては、著作物性の要件を厳格化する手段、いま1つは侵害の要件を厳格化する手段がある。前者の例は、〔ヨミウリオンライン記事見出し事件知財高裁判決〕であるが、これは今から思えばあまり良い手段ではないかもしれない。後者の例は〔雪月花事件〕であるが、紛争の長期化をもたらす点がデメリットと考えられる。
(注1)その一例が〔クラブキャッツアイ事件〕最判昭和63年3月15日民集42巻3号199頁への流れを飯村判事は挙げていらっしゃった。さらには、それ以後の「カラオケ法理」の展開も挙げられよう。
■私見
野心的な解釈論を試みられている、との評価もある(注2)判事の率直な考えに触れることができたことは貴重な機会であった。
〔ヨミウリオンライン記事見出し事件〕の創作性判断には批判的見解もあるが(注3)、敢えて裁判所が意図していたということがわかったことは面白い。ただ、筆者はそのような傾向が続くかと考えていたが、飯村判事は否定的なご意見であり、今後の権利者の情報の利用者との利益調整は権利制限規定の解釈論に依るところが多くなるのかもしれない。もしそうであるならば、近時学説の深化が目覚ましい引用(32条)などを駆使した判決が登場するのであろう。
たしかに、著作物性の要件の厳格化は、「創作性」という抽象的規範(本研究大会において島並教授の解説された、ルール/スタンダード論におけるスタンダード型規定)にすがることになるため、要件が通常人にとって明確でなく、萎縮的な行動(この場合は、権利者が本来行使できるべき権利を行使しないということになろう)を惹起してしまうし、飯村判事が指摘するように、これまでの著作権一般の解釈論を損なうことにもなる。飯村判事の述べられたところは非常にうなづけるものである。
(注2)FJneo1994さんが指摘されるところである。「■[企業法務][知財] 「補足」の重み」「[企業法務][知財] 商標いろいろ(その6)〜恐怖の知財高裁第3部」『企業法務戦士の雑感』参照(すみません、私もフリーライドしました…>FJneo1994さん)。
(注3)蘆立順美「判批」コピライト521号(2004年)61頁。なお、筆者も批判的な態度である。
2008年05月27日
[著作権]小島立「条約における権利制限」報告受講メモ
著作権法学会2008年研究大会で、権利制限と条約、とくにスリーステップテストについて、小島准教授から報告がなされた。権利制限規定がスリーステップテスト違反となった例を紹介されるとともに、国内法解釈にあたってスリーステップテストが参酌されることの理論的課題を指摘されていた。
■報告要旨
著作権の制限規定がスリーステップテスト違反になった事例として、アメリカ著作権法110条(5)がベルヌ条約違反であるとして欧州の著作者団体がWTOに提訴した事例が挙げられる。
WTOのパネルはWT/DS160/Rで、一定の総床面積数以下の施設での非演劇的音楽著作物の権利制限が、ベルヌ条約11条(1)(ii)(上映権)等に違反すると判断された。その理由は、本条が、多数の飲食施設に適用されることを挙げ、これは「明確にて意義付けられ」「適用範囲が狭いこと」が求められると解される「特別な場合」との要件を満たさないと解したことにある(注1)。なお、本パネル報告書へは上訴が無く、WTO紛争解決機関で採択されている。また、米国は欧州に保証金を支払うことで対処しており、立法的対処は行っていない。
同様に、日本においてスリーステップテストとの関係が問題として、著作権法38条3項「通常の家庭用受信装置を用いてする営利を目的としない上演」が条約に適合していないとの指摘がなされている。
そのような場合、権利制限規定の解釈にあたり、スリーステップテストを参酌できるかが問題となるが、国際法の通説的理解では間接的に参酌することが可能であると考えられる。ただし、著作権法には刑事罰規定があるため、権利制限を縮小して解釈する場合(つまり、権利侵害になる方向で解釈する場合)、罪刑法定主義の観点から問題が生じうる。
■私見
スリーステップテストとの関係は非常に悩ましい問題である。世界の動きが紹介されたことは極めて有意義であった。
これまで、著作権の権利制限規定は例外規定であるから厳格に解されねばならないといわれてきた(注2)。しかし、これは教条的に過ぎ、批判もある(注3)。だが、本報告を受けて考えると、スリーステップテストが権利制限の範囲を厳格に(つまり権利者に有利なように)解する根拠となる可能性も感じられるところであった。
だが、小島准教授が指摘されたように、刑事罰との関係は重要である。権利者側はもし自己に有利に法解釈を促したいのであれば、広範な刑事罰規定を見直すことを訴えていくべきだろう。
なお、研究会では、一般条項を設けた場合、スリーステップテストの「特別の場合」要件を満たすか否かが課題となる点が議論となっていた。パネラーはおおよそ、運用上「特別の場合」に限るよう解釈されていればよいとの意見に落ち着いていたが、情報社会指令で厳密に権利制限範囲が確定した欧州諸国の権利者が米国のスリーステップテストに対してなんらかの理論的な攻勢をかけることも考えられる。
もっとも、欧州ではスリーステップテストの明確性に疑問の声が挙っていることが指摘されていたほか、明確性を欠く規定であるため国内法の解釈にあたって参酌することは困難との意見もあった。
いずれも今後考えていく上で参考になる。
■報告要旨
著作権の制限規定がスリーステップテスト違反になった事例として、アメリカ著作権法110条(5)がベルヌ条約違反であるとして欧州の著作者団体がWTOに提訴した事例が挙げられる。
WTOのパネルはWT/DS160/Rで、一定の総床面積数以下の施設での非演劇的音楽著作物の権利制限が、ベルヌ条約11条(1)(ii)(上映権)等に違反すると判断された。その理由は、本条が、多数の飲食施設に適用されることを挙げ、これは「明確にて意義付けられ」「適用範囲が狭いこと」が求められると解される「特別な場合」との要件を満たさないと解したことにある(注1)。なお、本パネル報告書へは上訴が無く、WTO紛争解決機関で採択されている。また、米国は欧州に保証金を支払うことで対処しており、立法的対処は行っていない。
同様に、日本においてスリーステップテストとの関係が問題として、著作権法38条3項「通常の家庭用受信装置を用いてする営利を目的としない上演」が条約に適合していないとの指摘がなされている。
そのような場合、権利制限規定の解釈にあたり、スリーステップテストを参酌できるかが問題となるが、国際法の通説的理解では間接的に参酌することが可能であると考えられる。ただし、著作権法には刑事罰規定があるため、権利制限を縮小して解釈する場合(つまり、権利侵害になる方向で解釈する場合)、罪刑法定主義の観点から問題が生じうる。
■私見
スリーステップテストとの関係は非常に悩ましい問題である。世界の動きが紹介されたことは極めて有意義であった。
これまで、著作権の権利制限規定は例外規定であるから厳格に解されねばならないといわれてきた(注2)。しかし、これは教条的に過ぎ、批判もある(注3)。だが、本報告を受けて考えると、スリーステップテストが権利制限の範囲を厳格に(つまり権利者に有利なように)解する根拠となる可能性も感じられるところであった。
だが、小島准教授が指摘されたように、刑事罰との関係は重要である。権利者側はもし自己に有利に法解釈を促したいのであれば、広範な刑事罰規定を見直すことを訴えていくべきだろう。
なお、研究会では、一般条項を設けた場合、スリーステップテストの「特別の場合」要件を満たすか否かが課題となる点が議論となっていた。パネラーはおおよそ、運用上「特別の場合」に限るよう解釈されていればよいとの意見に落ち着いていたが、情報社会指令で厳密に権利制限範囲が確定した欧州諸国の権利者が米国のスリーステップテストに対してなんらかの理論的な攻勢をかけることも考えられる。
もっとも、欧州ではスリーステップテストの明確性に疑問の声が挙っていることが指摘されていたほか、明確性を欠く規定であるため国内法の解釈にあたって参酌することは困難との意見もあった。
いずれも今後考えていく上で参考になる。
(注1)Ricketsonらによるとスリーステップテストの第1要件は「範囲が特定されている」、かつ「公共政策上の明確な理由から正当化される」または「例外的な状況から正当化される」と解される(SAM RICKETSON, THE BERNE CONVENTION FOR THE PROTECTION OF LITERARY AND ARTISTIC WORKS:1886-1986, p.482(Kluwer Law International 1986))。
(注2)最近でも裁判所がそのような趣旨に立って判断したものと思われるものが登場している。〔社会保険庁LAN雑誌記事事件〕東京地判平成20年2月26日(判例集未搭載)平成19年(ワ)第15231号、なお、同事件の概要は本ブログ2008年3月3日記事「[著作権]行政目的の複製に対する複製権の制限(著作権法42条1項)に公衆送信権は含まれると解するべきか?」参照。
(注3)中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)241頁。
2008年05月25日
[著作権]山本隆司「権利制限の共犯従属性」報告受講メモ
著作権法学会2008年研究大会で山本弁護士がなさった報告は、非常に刺激的なものであった。その概要(ただし、筆者が誤って理解している可能性があることを留意いただきたい)と若干の感想を述べる。
■報告概要
権利制限規定の解釈の枠組みを提示した。スリーステップテストの第2要件「通常の利用」の理解を手がかりにすると、権利制限の根拠は、(a)優越的価値を有する行為である、(b)著作権者に被害を生じさせない利用行為である、(c)市場の失敗を生じる利用行為である(それゆえ著作権者の権利行使を認めても誰もハッピーになれないから権利制限をかけてしまう)、の3つに大別できるのではないか。この枠組みに従うと、契約のオーバーライドの当否も判断できる。
また、この枠組みに従うと。権利制限規定の性質によって、間接侵害者に責任を認めるべき場合が峻別できる。具体的には、(c)の場合である。なぜならば、間接行為者が業として行う場合、個々の取引費用を無視しうることが出来、制限する根拠が失われるからである。
■私見
興味深い試論である。特に間接侵害について、「間接侵害を認める当否」ではなく、間接侵害の問題を生じさせる要因が権利制限規定であることに注目し検討するアプローチは興味深い。
もっとも、権利制限規定のうちどの規定が市場の失敗を理由とする権利制限規定と解することが出来るのかについてはなお議論の余地があろう。
ただし、スリーステップテストから権利制限の性質論への展開がどのように導くことが出来るのか、また、網羅的に性質論を述べているのか、時間の関係で山本弁護士も深くは述べることができなかったし、勉強の足りない私にはわからなかった。これについては、後日発表される『著作権法研究』の論稿に注目したい。
■報告概要
権利制限規定の解釈の枠組みを提示した。スリーステップテストの第2要件「通常の利用」の理解を手がかりにすると、権利制限の根拠は、(a)優越的価値を有する行為である、(b)著作権者に被害を生じさせない利用行為である、(c)市場の失敗を生じる利用行為である(それゆえ著作権者の権利行使を認めても誰もハッピーになれないから権利制限をかけてしまう)、の3つに大別できるのではないか。この枠組みに従うと、契約のオーバーライドの当否も判断できる。
また、この枠組みに従うと。権利制限規定の性質によって、間接侵害者に責任を認めるべき場合が峻別できる。具体的には、(c)の場合である。なぜならば、間接行為者が業として行う場合、個々の取引費用を無視しうることが出来、制限する根拠が失われるからである。
■私見
興味深い試論である。特に間接侵害について、「間接侵害を認める当否」ではなく、間接侵害の問題を生じさせる要因が権利制限規定であることに注目し検討するアプローチは興味深い。
もっとも、権利制限規定のうちどの規定が市場の失敗を理由とする権利制限規定と解することが出来るのかについてはなお議論の余地があろう。
ただし、スリーステップテストから権利制限の性質論への展開がどのように導くことが出来るのか、また、網羅的に性質論を述べているのか、時間の関係で山本弁護士も深くは述べることができなかったし、勉強の足りない私にはわからなかった。これについては、後日発表される『著作権法研究』の論稿に注目したい。
2008年05月19日
[著作権]音楽著作物の保護のあり方を巡る興味深い現状
津田大介「「音楽不況」なのか」朝日新聞2008年5月17日(東京版)は、昨今の音楽著作物を巡る保護のあり方についての議論の中で認識すべき興味深い数字を示している。
