2012年06月28日

[著作権]Winny事件における控訴審・最高裁決定と、著作権侵害罪の構成要件・法定刑の妥当性

Winnyの開発者が著作権侵害の幇助に問われ、最高裁まで争った結果、無罪となったことは記憶に新しい。第一審、控訴審、最高裁決定(注1)とその判断・立論が異なった。これについて整理・分析をされた、佐久間修教授による刑法上の観点からの論稿(注2)に触れ、著作権に関する刑事政策の観点から考えるところがあった。

■Winny事件における共犯論と著作権侵害(佐久間(2012)の概要)
佐久間教授はまず3つの裁判所の判断について以下のように整理されている(なお、整理は筆者(=私)の言葉に拠る)。
・第一審、控訴審、最高裁決定とも、ウィニーだけが違法な著作権侵害に利用されるものでないことをふまえ、幇助犯としての法益侵害の現実的危険性を認めるだけの行為状況を重視した。
・第一審は現実の利用状況や主観的意図に着目して幇助犯の成立を肯定した。
・控訴審は「特に違法な用途に使用することを勧めていること」を幇助犯成立の要件とし、幇助犯の成立を否定した。
・最高裁決定は、控訴審の考え方は幇助犯と教唆犯を混同するものと批判したうえで、現実の利用状況や主観的意図に着目したうえで、幇助の故意が欠けると認定した。

佐久間教授が、判例や判例に対する批評について批判されるポイントは次のとおりである。
・価値中立的、かつ、汎用性の高い重要な技術であることを理由に、刑事規制の対象外とする批評(注3)が一部にみられるが、理論的な根拠がない。
・控訴審判決が採る、積極的に違法行為を勧めた場合に限定することは理由がない。
・最高裁の故意の認定(とくに違法利用を禁止する発言をしていたことを加味して幇助の故意を否定した点)は、形式的な違法利用禁止の宣言により、刑事的責任を逃れられることにつながってしまう

そのうえで佐久間教授は、刑法の通説的な立場から、
「ウィニーの提供が客観的にも価値中立的行為でないとすれば、第一審判決や最高裁決定のように、被告人の主観的態度に着目して幇助犯の成否を決定することになる。その際、一般的可能性を超える具体的な著作権侵害を認識を必要とする最高裁決定にあっても、例外的でない頻度で正犯の実行に利用される状況下〔引用者注:著作権侵害に利用する者が40%超の状況であることが立証されている。また、Winnyが匿名性をうたった情報ツールであることも重視されている。〕では、その事実を知りつつ提供を継続したのであれば、被告人に幇助を認めるべきであった。」(佐久間(2012)37頁)

と述べられている。

■著作権侵害罪の構成要件・法定刑の妥当性に対する疑問
筆者は刑法理論に明るくないことは留保するが、刑法の視点から見たときに佐久間教授の論理は説得的あるように思える。しかし、刑法の理論をあてはめた結果については違和感が残る。

同じような違和感を控訴審および最高裁の裁判官は強く感じたために、控訴審では「結論の先取りに等しい」幇助犯の成立要件について厳格な規範を定立し、最高裁決定では主観的態度のうち確定的認識を否定する事実認定を行ったのではないか。

そのような背景には、『著作権侵害の構成要件か量刑のいずれかが社会通念上妥当でない』という漠然とした認識(または直観)がある可能性はないだろうか。

他の犯罪行為とそれを幇助する機器との対照が必ずしも妥当ではないと思うが、下表のように比べると、幇助犯まで想定したときに著作権侵害罪の構成要件または法定刑は妥当なのだろうか。
表 犯罪行為とそれを幇助する機器およびその法定刑

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著作権侵害行為は多くの場合、情報の流通行為である。著作権侵害の幇助行為は多くの場合、情報の流通機会の提供である。情報の流通機会を削ぐことは著作権法の目的に合致するのだろうか。また、そのような社会は望ましい社会なのだろうか。

ここで注意しなければならないのは、著作権侵害で民事的責任を問われる場面と、刑事的責任までも問われるべき場面は峻別しなければならないことである(たとえ話にすると、約束を破った場合に損害賠償責任は負わされるべきであるが、直ちに刑事的責任の可能性も生じる、というのはおかしい、ということである)。

仮に望ましくないのであれば、幇助犯を想定したうえで著作権侵害罪の構成要件または法定刑を見直すか、さもなければ、幇助犯をそもそも限定的な場合にのみ認めるとする立法をするべきなのではないだろうか。

なお、諸外国の例を考えると、日本の著作権侵害は厳しい部類にあるように思われる。このことは近いうちにまとめたい。
(注1)京都地方裁判所判決平成16年11月30日判例時報1879号153頁、大阪高等裁判所判決平成21年10月8日刑事弁護61号182頁、最高裁第三小法廷決定平成23年12月19日裁判時報1546号9頁。
(注2)佐久間修「Winny事件における共犯論と著作権侵害―最三決平成23・12・19裁時1546号9頁」『NBL』979号(2012年)30頁-39頁。
(注3)園田寿「Winnyの開発・提供に関する刑法的考察」『刑事法ジャーナル』22号(2010年)を佐久間(2012)は例示している。
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2012年05月17日