■記事の概要
音楽業界は不況にあると言うが、これは売れ行きが低下しているCDを中心に見ているからである。日本音楽著作権協会の資料料徴収額は2007年、過去最高の1156億円であったし、ライブの入場者は2006年1978万人となり、8年前に比べ500万人以上増加した。
しかし、レコード会社は音楽ファンを顧みておらず、CDに高い価格設定をしたままで、あまつさえ、iPodに「みかじめ」料を求めている。音楽ファンに真摯に向き合うべきである。
■私見
昨今の音楽著作物を巡る保護のあり方を巡る議論の重要な論点のうち2つは、
○違法にアップロードされた録音・録画物のダウンロード違法化
○デジタル音楽再生機器への私的録音録画補償金課金
であった。
これらを押し進める理由の一つ(あくまで一つ)として、違法にアップロードされた録音・録画の複製物により被害を受けていること、あるいは、私的録音録画補償金の対象となっていない私的複製が増加し著作権者の利益が害されていることがある。
私の乏しい知識で知る限りでは、音楽不況の現状が被害や利益を害されている蓋然性を示す資料として取り扱われてきたように思う。
今回の津田さんの記事は、その点に対する批判であろう。
私自身は的確な指摘であると感じた。この指摘は、同時に、「不況産業であるが文化的に重要であるので保護すべき」との議論を封じることにもつながる。
レコード会社が変わらなければならない、という指摘は国内に留まっていない。
たとえば、2008年5月12日付のTIME紙(ASIA版)は"Lost in the Shuffle"という記事の中で、米国でのCDの不況を取り上げ、レコード会社がオンライン配信やライブからの収益へ転換を図っている取り組みを紹介している(そして日本同様ライブからの収益があがるようになったことを紹介している)。
ダウンロード違法化もiPod課金もそれぞれ異なる理由付けがあるところであるし、私自身はその理由は覆すことは難しいと感じるが、レコード会社にも努力を求めるべきことは重要であると思う。あわせて、少なくとも私的録音録画補償金については、その配分のあり方についても再考をするべきではないかと考えている。
■記事の概要
音楽業界は不況にあると言うが、これは売れ行きが低下しているCDを中心に見ているからである。日本音楽著作権協会の資料料徴収額は2007年、過去最高の1156億円であったし、ライブの入場者は2006年1978万人となり、8年前に比べ500万人以上増加した。
しかし、レコード会社は音楽ファンを顧みておらず、CDに高い価格設定をしたままで、あまつさえ、iPodに「みかじめ」料を求めている。音楽ファンに真摯に向き合うべきである。
■私見
昨今の音楽著作物を巡る保護のあり方を巡る議論の重要な論点のうち2つは、
○違法にアップロードされた録音・録画物のダウンロード違法化
○デジタル音楽再生機器への私的録音録画補償金課金
であった。
これらを押し進める理由の一つ(あくまで一つ)として、違法にアップロードされた録音・録画の複製物により被害を受けていること、あるいは、私的録音録画補償金の対象となっていない私的複製が増加し著作権者の利益が害されていることがある。
私の乏しい知識で知る限りでは、音楽不況の現状が被害や利益を害されている蓋然性を示す資料として取り扱われてきたように思う。
今回の津田さんの記事は、その点に対する批判であろう。
私自身は的確な指摘であると感じた。この指摘は、同時に、「不況産業であるが文化的に重要であるので保護すべき」との議論を封じることにもつながる。
レコード会社が変わらなければならない、という指摘は国内に留まっていない。
たとえば、2008年5月12日付のTIME紙(ASIA版)は"Lost in the Shuffle"という記事の中で、米国でのCDの不況を取り上げ、レコード会社がオンライン配信やライブからの収益へ転換を図っている取り組みを紹介している(そして日本同様ライブからの収益があがるようになったことを紹介している)。
ダウンロード違法化もiPod課金もそれぞれ異なる理由付けがあるところであるし、私自身はその理由は覆すことは難しいと感じるが、レコード会社にも努力を求めるべきことは重要であると思う。あわせて、少なくとも私的録音録画補償金については、その配分のあり方についても再考をするべきではないかと考えている。
2008年05月16日
[著作権][つぶやき]著作権侵害のおそれがない場合、予防請求は棄却?却下?
いまさらであるが中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)の著述の細やかさ、論理の正確さには、襟を正させられる。
用語の使い方一つとってもそうである。例えば、却下と棄却。基本的な用語であるが、訴訟法の専門家や、裁判官以外は(注1)、明示的に区別して用いているだろうか?恥ずかしながら私はいい加減に使っていた。
具体的には、著作権侵害の予防措置請求が、侵害のおそれがないために認められない場合について、田村善之『著作権法概説 第2版』(有斐閣、2004年)は訴えの利益がないから却下されると述べていることに対し、中山469頁は実質的な審理が行われていることを理由に棄却が正しいと述べている。
一語に緊張感が満ちていることが表れている一文であるように思う。
用語の使い方一つとってもそうである。例えば、却下と棄却。基本的な用語であるが、訴訟法の専門家や、裁判官以外は(注1)、明示的に区別して用いているだろうか?恥ずかしながら私はいい加減に使っていた。
具体的には、著作権侵害の予防措置請求が、侵害のおそれがないために認められない場合について、田村善之『著作権法概説 第2版』(有斐閣、2004年)は訴えの利益がないから却下されると述べていることに対し、中山469頁は実質的な審理が行われていることを理由に棄却が正しいと述べている。
一語に緊張感が満ちていることが表れている一文であるように思う。
2008年03月24日
[著作権]インド著作権法に関する覚え書き
必要があってインド著作権法を調べていると日本法と異なるところが少なからずある。
おもしろかったので、覚え書き程度に書き留めてみた(注1)。
■立法上の相違点
□貸与権の対象がプログラムの著作物に限定
インド著作権法は著作物の類型ごとに著作権の権利内容(支分権)を規定している。その中で貸与権に該当する権利はプログラムの著作物にしか与えられていない(14条(b)(ii))。
日本において貸与権は貸レコード対策として立法され、その後著作物一般を対象とする支分権とされたものと説明されるが、インドでも同様にレンタルソフト対策として規定されたのであろうか。その立法過程が知りたいところである。
なお、同号但し書きはプログラムを貸与の本質的目的としない貸与には及ばない旨を規定している。
□著作権譲渡は原則時限譲渡
インド著作権法は著作権譲渡にあたって書面での契約を要求しているが、その中で譲渡の期間を定めないと5年の譲渡であるとみなされる(19条5項)。
このような立法例は管見の限り主要国で見られない。
利用許諾でなく譲渡契約の期間を限る理由はどこにあるのであろうか。
■余談:私の誤解
インド著作権法を調べている中で、恥ずかしながら、大きな発見が2つあった。
□英米法だって著作者人格権の規定がある
「英米法は著作者人格権の規定が無く、一般人格権で処理している」と妄信していたのだが、インド著作権法第4章にはばっちり著作者人格権の規定がある。インドはイギリス法を継受している点が多いので、イギリス著作権法を調べてみると、これまたばっちり規定があった。
これは、ベルヌ条約に批准した影響であるようだ(注2)。
歴史的な経緯としては正しいのだろうが、現状もそうだと理解していた自分が恥ずかしい。
□著作権の譲渡には書面性が要求される立法が多い
上にも挙げたようにインド著作権法は著作権の譲渡に書面性を要求している。
特異な例かと思いきや、アメリカ、イギリス、フランスも同様の規定があった。
著作権の譲渡契約が支分権ごとや、地域的範囲などを限定した契約がなされること(つまり細分化されること)がしばしばあるという実務状況を反映し、紛争の防止のためこのような規定が設けられていると考えられる。
日本においても平成17年に書面性の要求について検討がなされていたが、
○我が国では主要な契約は諾成契約であり、著作権譲渡契約のみ要式契約とする合理的理由が見いだせない
○自由心証主義のもとに契約締結の事実についての認定が行われた方が妥当な解決を図ることができる
○些細な著作権譲渡に要式性を求めるのは煩雑
○弱者保護の観点は下請法で達成している
との理由で否定的な結論が下されている(注3)。
■参考
インド著作権庁(人的資源開発省中等・高等教育局)
http://copyright.gov.in/
社団法人著作権情報センター>外国著作権法>インド編(山本隆司・岡雅子共訳)
http://www.cric.or.jp/gaikoku/india/india.html
おもしろかったので、覚え書き程度に書き留めてみた(注1)。
■立法上の相違点
□貸与権の対象がプログラムの著作物に限定
インド著作権法は著作物の類型ごとに著作権の権利内容(支分権)を規定している。その中で貸与権に該当する権利はプログラムの著作物にしか与えられていない(14条(b)(ii))。
日本において貸与権は貸レコード対策として立法され、その後著作物一般を対象とする支分権とされたものと説明されるが、インドでも同様にレンタルソフト対策として規定されたのであろうか。その立法過程が知りたいところである。
なお、同号但し書きはプログラムを貸与の本質的目的としない貸与には及ばない旨を規定している。
□著作権譲渡は原則時限譲渡
インド著作権法は著作権譲渡にあたって書面での契約を要求しているが、その中で譲渡の期間を定めないと5年の譲渡であるとみなされる(19条5項)。
このような立法例は管見の限り主要国で見られない。
利用許諾でなく譲渡契約の期間を限る理由はどこにあるのであろうか。
■余談:私の誤解
インド著作権法を調べている中で、恥ずかしながら、大きな発見が2つあった。
□英米法だって著作者人格権の規定がある
「英米法は著作者人格権の規定が無く、一般人格権で処理している」と妄信していたのだが、インド著作権法第4章にはばっちり著作者人格権の規定がある。インドはイギリス法を継受している点が多いので、イギリス著作権法を調べてみると、これまたばっちり規定があった。
これは、ベルヌ条約に批准した影響であるようだ(注2)。
歴史的な経緯としては正しいのだろうが、現状もそうだと理解していた自分が恥ずかしい。
□著作権の譲渡には書面性が要求される立法が多い
上にも挙げたようにインド著作権法は著作権の譲渡に書面性を要求している。
特異な例かと思いきや、アメリカ、イギリス、フランスも同様の規定があった。
著作権の譲渡契約が支分権ごとや、地域的範囲などを限定した契約がなされること(つまり細分化されること)がしばしばあるという実務状況を反映し、紛争の防止のためこのような規定が設けられていると考えられる。
日本においても平成17年に書面性の要求について検討がなされていたが、
○我が国では主要な契約は諾成契約であり、著作権譲渡契約のみ要式契約とする合理的理由が見いだせない
○自由心証主義のもとに契約締結の事実についての認定が行われた方が妥当な解決を図ることができる
○些細な著作権譲渡に要式性を求めるのは煩雑
○弱者保護の観点は下請法で達成している
との理由で否定的な結論が下されている(注3)。
■参考
インド著作権庁(人的資源開発省中等・高等教育局)
http://copyright.gov.in/
社団法人著作権情報センター>外国著作権法>インド編(山本隆司・岡雅子共訳)
http://www.cric.or.jp/gaikoku/india/india.html
(注1)なお、私は2月段階にこれを調べたのだが、わずか1ヶ月後、日本語訳がCRICから公表された…。なんとムナシイ。
(注2)神繁司「ギリス新著作権法寸描」カレントアウェアネスNo.128(1990年) http://current.ndl.go.jp/ca658
(注3)文化審議会著作権分科会法制問題小委員会契約・利用ワーキングチーム「文化審議会著作権分科会法制問題小委員会契約・利用ワーキングチーム検討結果報告」 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/013/05072901/003.htm
2008年03月03日
[著作権]行政目的の複製に対する複製権の制限(著作権法42条1項)に公衆送信権は含まれると解するべきか?
〔社会保険庁LAN雑誌記事事件〕東京地判平成20年2月26日(判例集未搭載)平成19年(ワ)第15231号(※設樂コート)は、著作権法42条の興味深い論点を示している。
■事案の概要
被告(国)の設置した社会保険庁内のLAN(利用者:社会保険庁全職員約17000人)に、原告が著作権を有する雑誌記事(社会保険庁に対する苦情に関するものであった)を掲載したことが、原告の当該著作物にかかる複製権または公衆送信権を侵害するものとして争われた事案。
被告は、複製権侵害の主張に対しては著作権法42条1項(行政目的の複製に対する複製権の制限)に該当するとし、公衆送信権侵害の主張に対しては、文言上著作権法42条には公衆送信権は含まれないが、その趣旨を没却しないためにも、公衆送信権が同条の対象に含まれると解釈するべきと述べていた。
他方原告は、複製権侵害の主張に対する抗弁への反論として、「国家意思等を決定するに必要であり、その著作物を複製しなければ行政の目的を十全に達成できないような場合でなくてはならない」と述べていた。
■判旨(42条1項の該当性について)
■考察
本事案は42条1項にいう「行政目的」の該当性について判断する機会であったが、判決はその判断を避けている。42条の文言上公衆送信権が含まれていないことから、公衆送信権は同条の対象外と述べた上で、公衆送信権の侵害を認定して原告の請求に応えている。
しかし、これには疑問がある。
42条1項の文言上公衆送信権が含まれていないことは間違いないが、複製と公衆送信の違いを区分する必要性があるのだろうか。仮に行政内部において公衆送信可能化することにより当該情報を受領する者の数が増えることを問題にしているのであれば、同条但し書きに言う、
に該当するとして同条の適用を否定すればいいのではないか。
このような判断の背景には、あるいは30条以下は限定列挙であるから限定的に解釈しなければならないという考えがあるのかもしれない。しかし、そのような一般的な命題には異論のあるところである(注1)。
もっとも、判決が本件行為について「実質的に見ても,42条1項を拡張的に適用する余地がない」と述べていることに鑑みれば、行為態様によっては同条が公衆送信に拡張して適用される可能性もある。
しかし、仮にそのような意図であるとすれば、42条1項但し書きに照らし、本件行為が不当な利益を害するものか否か、判決は丁寧に述べているはずである。おそらくそのような読み方は出来ないのであろう。
■余談
余談になるが、執務の参考情報として行政が著作物を共有する場合、著作権者への許諾が必要…となると、そのライセンス料契約は『随意契約』となる。これって大変な手間では…などと余計な心配もしてしまう。
■事案の概要
被告(国)の設置した社会保険庁内のLAN(利用者:社会保険庁全職員約17000人)に、原告が著作権を有する雑誌記事(社会保険庁に対する苦情に関するものであった)を掲載したことが、原告の当該著作物にかかる複製権または公衆送信権を侵害するものとして争われた事案。
被告は、複製権侵害の主張に対しては著作権法42条1項(行政目的の複製に対する複製権の制限)に該当するとし、公衆送信権侵害の主張に対しては、文言上著作権法42条には公衆送信権は含まれないが、その趣旨を没却しないためにも、公衆送信権が同条の対象に含まれると解釈するべきと述べていた。
他方原告は、複製権侵害の主張に対する抗弁への反論として、「国家意思等を決定するに必要であり、その著作物を複製しなければ行政の目的を十全に達成できないような場合でなくてはならない」と述べていた。
■判旨(42条1項の該当性について)
「42条1項は,…(中略)…特定の場合に,著作物の複製行為が複製権侵害とならないことを認めた規定であり,この規定が公衆送信(自動公衆送信の場合の送信可能化を含む。)を行う権利の侵害行為について適用されないことは明らかである。」
「また,42条1項は,行政目的の内部資料として必要な限度において,複製行為を制限的に許容したのであるから,本件LANシステムに本件著作物を記録し,社会保険庁…(中略)…及び社会保険事務所内の多数の者の求めに応じ自動的に公衆送信を行うことを可能にした本件記録行為については,実質的にみても,42条1項を拡張的に適用する余地がないことは明らかである」
■考察
本事案は42条1項にいう「行政目的」の該当性について判断する機会であったが、判決はその判断を避けている。42条の文言上公衆送信権が含まれていないことから、公衆送信権は同条の対象外と述べた上で、公衆送信権の侵害を認定して原告の請求に応えている。
しかし、これには疑問がある。
42条1項の文言上公衆送信権が含まれていないことは間違いないが、複製と公衆送信の違いを区分する必要性があるのだろうか。仮に行政内部において公衆送信可能化することにより当該情報を受領する者の数が増えることを問題にしているのであれば、同条但し書きに言う、
「当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない」
に該当するとして同条の適用を否定すればいいのではないか。
このような判断の背景には、あるいは30条以下は限定列挙であるから限定的に解釈しなければならないという考えがあるのかもしれない。しかし、そのような一般的な命題には異論のあるところである(注1)。
もっとも、判決が本件行為について「実質的に見ても,42条1項を拡張的に適用する余地がない」と述べていることに鑑みれば、行為態様によっては同条が公衆送信に拡張して適用される可能性もある。
しかし、仮にそのような意図であるとすれば、42条1項但し書きに照らし、本件行為が不当な利益を害するものか否か、判決は丁寧に述べているはずである。おそらくそのような読み方は出来ないのであろう。
■余談
余談になるが、執務の参考情報として行政が著作物を共有する場合、著作権者への許諾が必要…となると、そのライセンス料契約は『随意契約』となる。これって大変な手間では…などと余計な心配もしてしまう。
(注1)総論的にそのように触れるものとして中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)241頁。なお、42条1項にいう行政目的を限定的に解するべきと述べるもの(本件原告の主張である)として、加戸守行『著作権法逐条講義 四訂新版』(著作権情報センター、2003年)283頁。
2008年01月19日
[著作権]コンテンツ産業への投資誘導施策は有効かもしれない
読売新聞2008年1月17日(東京版)に掲載された、土井宏文「著作権投資に減税を」は興味深い施策提起をしていた。
■論稿の概要
土井さんのロジックは次のようにまとめられる。
日本のコンテンツ産業は、(1)海外進出不足、(2)関与者による権益確保に起因する流通モデル革新の遅れ、(3)コンテンツ産業関係者の資金調達手法への理解不足、が課題である。それを解決しコンテンツ産業を振興するためには、国が直接投資を行うよりは、多くの諸外国が導入するようにコンテンツ産業への投資優遇税制をとるべきである。そうすると、(1)、(2)の解決につながるのではないか。
■コンテンツ産業への投資優遇税制策への私見
私はこの案に賛同したい。
知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会で議論されているところによると、現状のコンテンツ産業は、(1)条件の良くない創作環境、(2)プロデューサー人材の不足、(3)資金不足が課題であるとのことである。
(2)に対しては、政府は関連する大学の整備を押し進めているようであるから、あるいは解消されるのかもしれない(もっとも、私は、(1)の解消でそのような人材が自ずと集まると思うのだが)。
(1)は土井さんが問題とするように、流通モデルの問題に起因するところもあるように思われる。流通サイドは、流通チャンネルを限定することでクリエーターに対して自己の立場を優位に立つことが(理論上は)できる。それゆえ、流通モデルを革新させないインセンティブがある。
残された課題の(3)には投資優遇税制という解決策は効果的である。投資者がガバナンスを働かせる余地が生じ、流通モデル刷新や、クリエーターの創作インセンティブ向上策を働きかける可能性が生まれるように思う。
■留保したい点と注意点?
もっとも、同論稿では、「多くの国がコンテンツ産業への投資の優遇策を行っている」と述べていたが、これはどこまで正確なのだろうか。私は正確に把握していないので恐縮だが、少なくとも筆者が挙げていた英国、ドイツ、フランス、カナダでは、映画産業への優遇策を設けており、その中に投資優遇策が含まれていることは間違いなさそうである。
しかし、「コンテンツ産業」すべてに対して、ということは管見の限り見当たっていない。
上記の優遇策は、権力者あるいは国民の映画産業へのノスタルジーが生んだ政策である可能性や、映画産業と言うロビイストの活動の成果である可能性もある。諸手を上げて倣うべきというには精査が必要であると思う。
また、優遇税制は他国の制作現場に悪影響を与えかねず、国際問題となることもあるようだ(注1)。導入するならばそれなりの覚悟はいるのだろう。
■論稿の概要
土井さんのロジックは次のようにまとめられる。
日本のコンテンツ産業は、(1)海外進出不足、(2)関与者による権益確保に起因する流通モデル革新の遅れ、(3)コンテンツ産業関係者の資金調達手法への理解不足、が課題である。それを解決しコンテンツ産業を振興するためには、国が直接投資を行うよりは、多くの諸外国が導入するようにコンテンツ産業への投資優遇税制をとるべきである。そうすると、(1)、(2)の解決につながるのではないか。
■コンテンツ産業への投資優遇税制策への私見
私はこの案に賛同したい。
知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会で議論されているところによると、現状のコンテンツ産業は、(1)条件の良くない創作環境、(2)プロデューサー人材の不足、(3)資金不足が課題であるとのことである。
(2)に対しては、政府は関連する大学の整備を押し進めているようであるから、あるいは解消されるのかもしれない(もっとも、私は、(1)の解消でそのような人材が自ずと集まると思うのだが)。
(1)は土井さんが問題とするように、流通モデルの問題に起因するところもあるように思われる。流通サイドは、流通チャンネルを限定することでクリエーターに対して自己の立場を優位に立つことが(理論上は)できる。それゆえ、流通モデルを革新させないインセンティブがある。
残された課題の(3)には投資優遇税制という解決策は効果的である。投資者がガバナンスを働かせる余地が生じ、流通モデル刷新や、クリエーターの創作インセンティブ向上策を働きかける可能性が生まれるように思う。
■留保したい点と注意点?