[著作権]出版社への著作隣接権の創設は、実体上は出版社への権利制限として働く可能性があるのではないかという暴論を言ってみる

出版社への著作隣接権付与が政府で議論されている。

出版社への著作隣接権の付与に対しては、新たな権利を創設することで、爾後、当該出版物を利用したい場合に権利処理の負担が増し、著作物の利用を阻害するのではないか、と懸念する声がある。

また、報道によると、当該著作隣接権は電子的な複製を行う権利を含める予定とある。そのため、当該検討案が仮に立法されると、著作者が紙媒体で出版後、他の出版社から電子出版を行おうとすると、特別の契約がない限りは当該電子出版が止められうることとなる。

ただ、結局のところデフォルト・ルールの変更に留まると思われる。力のある作家は特約で著作隣接権のうち電子出版に係る権利は留保させることができるだろう(逆に力のない作家に対してはそのような留保は認めないという運用が採られる可能性がある)。契約次第でなんとでもなる[注1]。

むしろ、次のように場合分けして考えると、実体上は出版社への権利制限として働く可能性が考えられてしまう。

1)出版社として、出版物に対する寄与・貢献が大きい場合
出版物の企画や編集、装丁のいずれかを行っている場合が想定される。このとき、完成された出版物について、本当に作家だけが著作者なのだろうか?ケースバイケースの判断にはなるが、出版社(厳密には編集者の機能をもつもの)も共同著作者と評価できる余地があるのではないだろうか[注2]
もしそうだとすると、出版社側は本来はフルセットの権利を持つ著作権者になることができるにも関わらず、事実上敢えてその地位を放棄して、権利の内容に限りがある著作隣接権者の地位に留まることにならないだろうか(もちろん、著作隣接権に加えて、著作権者としての地位を求めることもできるだろうが、社会通念上は難度が上がるだろう)。

2)出版社として、出版物に対する寄与・貢献が小さい場合
出版社として出版物に対する寄与・貢献が小さい場合に、著作隣接権を付与することにおそらく一般的な違和感があると思うのだが、そもそもの話としてこのような出版社は作家側に選ばれ続けるのだろうか?

出版社の機能を非常に荒く分解すると、
 企画→資金調達→創作支援→編集→校正→製本→広告→配本
という流れに整理できると思われる。

このうち、企画、編集→校正については、創作的な行為であると私は考えており、関与する出版社は著作権者としての地位を持ってもよい場合があると考えている。仮にこの箇所に出版社が創作的に関与していない場合については、実は中抜きをしてもよかった場合のように思われる。
資金調達や創作支援については、典型的な書籍の出版においては執筆それ自体に多額の費用が必要になることは現代においては考えにくいので、クリティカルな要素ではない。
次に製本、広告、配本機能が問題になるが、製本については印刷事業者に独自に発注できるし、広告も代理店に頼むことができる。残るは配本だけである。ここは議論があるところではあろうが、電子書籍を第一に考えるような時代になれば、配本に作家が頭を悩ますことは減る。

…と考えると、出版物に対する寄与・貢献が小さい出版社は中抜きをされてしまうだけではないか、という思いに至る。だとすると著作隣接権を付与しても、作家が合理的な判断をする限り問題がない。

というわけで、少なくとも現在および将来の出版業界事業を考えると、出版業界は実体上は自ら権利を制限することを申し出ているのではないか(あるいは著作権が出版社にとっては使いにくい権利であるので、権利をスリム化した独自の権利者の地位に立ちたいと言っているのではないか)と思える。

[注1]アンチ・コモンズの悲劇を避けるために、おそらく著作隣接権は作家の著作権に劣後する権利として定められるはずである(なお、アンチコモンズの原論文にあたると、「同じ対象に対して同一もしくは別個の核となる権利を有する、という状況が連続し、これらの権利の間に階層付けがなされておらず、権利衝突を解消するための明確なルールもないとすると」アンチコモンズの悲劇が生じる、としているMichael A. Heller, "The Tragedy of the Anticommons: Property in the Transition from Marx to Markets", Harvard Law Review 111 (1998): 621、訳は田村善之・立花市子に拠った(Nari Lee(著)・田村善之=立花市子(訳)「標準化技術に関する特許とアンチ・コモンズの悲劇」)。
[注2]この点は争ってはいけないパンドラの箱なのかもしれないが…。
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2012年04月27日

[著作権][時事]著作権侵害にあたる行為でアップロードされた著作物のダウンロードに対する刑事的保護は問題だ

著作権侵害に該当する行為によってアップロードされた著作物をダウンロードする行為に対する刑事罰の付与は当面見送られる見通しであることが報道された。

私はこの見送りを2点の理由から歓迎している。
対抗利益(著作権者の保護、ただし、後述するように「特定のビジネスモデルを取る著作権者の保護」であると考えている)と衡量したときに、私的領域に深く介入しうる規制は、個人的には釣り合わないと受け止めていたからである。[理由1]
また、著作権法が最終目的として謳う「文化の発展に寄与」するか疑問があるからである。要は、特定のビジネスモデルを取る著作権者にとっては有利な制度であるのだが、他のビジネスモデルをとる著作権者(それも直感的には文化的活動により近いもの)にとって不利な制度と考えられるため、妥当ではないと思えるのだ。[理由2]