もっとも、同論稿では、「多くの国がコンテンツ産業への投資の優遇策を行っている」と述べていたが、これはどこまで正確なのだろうか。私は正確に把握していないので恐縮だが、少なくとも筆者が挙げていた英国、ドイツ、フランス、カナダでは、映画産業への優遇策を設けており、その中に投資優遇策が含まれていることは間違いなさそうである。
しかし、「コンテンツ産業」すべてに対して、ということは管見の限り見当たっていない。
上記の優遇策は、権力者あるいは国民の映画産業へのノスタルジーが生んだ政策である可能性や、映画産業と言うロビイストの活動の成果である可能性もある。諸手を上げて倣うべきというには精査が必要であると思う。
また、優遇税制は他国の制作現場に悪影響を与えかねず、国際問題となることもあるようだ(注1)。導入するならばそれなりの覚悟はいるのだろう。
(注1)たとえば、カナダの映画への優遇税制はハリウッドを害するものとしてアメリカから不満が挙っているという。なお、"Canadian province to extend film tax incentvies" Returners (2007/10/19)最終段参照。
2007年12月14日
[著作権]私的複製の範囲の行方
文化庁文化審議会著作権分科会私的録音録画小委員会がまとめた中間報告に対するパブリックコメント結果が、「私的録音録画小委員会中間整理に関する意見募集の結果について」として公表されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/020/07112907/002.pdf
ざっと見ただけの段階であるが、気になったことをコメントしたい。
私は「違法サイトからのダウンロード違法化」という流れには、少々懸念している。
■違法サイトとの峻別について
いちおう「明白に違法な複製物」という限定を付す方向であるが、その峻別方法として、日本レコード協会は「違法サイトと適法サイトを峻別するマーク」を提案されているが、少なくとも下記の2点には対応する必要があるのではないだろうか。
「本来著作権の対象でないものを頒布するサイトに対して違法とマークすること」
「本来違法な複製物を頒布するサイトが勝手に適法マークを付すこと」
前者は、マークに対する信用性が高ければ高いほど、これを野放しにすることで表現の自由を損なう可能性があるし、後者は、マークへの信頼性を低下させ、峻別方法が不明確となった結果、ダウンロード行為一般を萎縮させる可能性がある。
もっとも、マークへの信用が低下した結果、「明白に違法でない」という認定につながるのであれば、利用者が被る不利益は懸念されるものでなくなるだろう。ただし、その場合、違法サイトからのダウンロード違法化は単なるメッセージ的な規定となるに留まる。
レコード協会が指摘されるように、本問題の根がモラルの問題であるならば、そのようなメッセージ的な規定と解釈をすることでも十分なようにも思える。
罰則について
中間報告案は罰則を適用しないことを提言している。
これに対し、日本国際映画著作権協会などは疑問を呈している。
しかし、仮に罰則を適用しても、果たして、権利者の望む運用がされるかについては疑問である。多数の「犯罪者」を出すような解釈をすることを裁判所がためらわないだろうか。刑事罰対象としたために「明白に違法でない」と認定する範囲が多くなるかもしれないと思えてしまう。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/020/07112907/002.pdf
ざっと見ただけの段階であるが、気になったことをコメントしたい。
私は「違法サイトからのダウンロード違法化」という流れには、少々懸念している。
■違法サイトとの峻別について
いちおう「明白に違法な複製物」という限定を付す方向であるが、その峻別方法として、日本レコード協会は「違法サイトと適法サイトを峻別するマーク」を提案されているが、少なくとも下記の2点には対応する必要があるのではないだろうか。
「本来著作権の対象でないものを頒布するサイトに対して違法とマークすること」
「本来違法な複製物を頒布するサイトが勝手に適法マークを付すこと」
前者は、マークに対する信用性が高ければ高いほど、これを野放しにすることで表現の自由を損なう可能性があるし、後者は、マークへの信頼性を低下させ、峻別方法が不明確となった結果、ダウンロード行為一般を萎縮させる可能性がある。
もっとも、マークへの信用が低下した結果、「明白に違法でない」という認定につながるのであれば、利用者が被る不利益は懸念されるものでなくなるだろう。ただし、その場合、違法サイトからのダウンロード違法化は単なるメッセージ的な規定となるに留まる。
レコード協会が指摘されるように、本問題の根がモラルの問題であるならば、そのようなメッセージ的な規定と解釈をすることでも十分なようにも思える。
罰則について
中間報告案は罰則を適用しないことを提言している。
これに対し、日本国際映画著作権協会などは疑問を呈している。
しかし、仮に罰則を適用しても、果たして、権利者の望む運用がされるかについては疑問である。多数の「犯罪者」を出すような解釈をすることを裁判所がためらわないだろうか。刑事罰対象としたために「明白に違法でない」と認定する範囲が多くなるかもしれないと思えてしまう。
2007年11月19日
[著作権]著作権制度を巡る望ましさ―私的複製の範囲の制限と、「権利表示」の適正化―
■録音・録画物の複製物のダウンロードを私的複製の範囲から除くことの評価
先月、文化庁著作権審議会私的録音録画補償金制度検討小委員会の中間報告が発表され、違法に公衆送信された録音・録画物の複製物のダウンロード行為を私的複製の対象から外すことが提言として織り込まれた。
違法複製物のダウンロード行為を私的複製の範囲から外す最大の理由は、その規範的な問題点にあると思われるが、提言は録音・録画物に敢えて対象を絞っている。限定した根拠を中間報告から探ると、「経済的被害の深刻さ」にあるのだろう(注1)。
この点について穿った見方をすれば、「経済的被害の深刻さ」があるからこそ、私的領域まで権利を及ぼすことが許容されているのであり、公衆の表現活動の保障と、著作活動のインセンティブとの間のきわめて微妙なバランスの位置にあるように見える。
もちろん、まだ提言段階であり、どのような態様のダウンロード行為が私的複製の対象外とされるかわからないが、ここでは、著作権を侵害して複製された複製物の、故意または重過失によるダウンロード行為が私的複製の範囲外とされることを想定して考えてみた。
■提言により生じる懸念
もし、きわめて微妙なバランスの上に成り立っているとするならば、これにより損なわれる他の利益への配慮も行われるほうが望ましいように思われる。
一部の著作物に限り、また、対象となる行為が「ダウンロード」であるとはいえ、私的複製の範囲が減少することで、公衆に与える影響は少なくないものと私は考える。
私は、パブリックドメインとなった著作物についても、何者かが権利主張をし、その結果、公衆の利用阻害となることの弊害を懸念している。
懸念する状況は次のようなものだ。
ダウンロードするに当たり、「違法でない」ことを利用者が確保するためには、主にウェブを通じて、(i)対象となる著作物に係る著作権(もっとも、著作権のうち一部を譲渡することもあろうから、公衆送信権が対象となろう)を有する者を探し、(ii)その者が、自由利用を許諾しているか、あるいは、当該著作物がアップロードサイトを通じた公衆送信を許容しているか、を確認することになろう。
(著作権には(プログラム著作物を除き)登録制度がないため、利用者は著作権者と思われる者の表示を信じることになろう(注2))
このモデルが正しい場合、(a)真の著作権者は自由利用を許諾しているが、著作権者でない者が権利者であるかのような表示を行っている、(b)パブリックドメインとなったにもかかわらず、創作者が著作権を有するかのような表示を行っている、時に、公衆は本来利用できるはずの著作物を利用できない状況が事実上生じてしまう(注3)。創作活動を阻害につながることも十分考えられる。
もちろん、このような状況は、これまでもありえた訳であるが、従来は私的複製の範囲にある限り複製が出来たので、弊害がそれほどまでに顕在化していなかったと考えられる。
しかし、中間報告が提言する(注4)ように、(録音・録画物に限るとはいえ)著作物の複製物のダウンロードを私的複製から除くと、このような状況が顕在化することが懸念される。
■懸念への対処
上記の懸念への対処としてそれぞれ検討する。
(a)に対しては、虚偽の権利者表示であるが、「著作者名」を偽っていると評価できれば著作権法121条での対処や、著作者人格権侵害に基づく対処が考えられるが、そうでないならば何もできない。
ただし、真の著作権者に本来向けられるべき著作物利用の諾否のアクセスが行わなくなることなどが想定でき、真の著作権者に対する一般不法行為とされる可能性がある。
(b)に対しては、法的手段は考えにくい。
先に述べたように、弊害があることは述べた。では、どうすべきか。
たとえば、誤った著作権の存否、帰属に関する表示に対して公衆からの差止請求を認める、あるいは、さらに踏み込んで刑事的規制を加えるという手もある(しかし、表示が法的には意味を持たないことから刑事的規制は不自然であろう)。
もちろん、この方策はあくまで「望ましい」著作権制度についていうものであり、理論的に必要というものではない。
内容としてはあまりに突飛な意見かもしれないが、私的領域へ著作権が入り込む今、見直す部分は大きいように思えるのである。もっとも、誰もそんなこと言ってないので、実はクリティカルな間違いをしているかも…とも思っている。その場合はやさしく(笑)教えていただきたい。
先月、文化庁著作権審議会私的録音録画補償金制度検討小委員会の中間報告が発表され、違法に公衆送信された録音・録画物の複製物のダウンロード行為を私的複製の対象から外すことが提言として織り込まれた。
違法複製物のダウンロード行為を私的複製の範囲から外す最大の理由は、その規範的な問題点にあると思われるが、提言は録音・録画物に敢えて対象を絞っている。限定した根拠を中間報告から探ると、「経済的被害の深刻さ」にあるのだろう(注1)。
この点について穿った見方をすれば、「経済的被害の深刻さ」があるからこそ、私的領域まで権利を及ぼすことが許容されているのであり、公衆の表現活動の保障と、著作活動のインセンティブとの間のきわめて微妙なバランスの位置にあるように見える。
もちろん、まだ提言段階であり、どのような態様のダウンロード行為が私的複製の対象外とされるかわからないが、ここでは、著作権を侵害して複製された複製物の、故意または重過失によるダウンロード行為が私的複製の範囲外とされることを想定して考えてみた。
■提言により生じる懸念
もし、きわめて微妙なバランスの上に成り立っているとするならば、これにより損なわれる他の利益への配慮も行われるほうが望ましいように思われる。
一部の著作物に限り、また、対象となる行為が「ダウンロード」であるとはいえ、私的複製の範囲が減少することで、公衆に与える影響は少なくないものと私は考える。
私は、パブリックドメインとなった著作物についても、何者かが権利主張をし、その結果、公衆の利用阻害となることの弊害を懸念している。
懸念する状況は次のようなものだ。
ダウンロードするに当たり、「違法でない」ことを利用者が確保するためには、主にウェブを通じて、(i)対象となる著作物に係る著作権(もっとも、著作権のうち一部を譲渡することもあろうから、公衆送信権が対象となろう)を有する者を探し、(ii)その者が、自由利用を許諾しているか、あるいは、当該著作物がアップロードサイトを通じた公衆送信を許容しているか、を確認することになろう。
(著作権には(プログラム著作物を除き)登録制度がないため、利用者は著作権者と思われる者の表示を信じることになろう(注2))
このモデルが正しい場合、(a)真の著作権者は自由利用を許諾しているが、著作権者でない者が権利者であるかのような表示を行っている、(b)パブリックドメインとなったにもかかわらず、創作者が著作権を有するかのような表示を行っている、時に、公衆は本来利用できるはずの著作物を利用できない状況が事実上生じてしまう(注3)。創作活動を阻害につながることも十分考えられる。