■違法にアップロードされた著作物をダウンロードする行為に対する刑事罰の付与により懸念されること
まず、そもそも刑事罰の付与で何が懸念されるかを整理する。懸念は大きく二つである。
・私的領域の介入の道具として濫用される可能性があること(濫用されないとしても潜在的な犯罪者を多数創りだしてしまうこと)
・犯罪者となる懸念から本来分散的な流通が意図されているコンテンツも流通が阻害される可能性があること

著作権は登録なく権利行使ができ、登録なく許諾ができるため、アップロードされたものがそもそも著作権で保護されているのか、適法にアップロードされたものであるのか、一見してわからない。勘違いをして違法にアップロードされた著作物をダウンロードすることもあるだろう。

「適法である」旨のマークを付与すればよいという意見はあるだろうが、これには疑問がある。まず、自由な流通を望む著作者の便宜を重視して「適法マーク」が自発的に付与できる、または、簡易に取得できるようにすると、違法にアップロードされたコンテンツにも悪意で適法マークがふされるかもしれない。次に、「適法マーク」の信頼性を確保するため、厳重な手続を前提とすると、自由な流通を望む著作者のうち一部は「適法マーク」の取得を諦めるだろう[注1]。

また、勘違いをしてダウンロードすることを懸念する意見に対しては次のような反論があるだろう。
刑事罰は通常故意に当該行為を行った場合にのみ処罰される。だから、勘違いでダウンロードした場合には処罰されないのだから問題がない。
だが、故意かどうかという主観的意思は外からは見えない。裁判では客観的な状況によって判断されてしまう。

もちろん、限界事例はそもそも起訴される確率は低く、仮に起訴をされても実効的な罰が科される確率は低い。しかし、違法にアップロードされた著作物のダウンロードに関して、家や職場の捜索、さらには逮捕をされる可能性は少なくないと思われる。行為が私的な領域で行われているために、私的領域に立ち入って十分な証拠収集を行う必要があると考えられるからである。

日本の一般人の認識を見ると、捜索を受けたり、逮捕をされると、その者の社会的評価が即座に低下すると捉えられているといってよいだろう。つまり、捜索や逮捕は事実上サンクションとして機能しているといえる[注2]。民事上の責任が生じることと比べるとより大きなサンクションであるように思う。

そうすると、リスクを回避するため、仮に適法そうであっても、著作物をダウンロードしない者が多く登場したとしても違和感はない。つまり、分散的な流通(著作者やその委託者のみによる流通ではなく、ユーザー自身による流通を含むもの)は阻害されうる[注3]。

著作権と私的な自由が対立する場面で、違法にアップロードされたダウンロード行為への刑罰の付与は、利益衡量の点で妥当ではないように思う。

■分散的な流通の阻害は有償の著作物で収益を上げるビジネスモデル以外のビジネスモデルの阻害となる
そもそも、著作物を用いたビジネスモデルは一様ではない。分散的な流通を阻害することは著作物を用いたビジネス活動の一部を阻害する可能性がある。

梅花女子大学の服部准教授は、著作物を用いたビジネスモデルを次のように分類している。
1)市場における取引により収益をあげるもの
1-a)権利の運用管理が統合的:有償の著作物での収益をあげるもの
 ・複製等の対価をとる古典的な著作物流通モデル(例:出版業、新聞業、音楽レコードビジネス、映画製作ビジネス)
1-b)権利の運用管理が分散的:無償の著作物での収益をあげるもの
 ・著作物は無償で流通させ、補完財で収益を上げるモデル=フリーミアム(例:広告=アフィリエイトでの収益、ライブ・講演での収益)

2)非市場における取引により収益をあげるもの
2-a)権利の運用管理が統合的:再分配により収益をあげるもの
 ・国家等から政治的決定に基づき利益の分配をうける(例:文化事業(自治体に属するオーケストラ)、学術研究)
2-b)権利の運用管理が分散的:社会的関係により収益をあげるもの
 ・ユーザーからの寄付をうける(例:Amazon.com Artist)

(出所)服部基宏・國領二郎「デジタル財の市場構造と収益モデル」日本学術振興会 未来開拓学術研究推進事業プロジェクト「電子 社会システム」ディスカッションペーパー No.95(2002年)に基づき筆者が改変

服部・國領(2002)はそれぞれの収益モデルの消費者となりうる者の属性をアンケート調査結果のクラスター分析から明らかにしている。それによると、主流となるものは1-a)のモデルと整合する消費者ではあるが、数は5%程度に留まるが支出額は突出して多いグループが1-b)、2-b)に整合する消費者として存在していることが示されている。

このことは、フリーミアム・ビジネスモデル(1-b)やユーザーからの寄付(2-b)によるビジネスモデルが十分に成り立ちうることを示唆している。フリーミアム・ビジネスのうち一部は、無償配布する著作物を広告として位置づけ(例えば、コンサートで収益を上げることを重視し、楽曲をyoutube等のサイトにアップロードする音楽家)、ユーザーの手による流通が行われることが望ましいと考えているだろう。同様に、ユーザーからの寄付によるモデルも、その氏名表示さえ確保されていればユーザーの手による分散的な流通を歓迎するだろう。

同様に、ビジネスモデルとしての自律性には疑問があるものの、国家等による再分配モデルで(2-a)も氏名表示さえ確保されていればユーザーの手による分散的な流通を歓迎する場合があると考えられる(著作物が普及することで当該文化事業への理解が得られ、将来の収益機会が広がる可能性がある)。