もちろん、このような状況は、これまでもありえた訳であるが、従来は私的複製の範囲にある限り複製が出来たので、弊害がそれほどまでに顕在化していなかったと考えられる。
しかし、中間報告が提言する(注4)ように、(録音・録画物に限るとはいえ)著作物の複製物のダウンロードを私的複製から除くと、このような状況が顕在化することが懸念される。
■懸念への対処
上記の懸念への対処としてそれぞれ検討する。
(a)に対しては、虚偽の権利者表示であるが、「著作者名」を偽っていると評価できれば著作権法121条での対処や、著作者人格権侵害に基づく対処が考えられるが、そうでないならば何もできない。
ただし、真の著作権者に本来向けられるべき著作物利用の諾否のアクセスが行わなくなることなどが想定でき、真の著作権者に対する一般不法行為とされる可能性がある。
(b)に対しては、法的手段は考えにくい。
先に述べたように、弊害があることは述べた。では、どうすべきか。
たとえば、誤った著作権の存否、帰属に関する表示に対して公衆からの差止請求を認める、あるいは、さらに踏み込んで刑事的規制を加えるという手もある(しかし、表示が法的には意味を持たないことから刑事的規制は不自然であろう)。
もちろん、この方策はあくまで「望ましい」著作権制度についていうものであり、理論的に必要というものではない。
内容としてはあまりに突飛な意見かもしれないが、私的領域へ著作権が入り込む今、見直す部分は大きいように思えるのである。もっとも、誰もそんなこと言ってないので、実はクリティカルな間違いをしているかも…とも思っている。その場合はやさしく(笑)教えていただきたい。
(注1)しかし、その被害が本当に深刻であるのかについて疑問を呈する見解もある。たとえば、慶應義塾大学の田中辰雄准教授の研究は、ファイル共有ソフトのユーザーはそもそも潜在的消費者でない可能性を示している。また、中間報告のような書きぶりが、情緒的に過ぎるという旨の批判が小委員会の委員からもなされている。。
(注2)私的な範囲の利用の場合、その真偽を確かめるだけのコストをかけることは事実上困難だろう、との推測が前提として存在する。
(注3)もちろん、法令遵守を前提とする限りである。私は、あまりに身近に違法領域ができることは、かえって著作権を守ろうとする意識の低下を生むのでは…とも懸念している。
(注4)厳密には、委員の多くがオーソライズした、というべきだろうか
2007年09月28日
[著作権]文化芸術だけを守るものかどうか
岡本薫「国際政治問題になった著作権」時の法令1787号(2007年)26頁以下読書メモ
岩波新書『著作権の考え方』で、率直な見解を述べられたことで有名な岡本薫、元・著作権課長のエッセイが載っていた。面白いものだったのでちょこっと紹介…。
■エッセイの概要
著作権は、近時、経済問題としての性質を帯びてきたと岡本さんは述べられている。その要因として3点を指摘されている。具体的には、産業と深く結びついた著作物が登場したこと、媒体が多様化し産業と深く結びついた媒体が一般化してきたこと、伝達経路も多様化し、その伝達経路が産業と結びついていること、の3つを挙げられている。
各国においても著作権を所管する省庁として経済系省庁が登場することが多くなっていることを挙げ、著作権が産業経済と関わりを深めつつ有ることを窺わせている。
さらに、経済問題が国際政治問題の中心となっている近時の傾向を挙げ、著作権も同様に国際政治の問題、つまり自国利益の確保が主要な関心に変化したと述べられている。
そして、これらの傾向はベルヌ条約設立当時の目的から離れていった、と指摘をされている。
■私見
おおよその方向性については共感を覚える。
著作物が有力な経済上の財貨である以上、ビジネスルールとして取り扱われるようになるのは、当然の成り行きだと思う。
もっとも、正直なところを言うと、元々の出自はビジネスルールにちかいところだったんじゃないか、とも感じているが…。
頭の整理ができていないが、私は、特定の事業法に近いものであった著作権が、技術の進歩で複数の事業にまたがるようになり、競争(の調整)法としての性質をもたざるを得なくなってきたと考えている。
このような変化を著作権の変化として受け入れるか、断固拒否するかは、岡本さんが指摘するように個々人の価値判断とそれらの総体である民主的な判断にゆだねられると思う。しかし、法解釈の上で、感情レベルの話として、「経済問題」としての理解が明示的でないにせよ影響を与える可能性はある。
岩波新書『著作権の考え方』で、率直な見解を述べられたことで有名な岡本薫、元・著作権課長のエッセイが載っていた。面白いものだったのでちょこっと紹介…。
■エッセイの概要
著作権は、近時、経済問題としての性質を帯びてきたと岡本さんは述べられている。その要因として3点を指摘されている。具体的には、産業と深く結びついた著作物が登場したこと、媒体が多様化し産業と深く結びついた媒体が一般化してきたこと、伝達経路も多様化し、その伝達経路が産業と結びついていること、の3つを挙げられている。
各国においても著作権を所管する省庁として経済系省庁が登場することが多くなっていることを挙げ、著作権が産業経済と関わりを深めつつ有ることを窺わせている。
さらに、経済問題が国際政治問題の中心となっている近時の傾向を挙げ、著作権も同様に国際政治の問題、つまり自国利益の確保が主要な関心に変化したと述べられている。
そして、これらの傾向はベルヌ条約設立当時の目的から離れていった、と指摘をされている。
■私見
おおよその方向性については共感を覚える。
著作物が有力な経済上の財貨である以上、ビジネスルールとして取り扱われるようになるのは、当然の成り行きだと思う。
もっとも、正直なところを言うと、元々の出自はビジネスルールにちかいところだったんじゃないか、とも感じているが…。
頭の整理ができていないが、私は、特定の事業法に近いものであった著作権が、技術の進歩で複数の事業にまたがるようになり、競争(の調整)法としての性質をもたざるを得なくなってきたと考えている。
このような変化を著作権の変化として受け入れるか、断固拒否するかは、岡本さんが指摘するように個々人の価値判断とそれらの総体である民主的な判断にゆだねられると思う。しかし、法解釈の上で、感情レベルの話として、「経済問題」としての理解が明示的でないにせよ影響を与える可能性はある。
2007年09月23日
[著作権]iPodへの私的録音録画補償金課金のその後?
先日、文化審議会著作権分科会 私的録音録画小委員会、平成19年度第12回会合を傍聴してきた(注1)。
本論については、縷々意見が出ているところなので私はコメントをしないが、この会合で気になった点を備忘として残しておきたい。
PCなどもっぱら録音・録画に使われない記憶装置ついては私的録音録画補償金の対象とすることに対しては消極的な意見が出ていたが、委員のお一人が「もっぱら私的録音録画に用いるソフトウエアについて議論をする余地がある」ということを匂わせる発言をされていた。
視点としては面白いと思うし、補償金の対象とする正当性はある程度担保されるだろう。
ただ、政治過程の問題として、そんなことをしたら、電機メーカーだけでなく、ソフトウエアベンダーも敵に回しかねない訳で、なかなかそうはいかないよねーと思った次第である。
本論については、縷々意見が出ているところなので私はコメントをしないが、この会合で気になった点を備忘として残しておきたい。
PCなどもっぱら録音・録画に使われない記憶装置ついては私的録音録画補償金の対象とすることに対しては消極的な意見が出ていたが、委員のお一人が「もっぱら私的録音録画に用いるソフトウエアについて議論をする余地がある」ということを匂わせる発言をされていた。
視点としては面白いと思うし、補償金の対象とする正当性はある程度担保されるだろう。
ただ、政治過程の問題として、そんなことをしたら、電機メーカーだけでなく、ソフトウエアベンダーも敵に回しかねない訳で、なかなかそうはいかないよねーと思った次第である。
(注1)文化庁関係者の皆様、どうか探さないでくださいね(笑)
2007年09月06日
[著作権]映画盗撮防止法施行を受けて
ネット上の著作権の議論ではあまり評判の良くない「映画の盗撮の防止に関する法律」が施行された。
これに関しては、すでにFJneo1994さんが「誰が作ったんだこんな法律。」『企業法務戦士の雑感』(2007/5/31記事)で、審議過程で明らかとなった問題点を整理されている。
その中でも「映画の一部だけ撮っちゃったらどうなのよ」との点についてちょっと考えてみた。
程度問題ではあるが、20秒とかそれぐらいの「一部」であれば、審議における甘利大臣の発言通り、法目的に照らして「不当」である印象は拭い去れない。
もっとも、条文を素直に読む限りでは、heatwaveさんが「映画盗撮防止法を全力で批判してみる」『P2Pとかその辺のお話』(2007/9/4記事)で指摘される通り、「不当」であっても逮捕されうるのである。
では、なんとかしてこの不都合から法律を救えないだろうか?(注1)
切り口として、「映画館等において観衆から料金を受けて上映が行われる映画」の解釈論に持ち込んでみることはどうだろうか。つまり、(若干詭弁めいて聞こえるが)「一部に留まる場合は『料金を受けて上映する映画』とはいえない」(その一部分だけ流してもお金とれない)ぢゃん、ということで法の対象外、と解釈する方法である。
ただ、そこの解釈論の持ち込んでも、どこを『料金を受けて上映する映画』の判断基準とするかは悩ましい。
作品全体としての利用が意図されていたのであるから、映画全体に限りなく近いところ二判断基準を置くべき、という考え方もあり得るが、場合によっては部分部分の利用が企図されていたりもする。ではケースバイケースで、とすると、不当性は解消されない。
悩ましい…。どなたか良いアイディアはないだろうか?
これに関しては、すでにFJneo1994さんが「誰が作ったんだこんな法律。」『企業法務戦士の雑感』(2007/5/31記事)で、審議過程で明らかとなった問題点を整理されている。
その中でも「映画の一部だけ撮っちゃったらどうなのよ」との点についてちょっと考えてみた。
程度問題ではあるが、20秒とかそれぐらいの「一部」であれば、審議における甘利大臣の発言通り、法目的に照らして「不当」である印象は拭い去れない。
もっとも、条文を素直に読む限りでは、heatwaveさんが「映画盗撮防止法を全力で批判してみる」『P2Pとかその辺のお話』(2007/9/4記事)で指摘される通り、「不当」であっても逮捕されうるのである。
では、なんとかしてこの不都合から法律を救えないだろうか?(注1)
切り口として、「映画館等において観衆から料金を受けて上映が行われる映画」の解釈論に持ち込んでみることはどうだろうか。つまり、(若干詭弁めいて聞こえるが)「一部に留まる場合は『料金を受けて上映する映画』とはいえない」(その一部分だけ流してもお金とれない)ぢゃん、ということで法の対象外、と解釈する方法である。
ただ、そこの解釈論の持ち込んでも、どこを『料金を受けて上映する映画』の判断基準とするかは悩ましい。
作品全体としての利用が意図されていたのであるから、映画全体に限りなく近いところ二判断基準を置くべき、という考え方もあり得るが、場合によっては部分部分の利用が企図されていたりもする。ではケースバイケースで、とすると、不当性は解消されない。
悩ましい…。どなたか良いアイディアはないだろうか?
(注1)暗に「文言がしょぼいんだよ」という思いがこもっていたりする。本法律の条文の文言についてのつっこみは、本ブログでかつて行ったことがある。ただ、内容につっこみをいれたものではないのでしょっぼいが…。内容面での突っ込みは先に挙げたFJneo1994さんの記事が適確。
2007年08月26日
[著作権]国会審議をインターネット配信することの著作権法上の議論を紹介する記事の疑問と、これが示唆する問題提起(下)
<[著作権]国会審議をインターネット配信することの著作権法上の議論を紹介する記事の疑問と、これが示唆する問題提起(上)(2007/8/25記事)の続きです>
■疑問3:「日本の著作権法[引用者注:の権利制限規定]は限定列挙であるという一部の知財法専門家の常識は、知財法に定められた以外の多種多様な権利の存在を失念した思い込み」か?