そして、「文化の発展」という一点だけを見てしまうと、2-aのモデルを阻害することが最も法目的に沿っていないように見えてしまう。そうまでいわないとしても、古典的なビジネスモデルだけを保護する制度は著作物による文化の発展に寄与するのか疑問である。

図 まとめ
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[注1]著作者としては自分は権利行使をする意思がないのだからそれでよいと考えてしまいがちである。しかし、利用者は当該情報を得ていないか、得ていても信頼できるか躊躇する場合があるだろう。
[注2]逮捕によって抽象的ではあるが金銭的損害も生じる。最低でも給与の2倍程度は稼がなければ組織を維持させることは難しいという前提で計算すると、逮捕による3日間の拘束により、年収600万円のビジネスマンは最大20万円の機会を失わせる計算になる。
[注3]日本の著作権法では著作権の制限は限定的に規定されており、また、各規定は限定的に解釈するべきとの理解が裁判所でとられることがあるため、状況はダウンロード行為者にとって米国に比べて厳しい。(米国、ドイツは違法にアップロードされた著作物のダウンロード行為を刑事罰の対象としている。なお、ドイツは日本と同様権利制限は限定的である。)
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2012年04月26日

[著作権]著作権法学会研究大会(2012年度)個人的なまとめ:(4)筆者考察

■考察
□日本の著作権政策形成を考えたときに、改正をするために望まれる活動

著作権法の全面改正を行う、または、意見集約が難しい著作物の利用者や小規模なクリエーターにとって利便性のある改正を行うためにどういう手段があるのだろうか。今研究大会で得られた知見を基に、次の3つを簡単に考察する。
1)著作権の政治イシュー化
2)条約・現行法との整合的な代替案の提案、懸念点の払拭
3)立法事実の「見える化」

□1)著作権の政治イシュー化
京報告や討論で行われたように、現行の選挙制度の下では、著作権が政治的なイシューとなることは容易ではない。著作権法の全面改正が現行の政策形成過程の下で行われるためには、他の政治家とは異なる事情(選挙に強く、かつ、著作権問題に関心があり、かつ、政治的に有力である)を持つ政治家が登場することを待つしかない。ただ、すでに関心を持つ議員は与野党にいる。今、著作権に関心を持っていることが明らかな政治家を支援する、ということも手ではある。ただし、時間はかかる。

次に、草の根の活動で、若年層の票の掘り起こしになる、と思わせるようなインパクトを与える運動も考えられる。また、著作権法の改正が経済成長につながる、と思わせるような主張と論拠を提供する運動も考えられる。

このような活動は、Think C、MIAU(先進ネットユーザーの会)、あるいは、ロージナ茶会等の私的な団体が先駆者だろう。

□2)条約・現行法との整合的な代替案の提案、懸念点の払拭
京報告で紹介された研究成果を読むと、文化庁当局(官僚)は以下の点を考慮するようである。
・条約との整合性
・法体系との整合性

このモデルが正しければ条約・現行法と整合する代替案を提供することは、立法者側のアクターの一人である文化庁官僚には受け入れやすい。

討論で半田名誉教授が述べられたように、著作権課のマンパワーが限られ、大規模な法改正ができないこともあるので、代替案の提案は受け入れられる余地が少なくないだろう。半田名誉教授が提案されたように、学会として著作権法の改正案を提案することは大きな一石となる可能性がある。

ただし、民法改正案の先例を見ると過度に期待はできないように思う。民法改正案は学術側から複数案が示されているにも関わらず立法化はなかなか進んでいない。民法の改正は「市民社会のありように関わる」との学術側の期待[注1]とは裏腹に、進んでいない。産業界としては目立った反対はしていないが、積極的に支援もしていない様子である[注2]。現行のルールに基づいて、様々な契約手順を整備してしまっているため、仮に現行法が不便でもそれを改正する動機がないのだろう。産業界側から積極的な反対が行われている様子は改正をする動機があるとすれば、これまでの民法に対する知見の蓄積の少ない新規参入者、あるいは、中小規模の事業者に限られるのではないか。このような者の意見は集約しがたい。

まずできることと言えば、政府(官僚)が気にする点をつぶすことだろう。

討論で指摘されたとおり、権利制限に対しては3ステップテスト[注3]の考慮が欠かせないとされている。改正を検討するときに3ステップテストは重要な要素となるだろう。3ステップテスト自体の曖昧さ自体を問題視する学術論文もアメリカでは見られている。3ステップテストの解釈や、その妥当性について整理を自発的に進めておくことが大切なのではないだろうか。

また、外国の制度の運用を詳細に紹介することも欠かせないように思う。表面的な制度を比較するだけではなく、その裏に何があるかを見せることで立法の弾みになる。その点では、(私ではない)ブロガーの方や若手研究者が熱心に取り組まれており、心強い。

□3)立法事実の「見える化」
立法に携わるのは著作権所管当局(文化庁)だけではない。討論で示されたように日本版フェアユース規定創出にあたって内閣法制局の影響が無視できないことがうかがわれた。そして、内閣法制局は立法事実(立法が必要な事態の発生)を求めていることが示唆された。

そうであるならば、次の2つの手段で立法事実ができるとよいのではないか。
1:任意な団体による積極的な著作権行使によって現行著作権制度の課題が認識される。
2:外国等がよりよい制度を作り、制度を巡る国家間競争が意識される。