瑣末なことであるが、私はこの行は「書かなければ良かったのに」と感じている。
まず、コンテクストとして疑問がある。
太田さんのこの記事は、40条2項の行為類型が「限定列挙」と解する文化庁への批判ではなかったのだろうか。
なぜ、広く限定列挙(おそらく権利制限規定のことを指す)を問題にするのだろうか。なぜ、「一部の知財法専門家」まで対象が拡大されるかのような表現をされるのだろうか。
確かに、著作権の権利制限規定は限定列挙と理解されている。
もっとも、その不都合は認識されているところであり、必要に応じて解釈論で対処し(注7)、あるいは、必要に応じて法を改正すればよい(注8)。
立法の態度決定として、予測可能性を担保するため、ある程度明確に線を引くことを選んだのである。
また知的財産法の現状の理解としても疑問がある。
制限規定は少なくとも憲法上の権利との衝突が問題となる場面はかなり網羅されている。本件のような「参政権」との衝突(注9)も、40条は対処していたのであり、問題は40条に含まれる行為類型に本件のようなものが想定されていないために明記が無かっただけであり、議論の途中となっているだけである。技術の進歩が想定外の事態を生じさせたのであるから、法が後追いで対処すればよいだけではないだろうか(注10)。
このセンセーショナルな一文があることで、本件の問題点がぼけてしまっているように思われる。
■何が問題か、どう対処すべきか
私は「衆議院TV」はの問題の核について、次のように考えている。
疑問2のところで触れたが、問題の核心は40条2項にどのような行為を挙げており、挙げられるべきかに尽きる。IPマルチキャスト放送が含まれるべきであるならば、文言解釈か立法による対処が望まれる。この点について私は、現状でも40条2項の文言解釈で対処可能かもしれないと考えている(重ねて述べるが、文言上苦しいことは間違いない)。
もっとも、壇俊光弁護士が「国会審議のネット中継の適法性」『壇弁護士の事務室』(2007/8/23記事)(http://danblog.cocolog-nifty.com/index/2007/08/post_8c41.html)で指摘されているように、
というのは、予防法務の観点からは当然であり、まっとうな感覚である。
そうであるならば、40条2項の対象に自動公衆送信一般を含めることの是非を、Three Step Testに留意しつつ検討し、立法で対処することがベストだろう。
この点について、なぜ40条2項が結果として、視聴者に同時に届くことを問題にしているかが気になる。
仮に、編集など恣意的な改変のおそれを懸念しているのであれば、それは著作権法上の考慮の対象外ではないだろうか(注11)。
この点については40条2項の研究にゆだねたい。
縷々疑問点は挙げたものの、40条2項の問題点を浮き彫りにした点で、太田さんの記事は興味深いものであった。
■疑問3:「日本の著作権法[引用者注:の権利制限規定]は限定列挙であるという一部の知財法専門家の常識は、知財法に定められた以外の多種多様な権利の存在を失念した思い込み」か?
瑣末なことであるが、私はこの行は「書かなければ良かったのに」と感じている。
まず、コンテクストとして疑問がある。
太田さんのこの記事は、40条2項の行為類型が「限定列挙」と解する文化庁への批判ではなかったのだろうか。
なぜ、広く限定列挙(おそらく権利制限規定のことを指す)を問題にするのだろうか。なぜ、「一部の知財法専門家」まで対象が拡大されるかのような表現をされるのだろうか。
確かに、著作権の権利制限規定は限定列挙と理解されている。
もっとも、その不都合は認識されているところであり、必要に応じて解釈論で対処し(注7)、あるいは、必要に応じて法を改正すればよい(注8)。
立法の態度決定として、予測可能性を担保するため、ある程度明確に線を引くことを選んだのである。
また知的財産法の現状の理解としても疑問がある。
制限規定は少なくとも憲法上の権利との衝突が問題となる場面はかなり網羅されている。本件のような「参政権」との衝突(注9)も、40条は対処していたのであり、問題は40条に含まれる行為類型に本件のようなものが想定されていないために明記が無かっただけであり、議論の途中となっているだけである。技術の進歩が想定外の事態を生じさせたのであるから、法が後追いで対処すればよいだけではないだろうか(注10)。
このセンセーショナルな一文があることで、本件の問題点がぼけてしまっているように思われる。
■何が問題か、どう対処すべきか
私は「衆議院TV」はの問題の核について、次のように考えている。
疑問2のところで触れたが、問題の核心は40条2項にどのような行為を挙げており、挙げられるべきかに尽きる。IPマルチキャスト放送が含まれるべきであるならば、文言解釈か立法による対処が望まれる。この点について私は、現状でも40条2項の文言解釈で対処可能かもしれないと考えている(重ねて述べるが、文言上苦しいことは間違いない)。
もっとも、壇俊光弁護士が「国会審議のネット中継の適法性」『壇弁護士の事務室』(2007/8/23記事)(http://danblog.cocolog-nifty.com/index/2007/08/post_8c41.html)で指摘されているように、
しかし、悲しいかな、世間で認められれば立法されて合法になるが、それまでは犯罪者というのが、日本の著作権法の一般的な解釈である。
というのは、予防法務の観点からは当然であり、まっとうな感覚である。
そうであるならば、40条2項の対象に自動公衆送信一般を含めることの是非を、Three Step Testに留意しつつ検討し、立法で対処することがベストだろう。
この点について、なぜ40条2項が結果として、視聴者に同時に届くことを問題にしているかが気になる。
仮に、編集など恣意的な改変のおそれを懸念しているのであれば、それは著作権法上の考慮の対象外ではないだろうか(注11)。
この点については40条2項の研究にゆだねたい。
縷々疑問点は挙げたものの、40条2項の問題点を浮き彫りにした点で、太田さんの記事は興味深いものであった。
(注7)例えば、ネットオークション上での美術の著作物出典に当たってのサマリー画像掲示について引用の解釈論での対処を志向するものとして、たとえば、田村善之「絵画のオークション・サイトへの画像の掲載と著作権法」知財管理56巻9号(2006年)1307頁以下。
(注8)限定列挙の不都合については立法サイドの方も認識されている。加戸守行『著作権法逐条講義 四訂新版』(著作権情報センター、2003年)224頁。※版が古いですが…
(注9)もっとも、参政権がそのようなものであるかはなお憲法学上の議論があるだろう。ここでは、松井茂記『日本国憲法 第2版』(有斐閣、2002年)で示されているような、表現の自由と参政権を結びつけた理解(つまり、政治参加のためには政治に関する情報の取得と伝達が必須であり、これは憲法上保障されている、との理解)に、敢えて基づいて捉えている。
(注10)口の悪い人ならば、「知財法に多種多様な権利との調整が既に織り込まれていることを失念した思い込み」によって、この記事を太田さんが書いたと批判されると思う。
(注11)そもそもそんなことを言い出したらマス・メディアが伝えるものも恣意的な編集はされているし…。問題は、情報を受領する国民がきちんと判断できれば良いのである。判断できない、との思い込みの下に、過剰なパターナリスティックな介入が行われることは望ましくないように思う。
2007年08月25日
[著作権]国会審議をインターネット配信することの著作権法上の議論を紹介する記事の疑問と、これが示唆する問題提起(上)
太田昌孝「国会審議のネット中継が浮き彫りにした、フェアユースをめぐる矛盾」CNET Japan(2007/8/23記事)(http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,2000055923,20354036,00.htm)に触れた。
非常に面白い問題提起を含むものであるが、法律を学んでいる者の視点からは3点疑問が沸いた。まずはこれを検討し、何が問題の根にあるのかを整理してみた。
■この記事の概要
その概要は、次の通りである。
(以下、要約)
衆議院の事務局が議員運営委員会の議決を踏まえて行っている「衆議院TV」は、国会審議をインターネット中継し、また、ビデオライブラリーとして配信している。
だが、国会審議等の著作物としての側面の自由利用を認めた著作権法40条2項は、自動公衆送信を明示していない。つまり、条文上は著作権侵害に当たる。
この点、衆議院事務局は「自動公衆送信」ではあるが同項に挙げられる「放送」または「有線放送」に当たると解し、「衆議院TV」は合法であると主張している。他方、文化庁著作権課は著作権法40条2項に挙げられた行為類型は限定列挙であると解し、自動公衆送信は「放送」または「有線放送」に当たらないと解している。
しかし、国会審議を国民が視聴することは「参政権」である。その点から、「衆議院TV」のような利用方法はフェアユースとして認められるべきである。より踏み込んで、日本の著作権法は、著作権と他の権利が衝突する場面では「フェアユース」が認められている、と解するべきである。
(以上、要約)
結論に当たって、太田さんは次のようにも述べられている。
■疑問1:「日本の著作権法はフェアユースを認めている」か?
細かな点にこだわれば、太田さんの使われているこの問いは表現が正確ではない。
もし「フェアユース」=「著作権の権利制限」と理解するならば、答えは簡単である。30条以下で認められている。
他方、もし仮に「フェアユース」=米国著作権法107条に定めるようなルール、というのであれば、これは苦しい。もっとも、太田さんもこの点は言葉を選ばれているようであり、
おそらく「日本の著作権法は、明文にないフェアユースを権利衝突の場面では認めている」との趣旨であろう。
なお、ここでいう「権利」が単なる私法上の権利一般を指すのか、あるいは、憲法上の権利を指すのかは判然としないのだが、参政権に言及されていることから憲法上の権利と読むのが適切であるように思われる(もっとも、表現の自由を盾にすれば多くの場合に憲法上の権利との衝突がある、と考えることも出来るかもしれない。)
仮に以上のように太田さんの主張を理解するならば、当たり前のことを言っていることとなる。
著作権といえども財産権の一つである(注1)から、「公共の福祉」による制限を受ける。
ただし、安易に制限を認めると、裁判所による立法を認めることにつながり、あまり望ましいことではないと考えられるし、また、TRIPs条約13条のいわゆるThree Step Testとの関係で問題が生じる場合がありうる。慎重な考慮が必要だろう。
■疑問2:この場面は広義のフェアユース議論の場面なのか?
さて、次に疑問が沸くのは、『40条2項の条文上挙げられていないが、参政権との関係で「フェアユース」を認めるべきである』、というように大上段に構える必要性があるのか、という点である。
40条2項は次のように定めている。
さて、この問題への対処の可能性として、40条2項の文言解釈ではだめなのだろうか?