1:攻撃的なフォーラム
まず、現行の著作権制度の課題が顕在化すると、十分に立法事実は意識されるだろう。

例えばフェアユースの一般条項がないことに対しては次のようなアクションが考えられる。

現行の著作権制度ではフェアユース領域が限定的であるため、権利制限の対象となる写り込み等を除けば、わずかな著作物が含まれているだけでも著作権侵害となりうる(もちろん、裁判上、著作物性が否定されたり、複製行為該当性が否定される可能性はあるが)。

つまり、理論的には「著作権の薮」が生じてもおかしくない。
しかも著作物がデジタル化され、侵害を発見することが難しくない[注4]。

そこで、Creative Commonsのように、相互に条件を守る限りでは自由に許諾し合うフォーラムを作り、その上で、Creative Commonsとは異なり、条件を守らない者に対して積極的に権利行使を行う団体ができると興味深いことになるのではないだろうか。

2:制度の国家間競争
次に、ユーザー側にとって利便のよい制度が国、または、特定の条件・領域において定められ、その効果が目に見える形で現れる(例えば、クリエーターがその国、地域に移転する)とさすがに意識せざるを得なくなるだろう。

例えば、中国では次のように米国型のフェアユース規定を入れ、経済の発展につなげようとしている[注5]。
技術革新の促進と産業の発展において必要とされる特別な状況において、作品の使用行為の性質と目的、使用される作品の性質、使用される部分の数と量、作品の潜在的な市場あるいは価値に対する使用の影響等の要素を考慮し、作品の通常の利用を妨げず、著作権者の正当な利益を害さない場合には、合理使用と認めることができる。(出所:最高人民法院「知的財産権の裁判の機能的役割を充分に発揮し、社会主義文化の発展・繁栄及び経済の自主・協調的な発展を促進するための若干の問題に関する意見」。訳は[注6]に基づく)

さらに、中国社会科学院知的財産権センターのグループが国家版権局の指示に基づいて検討した著作権法の改正案では権利の束をシンプルに束ねる方向での提案がなされていた[注7]。

もちろん、これらの提案は条約で定める保護水準を下回る保護を定めるものではない。だが、理屈の上での話として、自国で生み出された著作物については条約を下回る保護を与え、外国で生み出された著作物については条約に定める保護を与え、以て自国で生み出された著作物を利用した創作活動を推進する仕組みは、ありうるのではないだろうか。

これは外国でその実験が進むと面白い。

また、国の制度としてではなく、特定の条件・領域において生み出された著作物の著作権を制限する手段も考えられる。

やや目的は異なるが、アメリカの国立衛生研究所(NIH)[注8]の取組が参考になる。同研究所の研究資金に基づく研究成果に係る論文は、同研究所が定めるサイトに必ず掲載しなければならないとされている。これは言い換えると、NIHからのグラント(競争的資金)を受け入れることで、その成果の著作物の公表権が制限され、公衆送信権の許諾を強制させられているのである。しかし、これにより研究成果が公衆によりアクセスされるようになり、より成果が生きることになると理解されている。

「○○パークに入るためには、著作権の行使制限をするように」などという政策を作ることはそれほど難しくないように感じる。このような仕組みは日本でもできる。Cool Japan特区(orインキュベーション施設)を作るなり、Cool Japan補助金なる著作権の行使制限を入れた補助金制度ができると面白いのになぁ、と思う。

[注1]大村敦史『民法改正を考える』(岩波書店、2011年)
[注2]法曹関係者からの反対論は存在する。
[注3]ベルヌ条約9条(複製権(録画、録音行為を含む)について規定されている)、TRIPs協定13条(排他的権利について規定されている)。
[注4]学生さんは「コピペルナー」に気をつけていただきたい。
[注5]中国著作権法のはらむ問題はあるのだが、そこは目をつぶって、フェアユースだけに焦点をあてている。
[注6]兎園「第268回:中国の著作権法改正案と最高人民法院のフェアユースに関する意見」(ブログ:2012年4月9日記事)『無名の一知財政策ウォッチャーの独言』(2012年4月23日閲覧)
[注7]李明徳「中国著作権法の改正及び提案」早稲田大学グローバルCOE《企業法制と法創造》総合研究所『国際シンポジウム 東アジアにおける知的財産の利用システムの研究』2012年1月28日開催。中国社会科学院グループの案が直接改正案になるものではないことには注意が必要である。
[注8]研究プロジェクトへの資金配分だけで164億7600万ドル(2011年度)(出所:NIH, NIH BUDGET HISTORY)に上る。
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2012年04月25日

[著作権]著作権法学会研究大会(2012年度)個人的なまとめ:(3)討論まとめ

■討論まとめ
本討論のまとめは、主な論点について、筆者がやりとりの要旨と考えられる点をまとめたものである。

□日本の著作権政策形成過程の特徴
本年(2012年)閣議決定された日本版フェアユース規定の形成を例に議論が行われた。主には、法案として示されたフェアユース規定に強い不満が示された。