平成19年7月以前については、そもそも40条2項の立法時に自動公衆送信を「意識していなかった」と理解すれば(注2)、あとは法目的上自動公衆送信を認めることの是非が検討されることとなる。文言上は苦しい(定義規定との整合性は欠く)が、参議院事務局の言うように40条2項に限り「自動公衆送信」は「放送」「有線放送」に当たる、と解することができよう。
仮にこのように解しても、「著作物の通常の利用を妨げ」てはいないし、「権利者の正当な利益を不当に害していない」ものと思われる(注3)。また、国会審議という「特別な場合」であるから、Three Step Testに照らしても問題が無いのではないか。
もっとも、平成19年7月以降は状況が変わる(注4)。「自動公衆送信」が含まれたのである。ただし、送信の同時性が求められているため、「衆議院TV」にあっては、国会審議をインターネット中継することは40条2項で許容されるが、ビデオライブラリーとして配信することは、条文上明らかに40条2項で許容されない行為となる。
ただ、平成18年改正で40条2項にいう「自動公衆送信」に同時性が求められたのは、改正時の状況としてやむをえないものであったにすぎず、明示に自動公衆送信を除外する意図は無かったのかもしれない。平成18年当時(から現在に至るまで)IPマルチキャスト放送をめぐる議論が活発に行われているところであり、送信の同時性を持つ自動公衆送信が有線放送と同視しうるのか否かで議論が進められていた(注5)。
この中で、送信の同時性を持つ自動公衆送信についても40条2項の対象としたことは大きな前進であったのだと推測される。そのような中で、広く「自動公衆送信」一般についての議論は深まっていなかったのではないだろうか。
あるいは広く「自動公衆送信」一般について議論すると、議論が混乱することを恐れたのかもしれない。
文化庁著作権かはこのような背景があるからこそ、40条2項の行為類型を限定列挙と述べているのではないか。
仮にそうならば平成19年7月以降であっても、文言上は苦しいが、解釈論として自動公衆送信一般が認められる余地が無い、とはいえない。
以上のところからは、(少なくとも私には)大上段にフェアユース一般の議論を持ち出すことへの疑問は解消されていない。
<長くなりすぎたので明日へ続きます>
非常に面白い問題提起を含むものであるが、法律を学んでいる者の視点からは3点疑問が沸いた。まずはこれを検討し、何が問題の根にあるのかを整理してみた。
■この記事の概要
その概要は、次の通りである。
(以下、要約)
衆議院の事務局が議員運営委員会の議決を踏まえて行っている「衆議院TV」は、国会審議をインターネット中継し、また、ビデオライブラリーとして配信している。
だが、国会審議等の著作物としての側面の自由利用を認めた著作権法40条2項は、自動公衆送信を明示していない。つまり、条文上は著作権侵害に当たる。
この点、衆議院事務局は「自動公衆送信」ではあるが同項に挙げられる「放送」または「有線放送」に当たると解し、「衆議院TV」は合法であると主張している。他方、文化庁著作権課は著作権法40条2項に挙げられた行為類型は限定列挙であると解し、自動公衆送信は「放送」または「有線放送」に当たらないと解している。
しかし、国会審議を国民が視聴することは「参政権」である。その点から、「衆議院TV」のような利用方法はフェアユースとして認められるべきである。より踏み込んで、日本の著作権法は、著作権と他の権利が衝突する場面では「フェアユース」が認められている、と解するべきである。
(以上、要約)
結論に当たって、太田さんは次のようにも述べられている。
日本の著作権法[引用者注:の権利制限規定]は限定列挙であるという一部の知財法専門家の常識は、知財法に定められた以外の多種多様な権利の存在を失念した思い込みに過ぎない。
■疑問1:「日本の著作権法はフェアユースを認めている」か?
細かな点にこだわれば、太田さんの使われているこの問いは表現が正確ではない。
もし「フェアユース」=「著作権の権利制限」と理解するならば、答えは簡単である。30条以下で認められている。
他方、もし仮に「フェアユース」=米国著作権法107条に定めるようなルール、というのであれば、これは苦しい。もっとも、太田さんもこの点は言葉を選ばれているようであり、
権利と権利が対立する場合にはという限定を附されているので、米国著作権法107条の意味でのフェアユースとは違う、何らかの前提をもったフェアユースを言っているように読める。
おそらく「日本の著作権法は、明文にないフェアユースを権利衝突の場面では認めている」との趣旨であろう。
なお、ここでいう「権利」が単なる私法上の権利一般を指すのか、あるいは、憲法上の権利を指すのかは判然としないのだが、参政権に言及されていることから憲法上の権利と読むのが適切であるように思われる(もっとも、表現の自由を盾にすれば多くの場合に憲法上の権利との衝突がある、と考えることも出来るかもしれない。)
仮に以上のように太田さんの主張を理解するならば、当たり前のことを言っていることとなる。
著作権といえども財産権の一つである(注1)から、「公共の福祉」による制限を受ける。
ただし、安易に制限を認めると、裁判所による立法を認めることにつながり、あまり望ましいことではないと考えられるし、また、TRIPs条約13条のいわゆるThree Step Testとの関係で問題が生じる場合がありうる。慎重な考慮が必要だろう。
■疑問2:この場面は広義のフェアユース議論の場面なのか?
さて、次に疑問が沸くのは、『40条2項の条文上挙げられていないが、参政権との関係で「フェアユース」を認めるべきである』、というように大上段に構える必要性があるのか、という点である。
40条2項は次のように定めている。
(平成19年7月まで)
国若しくは地方公共団体の機関…(略)…において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送を行うことができる。
(平成19年7月以降)
国若しくは地方公共団体の機関…(略)…において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送し、若しくは当該放送を受信して同時に専ら当該放送に係る放送対象地域において受信されることを目的として自動公衆送信(送信可能化のうち、公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置に情報を入力することによるものを含む。)を行うことができる。
※強調部は平成18年改正(平成一八年一二月二二日法律第一二一号、平成19年7月1日施行)
さて、この問題への対処の可能性として、40条2項の文言解釈ではだめなのだろうか?
平成19年7月以前については、そもそも40条2項の立法時に自動公衆送信を「意識していなかった」と理解すれば(注2)、あとは法目的上自動公衆送信を認めることの是非が検討されることとなる。文言上は苦しい(定義規定との整合性は欠く)が、参議院事務局の言うように40条2項に限り「自動公衆送信」は「放送」「有線放送」に当たる、と解することができよう。
仮にこのように解しても、「著作物の通常の利用を妨げ」てはいないし、「権利者の正当な利益を不当に害していない」ものと思われる(注3)。また、国会審議という「特別な場合」であるから、Three Step Testに照らしても問題が無いのではないか。
もっとも、平成19年7月以降は状況が変わる(注4)。「自動公衆送信」が含まれたのである。ただし、送信の同時性が求められているため、「衆議院TV」にあっては、国会審議をインターネット中継することは40条2項で許容されるが、ビデオライブラリーとして配信することは、条文上明らかに40条2項で許容されない行為となる。
ただ、平成18年改正で40条2項にいう「自動公衆送信」に同時性が求められたのは、改正時の状況としてやむをえないものであったにすぎず、明示に自動公衆送信を除外する意図は無かったのかもしれない。平成18年当時(から現在に至るまで)IPマルチキャスト放送をめぐる議論が活発に行われているところであり、送信の同時性を持つ自動公衆送信が有線放送と同視しうるのか否かで議論が進められていた(注5)。
この中で、送信の同時性を持つ自動公衆送信についても40条2項の対象としたことは大きな前進であったのだと推測される。そのような中で、広く「自動公衆送信」一般についての議論は深まっていなかったのではないだろうか。
あるいは広く「自動公衆送信」一般について議論すると、議論が混乱することを恐れたのかもしれない。
文化庁著作権かはこのような背景があるからこそ、40条2項の行為類型を限定列挙と述べているのではないか。
仮にそうならば平成19年7月以降であっても、文言上は苦しいが、解釈論として自動公衆送信一般が認められる余地が無い、とはいえない。
以上のところからは、(少なくとも私には)大上段にフェアユース一般の議論を持ち出すことへの疑問は解消されていない。
<長くなりすぎたので明日へ続きます>
(注1)細かい点は憲法学の世界にお任せしたい。ただ、どこかで長谷部泰男先生がそう仰ってた気がするので、ここではあっさり財産権として扱った。
(注2)もっとも立法の経緯は管見の限り明らかでない。詳細な研究を行っている方はいらっしゃらないだろうか?
(注3)この点は、異論があるかもしれない。こんな場面では問題がある!とお気づきの方はお教えいただきたい。
(注4)衆議院TVのスタートが数年前であることから平成19年7月以前の規定の議論を持ち出されているのかもしれないが、改正法に触れていない点で、太田さんの議論にはちょっと首を傾げてしまう。
(注5)詳しくは文化庁『著作権分科会(IPマルチキャスト放送及び罰則・取締り関係)報告書』参照。
2007年08月24日
[著作権][競争法]頒布権の消尽は知的財産法が競争秩序の中に位置づけられることを表しているか
若手の競争法学者で、著作物再販制度について業績を挙げられている石岡先生の論文、「消尽原則と競争秩序―頒布権の行使と取引の制限」日本経済法学会年報27号(2006)年117頁以下に触れた。
■石岡論文の要旨
その要旨は、おおよそ次のようである。
「知的財産権であっても競争秩序との関係で権利内容が考慮されるようになってきた。その表れが、権利の消尽原則である。特に著作物の頒布権の消尽を認めた〔中古ゲームソフト事件(大阪)〕(注1)は、権利保護の前提として「市場における商品の自由かつ円滑な流通」という
社会公共の利益が考慮されなければならないことを示している。」
■知的財産権の保護においても市場における商品の自由かつ円滑な流通の保護という競争秩序が前提とされているのか
知的財産法秩序と競争秩序の関係については、近時議論のあるところとなっている。石岡論文が主眼としている、知的財産法秩序が競争秩序の中に位置づけられる、という理解は、田村善之教授や白石忠志教授によっても示されている(注2)。
石岡論文は、ここでいう競争秩序を独占禁止法が規律する競争秩序と理解されているようにも読める(注3)が、ここでいう競争秩序は、独占禁止法が規律する秩序と同義と考えることができるかについては、異論が存在する。たとえば、稗貫俊文教授は、独占禁止法が規律する競争秩序と知的財産法が規律する競争秩序は性質が違うと理解されている(注4)。ここでいう競争秩序は私法一般の秩序と理解することもできよう(注5)。
この点については、なお検討の精緻化の余地があるところと思われる(注6)。
■頒布権の消尽は知的財産法が競争秩序の中に位置づけられることを表しているか
石岡論文は最高裁判例等を分析することにより、知的財産法の権利内容確定にあたって市場における商品の自由かつ円滑な流通と言う視点が考慮されるようになってきたと観察されている。しかし、私はなお、慎重に検討すべき点があると考える。
最高裁が著作権との関係で明示的に流通の自由を保障しようとしたのかについて、判然としないように思われるのである。
著作権法学においては頒布権が特殊な存在として位置づけられてきた(注7)。著作権は伝統的に流通をコントロールするものでないと(半ばドグマティックに)理解されてきたようにも思われる(注8)。その理由には、著作権が保護するものが表現物であるが故に、表現の自由との関係が生じうる点もあるのかもしれない。もしそのようなドグマからの帰結にすぎないのであれば、積極的に石岡論文のような主張をすることは、なおためらわれるように思う。
■石岡論文に学ぶ点
以上のような議論点を示している点、また、裁判例の観察として流通の自由保障と言う競争秩序の観点が知的財産法の権利範囲の考慮に含まれてきつつあることを指摘している点は、この論文によって大いに学ばされたところであった。
■補遺
なお、石岡論文の中で挙げられている興味深い論点として、『頒布権の内容には「価格制限をおこなうこと」も含まれているか』という点もあるが、これは別の記事で検討したい。
■石岡論文の要旨
その要旨は、おおよそ次のようである。
「知的財産権であっても競争秩序との関係で権利内容が考慮されるようになってきた。その表れが、権利の消尽原則である。特に著作物の頒布権の消尽を認めた〔中古ゲームソフト事件(大阪)〕(注1)は、権利保護の前提として「市場における商品の自由かつ円滑な流通」という
社会公共の利益が考慮されなければならないことを示している。」
■知的財産権の保護においても市場における商品の自由かつ円滑な流通の保護という競争秩序が前提とされているのか
知的財産法秩序と競争秩序の関係については、近時議論のあるところとなっている。石岡論文が主眼としている、知的財産法秩序が競争秩序の中に位置づけられる、という理解は、田村善之教授や白石忠志教授によっても示されている(注2)。
石岡論文は、ここでいう競争秩序を独占禁止法が規律する競争秩序と理解されているようにも読める(注3)が、ここでいう競争秩序は、独占禁止法が規律する秩序と同義と考えることができるかについては、異論が存在する。たとえば、稗貫俊文教授は、独占禁止法が規律する競争秩序と知的財産法が規律する競争秩序は性質が違うと理解されている(注4)。ここでいう競争秩序は私法一般の秩序と理解することもできよう(注5)。
この点については、なお検討の精緻化の余地があるところと思われる(注6)。
■頒布権の消尽は知的財産法が競争秩序の中に位置づけられることを表しているか
石岡論文は最高裁判例等を分析することにより、知的財産法の権利内容確定にあたって市場における商品の自由かつ円滑な流通と言う視点が考慮されるようになってきたと観察されている。しかし、私はなお、慎重に検討すべき点があると考える。
最高裁が著作権との関係で明示的に流通の自由を保障しようとしたのかについて、判然としないように思われるのである。
著作権法学においては頒布権が特殊な存在として位置づけられてきた(注7)。著作権は伝統的に流通をコントロールするものでないと(半ばドグマティックに)理解されてきたようにも思われる(注8)。その理由には、著作権が保護するものが表現物であるが故に、表現の自由との関係が生じうる点もあるのかもしれない。もしそのようなドグマからの帰結にすぎないのであれば、積極的に石岡論文のような主張をすることは、なおためらわれるように思う。
■石岡論文に学ぶ点
以上のような議論点を示している点、また、裁判例の観察として流通の自由保障と言う競争秩序の観点が知的財産法の権利範囲の考慮に含まれてきつつあることを指摘している点は、この論文によって大いに学ばされたところであった。
■補遺
なお、石岡論文の中で挙げられている興味深い論点として、『頒布権の内容には「価格制限をおこなうこと」も含まれているか』という点もあるが、これは別の記事で検討したい。
(注1)最判平成14年4月25日民集56巻4号808頁。
(注2)たとえば、白石忠志『独占禁止法』(有斐閣、2006年)334頁。
(注3)石岡論文126頁の記述から読める、というだけであるので、正確なところは不明である。
(注4)金井貴嗣ほか編著『独占禁止法 第2版』(弘文堂、2006年)〔稗貫俊文執筆部分〕337頁注3。
(注5)精読をしていないので挙げるのは恐縮なのだが、田村善之「競争政策と民法」NBL863号(2007年)はそのような理解をされているように思われる。
(注6)もっとも抽象的な「秩序」を議論することが、知的財産法の権利範囲内用の確定にあたって決定的なものとなるようには思われない。むしろ、事後観察の際に、概括的な評価としてどのような秩序に位置づけられるかの議論になるのに留まるのではないだろうか。
(注7)未だ議論のあるところである。世界的な議論の俯瞰は、斉藤博『著作権法 第2版』(有斐閣、2004年)172頁〜178頁参照。
(注8)この点については別途検討したい。
2007年07月02日
[著作権][つぶやき]著作権保護期間についての考慮要素についてのSam Ricketsonの考え、および、保護期間延長をめぐる理論的考察の意味
RCLIP第21回研究会に参加してきた。
タイトルは「著作権の保護期間に関する理論的考察―欧米の議論を踏まえて―」であったが、報告者ご本人が自身が断りをいれてらっしゃったように、欧米での議論の紹介にとどまるものであった。著作権の保護期間に関するRicketson教授の理論的考察の紹介と、米国での著作権保護機関を巡る諸議論(表現の自由との関係を中心とした議論)の紹介であった(注1)。
その中で、私は「保護期間についての考慮要素」と「保護期間延長をめぐる理論的考察の意味」について思うところがあったのでひとこと。
保護期間についての考慮要素
研究会の報告を元にすると、Ricketson教授は次の考慮要素がある、と述べられているようだ(整理は筆者)。
1)保護期間と創作者の寿命
1-1)保護期間算定において創作者の寿命を基礎とするか否か?