同改正法案については、最終的な条文が審議会が提示した条文案から後退したとの意見が強いことが紹介された。一般規定として提案されたものが事実上個別規定化した(とりわけB類型は制限事由が縮減され、C類型は個別規定化したように見える)との意見が示された。
審議会段階では、いま問題が起こっていなくても将来への対処が必要であるとの議論であったにもかかわらず、その後修正が行われてしまったこと、しかも過程や根拠が見えていないことが問題として指摘された。また、個別規定となるとそれ以外は禁止されているものと解釈されてしまうため、個別規定化したことは問題であるとの指摘も行われた。
このような修正が行われたことに対しては、改正が必要なポイントに限った改正になろうとする力学が審議会段階から働いていたことが指摘された。具体例として審議会段階で立法が必要な事実を問う質問が多かったことがして指摘された。また、修正に対しては内閣法制局の影響があったとの噂があることが会場から紹介された。
また、知的財産戦略本部でフェアユース規定の検討を求めた意図は、経済力の回復にあり経済発展の道具とすることにあったことが指摘され、その意図が実現しなかったことに不満が占めされた。

併せて、審議会で決定された出版社に対する著作隣接権の付与が、経済団体の反対により未だに実現されていないことが紹介された。

なお、ロビイング自体については、登壇者から、否定的な評価をするべきでないとの意見が示された。

□著作権制度を巡る論点
著作権に表現の自由の規制立法としての側面があるとした場合、何が対抗利益として考えられるかについて会場から質問があった。これに対して登壇者から、著作権制度をインセンティブ論に基づくものとするのであれば、道具主義的な権利とするしかないとの回答が行われた。あわせて、M.Nimmerらが主張するように、著作者が自由な経済主体として表現できる道具として著作権を位置づけ、表現の自由のエンジンとして著作権をとらえる考え方があることも紹介された。
同様に、著作権が経済的財としての側面が強いことを指摘し、対抗的な利益は容易に設定できないと考えられることから、少なくとも立法によって報償請求権が設定されていることがメルクマールとなるとの意見が示された。

また、フェアユースを肯定する利益として表現の自由以外にどのような利益が考えられるかについて会場から質問があった。これに対して登壇者から、表現の自由はフェアユースを表現の自由の枠にとどめることは狭すぎると考えている旨の回答があり、より広い個人の自由と位置付けるべきとの考えが示された。他の登壇者からは、著作物に関するサービス提供者が利用者を代弁しえるが、その場面では権利対権利の戦いにした方がよい、そのためにはフェアユースに権利としての側面を認めた方がよいとの意見が示された。

なお、日本法の私的複製に対する権利制限については、フェアユースを明確化し、私的領域を保護するものとして、米国法から見た場合に評価できる可能性が示されたが、同時に、近年、ダウンロード違法化の議論で私的領域が過剰に制約されるようになってきたと考えられ、課題であることが指摘された。

□著作権改正のために行われるべき取組
著作権課は絶えず新しい現象に追われており、全面改正を行う余裕がない。そのことをふまえ、著作権法学会が検討し、意見を聞くことが必要なのではないかとの意見が会場から提案された。

また、実務家の力が伸びており、知的財産法学者の役割が問われていることも併せて会場からしてされた。
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[著作権]著作権法学会研究大会(2012年度)個人的なまとめ:(2)報告まとめ−大須賀報告、野口報告、田村報告−

■報告まとめ(つづき)
(4)大須賀滋「著作権法形成における判例と学説の協働」

大須賀報告では、カラオケ法理を題材として裁判での運用と学説の差異とその要因について分析結果が紹介された。
まず、従来カラオケ法理に対しては学説上批判が見られたことが紹介された。
近年、まねきテレビ事件(最高裁平成23年1月18日判決 民集65巻1号121頁)、ロクラクII事件(最高裁平成23年1月20日判決 民集65巻1号399頁)が示されたが、これら2つの最高裁判例についても学説との距離が縮まったとは言えないとの考えが示された。

その上で、学説との差異の要因は私的複製行為に対する権利制限規定の評価の違いにあるのではないかとの私見が示された。具体的には、私的複製に対する権利制限は零細的な利用を認めたものであり、複製行為に外部の者が介在することは許されない(加戸・逐条講義 226-228頁)と解釈する立場が有力にある一方、学説の中には権利制限規定を柔軟に解釈しようとする立場があることが示された。

その上で、平嶋教授の考え[注1]を紹介の上、カラオケ法理に関しては、いかなる行為をやめさせるべきかという視点が重要であり、著作権侵害と評価すべき私的利用行為の範囲を確定させた上で、それに対する権利実現の手法として差止範囲の拡張をすべきかどうかが検討されるべべきとの提案が示された。
結論的に、私的複製行為に対する権利制限の考察が進むことが望まれるとされた。なお、零細な理由を裏付けとして正当化する考え方であると、裁判上正当性が担保しにくいのではないかとの疑問が示された。