1-1-a)積極的理由
・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
1-1-b)消極的理由
・不公平感を生じさせる
・投下資本の回収に必要な機関さえ保護すれば十分なのではないか
1-2)死後も保護するかどうか?
1-2-a)積極的理由
・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
1-2-b)消極的理由
・相続人等が作品を抑圧するような権利行使をする可能性がある
・長期の保護につながるが、長期の保護がなされある場合、権利者の確認が困難になる場合が多くなる
2)保護期間と著作物の類型
2-1)著作物の類型に関わらず統一的な保護期間を設定することは妥当か?
2-1-b)消極的理由
・新しい著作物に対応できない
これ考慮要素が果たして網羅的なものなのか?というと疑問を覚えてしまう。おそらく、Ricketson教授も網羅的なものとして挙げられているのではないだろうか。
目立つものでは、
2-1-a)・類型の区分が困難である
というものが欠けている。
また、こういう要素も挙げられる。
1-2-a)・死後も保護しないと、著作物を利用したい者が創作者を殺そうとするインセンティブになる(笑)
冗談である。
著作権は人格を保護しているのか、単なる経済的利益の保護にとどまるのか、というレベルの観念的なものまでつっこむのであれば、この考慮要素で決定的に決まると思うが、そうでない限り、この要素ではどうしようもないように思う。使い方としては、価値観対立のデッドロックに陥った時に、民主的解決を図る際の、説明ツールなのかなぁと思う。
なお、出席者のコメントで勉強になった点があった。アメリカでの保護期間延長の際、創作インセンティブ増大の効果について経済学者らは「きわめてマージナル(めっちゃ少ない)」といっていたらしい(注2)。政策的には考慮できる見解である。
保護期間延長をめぐる理論的考察の意味
研究会で気になった(残念ながら悪い意味で)点が、政治的力学の説明にも注力されていたことである。さらに、政治的力学を検討した上での法理論支持をしたいともとれる発言はきわめて残念であった。会場からも質問が上がっていたが、政治力学が強く作用する、というのであれば、理論的検討を事前に行う必要がない。事後的な記述的な分析さえあれば、学問的に十分ということになる。
私はそういうスタンスは違うと思う。多くの法制度設計に置いて政治的力学が最前面に出ることは、少なくとも十分な教養ある人たちが立法に中心的に関わる社会ではまず無いと思う。理由は2点だ。
・理論的な裏付けに乏しい、政治力学のみで制度をつくっていっても、利害の異なる人たちの中では合意形成が困難だと考えられる。バカばかりならば政治力学でなんとかなるかもしれないが、立法の現場はバカではやっていけない。これは国際的な場になればいっそう強調されるのではないか。
・理論的な裏付けに乏しいまま立法しても、エンフォースの段階で対立利害の者のコミットを得られない。結果的に力で押し通した意味が大きく減殺される。合理的な人間ならば、立法段階で理論的裏付けを確保し、コミットメントを得ようとする。
さらに言えば、私は政治的力学が働く場面は次のようなきわめて限定的な場面だと思っている。
・理論的につめていったときに、価値観の対立に至ることがある。そのときに政治的な力学が考慮される(これは言い換えれば民主的正当性が担保されるということだが)。
質問者は、著作権制度の立法課程の政治過程研究というきわめてユニークな研究をされていた方だった。おそらく、質問者の意図は法学研究全体の意味を否定したかったのではなく、政治学研究者の立場から、法学者が理論を詰めていく作業を怠ってはならない、という警鐘を報告者に対してなさったものと思われる。
タイトルは「著作権の保護期間に関する理論的考察―欧米の議論を踏まえて―」であったが、報告者ご本人が自身が断りをいれてらっしゃったように、欧米での議論の紹介にとどまるものであった。著作権の保護期間に関するRicketson教授の理論的考察の紹介と、米国での著作権保護機関を巡る諸議論(表現の自由との関係を中心とした議論)の紹介であった(注1)。
その中で、私は「保護期間についての考慮要素」と「保護期間延長をめぐる理論的考察の意味」について思うところがあったのでひとこと。
保護期間についての考慮要素
研究会の報告を元にすると、Ricketson教授は次の考慮要素がある、と述べられているようだ(整理は筆者)。
1)保護期間と創作者の寿命
1-1)保護期間算定において創作者の寿命を基礎とするか否か?
1-1-a)積極的理由
・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
1-1-b)消極的理由
・不公平感を生じさせる
・投下資本の回収に必要な機関さえ保護すれば十分なのではないか
1-2)死後も保護するかどうか?
1-2-a)積極的理由
・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
1-2-b)消極的理由
・相続人等が作品を抑圧するような権利行使をする可能性がある
・長期の保護につながるが、長期の保護がなされある場合、権利者の確認が困難になる場合が多くなる
2)保護期間と著作物の類型
2-1)著作物の類型に関わらず統一的な保護期間を設定することは妥当か?
2-1-b)消極的理由
・新しい著作物に対応できない
これ考慮要素が果たして網羅的なものなのか?というと疑問を覚えてしまう。おそらく、Ricketson教授も網羅的なものとして挙げられているのではないだろうか。
目立つものでは、
2-1-a)・類型の区分が困難である
というものが欠けている。
また、こういう要素も挙げられる。
1-2-a)・死後も保護しないと、著作物を利用したい者が創作者を殺そうとするインセンティブになる(笑)
冗談である。
著作権は人格を保護しているのか、単なる経済的利益の保護にとどまるのか、というレベルの観念的なものまでつっこむのであれば、この考慮要素で決定的に決まると思うが、そうでない限り、この要素ではどうしようもないように思う。使い方としては、価値観対立のデッドロックに陥った時に、民主的解決を図る際の、説明ツールなのかなぁと思う。
なお、出席者のコメントで勉強になった点があった。アメリカでの保護期間延長の際、創作インセンティブ増大の効果について経済学者らは「きわめてマージナル(めっちゃ少ない)」といっていたらしい(注2)。政策的には考慮できる見解である。
保護期間延長をめぐる理論的考察の意味
研究会で気になった(残念ながら悪い意味で)点が、政治的力学の説明にも注力されていたことである。さらに、政治的力学を検討した上での法理論支持をしたいともとれる発言はきわめて残念であった。会場からも質問が上がっていたが、政治力学が強く作用する、というのであれば、理論的検討を事前に行う必要がない。事後的な記述的な分析さえあれば、学問的に十分ということになる。
私はそういうスタンスは違うと思う。多くの法制度設計に置いて政治的力学が最前面に出ることは、少なくとも十分な教養ある人たちが立法に中心的に関わる社会ではまず無いと思う。理由は2点だ。
・理論的な裏付けに乏しい、政治力学のみで制度をつくっていっても、利害の異なる人たちの中では合意形成が困難だと考えられる。バカばかりならば政治力学でなんとかなるかもしれないが、立法の現場はバカではやっていけない。これは国際的な場になればいっそう強調されるのではないか。
・理論的な裏付けに乏しいまま立法しても、エンフォースの段階で対立利害の者のコミットを得られない。結果的に力で押し通した意味が大きく減殺される。合理的な人間ならば、立法段階で理論的裏付けを確保し、コミットメントを得ようとする。
さらに言えば、私は政治的力学が働く場面は次のようなきわめて限定的な場面だと思っている。
・理論的につめていったときに、価値観の対立に至ることがある。そのときに政治的な力学が考慮される(これは言い換えれば民主的正当性が担保されるということだが)。
質問者は、著作権制度の立法課程の政治過程研究というきわめてユニークな研究をされていた方だった。おそらく、質問者の意図は法学研究全体の意味を否定したかったのではなく、政治学研究者の立場から、法学者が理論を詰めていく作業を怠ってはならない、という警鐘を報告者に対してなさったものと思われる。
(注1)記述的な調査報告と、理論的研究の報告には聴衆の期待が大きく異なる、と私は思う。その意味で、タイトルのつけ方が残念であった。また、報告者はプレゼンに慣れてらっしゃらないのか、Ricketson教授の議論紹介でほぼ終わってしまった点も残念であった。これからの糧にしていただければ、と感じた。
(注2)おそらく、これ:Amici Curiae in support of Petitioners, May 22、2002。