(5)野口祐子「著作権法における日米のNGOの役割」
野口報告では、米国のNGO/NPOが著作権のライセンス、立法、司法に関して行っている活動が紹介された。

まず、ライセンス活動としてコンピュータソフトウエアのライセンスに関する、Open Source Software License(OSS License)が紹介された。同活動では、強力な"copyleft"の考え方に立つ、GPL(GNU General Public License)が1986年に公表され、以後、より再頒布条件が緩やかなOSS Licenseが複数登場した。
次に、Creative Commons(CC)が紹介された。同活動は、2001年に、著作権延長法案違憲訴訟(Eldred v. Aschcroft→2003年敗訴)を受けて立法・司法に頼らない解決策の中から生まれたものであり、現代のコンテンツの共有が直面する課題である、権利者の所在の不明、原則禁止のルールであること、インターネットへの対応が行われいないこと、を解決することが目指された。
そのうえで、CCの動きは、政策形成過程を補完することが根底の意図であったことが紹介された。加えて、権利者団体に代弁されない権利者の声を可視化すること、著作権をめぐる経済原理が多様になっている(例:『フリービジネス』)ことをふまえ、多様な権利者に共通のルールの提示も目指されていたことが紹介された。
なお、非営利の場合は別途契約とするオプションは2005年に74%が採用していたが、2010年に49%まで低下した。これはインターネットを通じて露出を先行させ、別途の手段で費用を回収するモデルが進行したことの表れであると考えられることが紹介された(ただし、以上の分析はあるサービス(例:Flickr)の提供者が採用したライセンスの影響を受けていることが注意喚起された)。
ただし、ライセンス運動には限界があることも示された。まず、権利者からの能動的アクションが必要であり、また、異なるライセンスが乱立する可能性がある。

次いで、国内立法・条約交渉に関する活動として、Public Knowledge、Electronic Frontier Foundation、POPVOXなどのNPOが紹介された。
これらの組織は、組織化されにくい利益を吸い上げていることが紹介された。例えば、サイトに意見を集約させる取組(POPVOX)では立法状況が集約されているうえ、政策への賛否が投票できる。
近年ではWIPOの条約交渉においてNGOのインプットが一定程度予定されていることも示された。これは欧米で国際合意の形成が不透明であるとの批判をうけたものであると説明さらた。たとえば、ACTAをめぐっては第8回ラウンドからNGOとの交流が設けられた(しかし、2010年の第11回ラウンドでは日本の外務省が直前に日程を伝え事実上NGOをロックアウトした)。ただし、近年、国際交渉はWIPOからバイ、ユニラテラルの国家間交渉に移りつつあることも併せて指摘された。

最後に、米国ではPublic Knowledge、Electronic Frontier Foundationが当事者となり政策的な問題を含んだ訴訟を提起したり、Amicus Brief(両当事者の合意または裁判所の許可の下、意見提出を行う制度)を提出していることが紹介された。

以上を踏まえて日本を見ると、日本ではロビイング・情報提供・ツール提供を行う資源・体力がないことが課題となっていることが指摘された。

(6)田村善之「著作権法の政策形成と将来像」
田村報告では、まず、著作権の立法に着目し、権利制限は細かく規定されているが、例えば企業内で頻繁に行われている零細的な利用については権利制限が規定されておらず、条文と一般に考えられている著作権法の乖離があるといえることが問題意識として示された。
その上で、著作権法立法の過程に着目し、著作権法を強化する方向の改正は、多国籍企業のロビイングを背景とした条約への対応によるものであり、近時は特定の利益団体のロビイングをうけたものになりつつあることが指摘された。その上で、これは拡散した個別的利益は政策形成過程に反映されにくいことによるものと分析された。しかし私人の自由に関わる以上、ルール形成がされるべきであり、形成の場を司法の場に移す必要がある(そのツールが、フェア・ユース規定である)ことが述べられた。

著作権をめぐる司法動向に着目すると、(1)技術的な環境に応じて隆盛を迎えた行為についての規制を解釈で創設することもいとはないが、制限規定の拡大に対して慎重なもの、(2)権利制限の拡張もいとわないもの、の2種があり、一枚岩ではないことが占めされた。
具体例として、引用についてパロディ事件の最高裁判例が一般に参照されるが、これは旧法下のものであるとして別の要件を示す裁判例がある一方で、同判例を基準とする裁判例もある。近年は、美術鑑定書事件(知財高裁平成22年10月13日判決平成22(ネ)10052)では米国フェアユースに似た判断要素が列挙された。ただし、同判決では著作権者の権利の保護に資することが目的に含まれているとしており、射程は広くない。写真で見る首里城事件では、損害の額が軽微、多額の投資があることを理由に差し止めを認めないとの判断が下された。
しかし、まねきテレビ、ロクラク事件最高裁判決を見ると、条文上の権利を広げる方向で解釈しているように見えると指摘された。権利者の利益はすでに立法過程において反映されているため、このような方向性は立法過程を鑑みると妥当でないとの考えが示された。

次に社会環境の変化について次のようにまとめられた。
20世紀半ばまでは複製を行うには相応の投資が必要であり、事実上、競業規制であった。しかし、複製技術の普及により著作権が私人の活動を規制する権利になってしまった。また、監視が困難になり権利の実効性を欠くようになった。
インターネットの時代が登場することによって、他人の著作物の利用をする機会が増えただけでなく、利用できる著作物が増えた(私的な著作物も現実に利用可能になった)。
このような中、利用される著作物の中で著作権処理のコストにみあう利益を得ているものは減少した。権利者の意識も二分した。

このような状況、すなわち、大量利用・アクセスに対応するにはProperty Ruleでは難しいことが指摘された。検索サービスでの複製に対する権利制限に対して当時の山下和茂著作権課課長は講演(コピライト誌に掲載)で、検索サイトでの複製は権利者側から問題視されたことがなかったにもかかわらず、学者・弁護士が騒いだこと、経済産業省の要望があったため改正に至ったと述べていたが、現状の適切な認識ではないと批判された。これは検索サービスの利用はTolerated Use[注2]であり、リスクがあるため利用が進まない場合であるためである。

結論的に、著作権法の構造的課題は、零細的利用と孤児著作物問題であると考えられることが示された。
このうち、孤児著作物問題については、権利者の意思表示があればCreative Commons Licenseで対処できるが、関心がない著作者に対しては手のうちようがないことが指摘された。対策としては、政策形成下でアクションを取ることができる側にアクションを起こさせる制度にデフォルトを変更してしまうことが考えられることが示された。典型例が米国旧法下での登録制度である。

法学、経済学、政治学の相互の成果の活用が必要であることが最後に指摘された。
[注1]平嶋竜太「著作権侵害主体の評価をめぐる議論について−私的利用領域の拡大と差止範囲確定の視点から」野村豊弘ほか(編著)『現代社会と著作権法 斉藤博先生御退職記念論文集』(弘文堂、2008年)
[注2]Tim Wu,"Tolerated Use", Columbia Law&Arts Journal 31 (2008):617.
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2012年04月23日

[著作権]著作権法学会研究大会(2012年度)個人的なまとめ:(1)報告まとめ−石新報告、上野報告、京報告−

■報告まとめ
本概要は筆者の責任でまとめているうえ、ご報告者の方に断りなく公表しているものである。報告の全文は翌年の『著作権研究』で明らかにされると予想される。ここでの記述は全て筆者のバイアスがかかっているものとご理解いただき、あらゆる批判は筆者にだけ頂きたい。

(1)石新智規「米国における著作権リフォーム−Copyright Principles Projectを中心に−」
石新報告では、Pamela Samuelson教授(カリフォルニア州立大学バークレー校)が中心となって、2007年から3年間行われた、著作権の全面改正に関する議論を行うプロジェクト「Copyright Principles Project」の成果[注1]が紹介され、次いで、米国の著作権法全面改正を巡る議論の特徴と、そこからの示唆が報告された。

まず、「Copyright Principles Project」については、成果として公表された25の提案うち、以下の点が、日本法から見たときに興味深い点として指摘された。
・著作権の保有者の情報を入手できるよう著作物の登録を促すべきである(方式主義の復権)。たとえば、登録と非登録で権利の強弱をつけるべきである。
・フェアユースの予測可能性を向上させるため、著作権局が助言する仕組みを検討すべきである。
・権利侵害に対して差止請求以外の救済を付与する裁量を裁判所は活用すべきである(例えば、フェアユースの抗弁が合理的に期待できた場合には仮に侵害であっても差止請求は認めず損害賠償にとどめるべきである)。
・フェアユースには現行法で認識されている以上の目的が存在することを認識すべきである(Market Failureにのみフェアユースを認める厳格な見解が一般的であるが、Transformativeな場合に認めるべきとの立場がある[注2]。
・私的複製に対する権利制限について積極的な位置づけを与えるべきである(フェアユース規定で処理するのでなく、明確に認めるべきである)。

次に、米国の著作権法全面改正を巡る議論の特徴については、以下の点が特徴として指摘された。
・米国の著作権法改正の議論では、表現の自由との緊張関係が強く意識されていること。
・イノベーション政策としても強く意識されていること(See, Fred von Lohmann, "Fair Use as Innovation Policy", Berkley Technology Law Journal 23(1) (2008): 1-36)。
(なお、著作権の全面改正に関する学術界での議論はCopyright Principles Projectだけではなく、Jessica Litman、Neil Netanel、 William F. Party、Robert Mergesらも進めていることがあわせて報告された。)

以上を踏まえ、日本への示唆として、主に以下の2点を挙げられた。
・著作権課の機能の考察の必要性(米国著作権局とのスタッフ・権限の差異の考察)
・憲法との関係の考察

(2)上野達弘「ヨーロッパにおける著作権リフォーム−欧州著作権コードを中心に−」
上野報告では、欧州全体の著作権リフォームの提案プロジェクトの一つであるWittemグループ(Lionel Bently教授(Cambridge大学)ほか)の成果である「欧州著作権コード」の紹介が行われた。

まず「欧州著作権コード」の照会の導入として、欧州における、(1)著作権制度の一貫性の確保の必要性、(2)著作権に関する立法プロセスの不透明さ(とくにロビイングの影響による権利強化傾向への懸念が背景にある。一例として、隣接権の保護期間を70年とする近時の指令。)の解消、(3)加盟国ごとに属地的な著作権制度があることの不便さ・コンテンツ流通の阻害への課題認識、の3点を背景として、欧州での統一的な著作権制度の創設を提言するものとして作成されたことが説明された(なお、同コードは学術的な活動にとどまり、英語でのみ作成された)。

次に、大陸法と英米法の統合などの試みの結果、特徴的な点として主に以下の点が指摘された。
・欧州大陸法系著作権法では言及されることが少ない職務著作制度を打ち出した(なお、イギリス法には職務著作制度が存在する)。
。著作者人格権については、条件つきで不行使同意を有効とすることを打ち出した(なお、ドイツでは2002年の改正にあたって同意の有効性を明文化しようとしたが、改正に至らなかった)。著作者人格権の権利濫用を禁じる一般規定も提案された。
・権利制限については、一般条項が提案された(ただし、列挙した制限と同視でき、かつ、3ステップテストを満たすものとの規定である)。競争促進目的の権利制限も提案された。
・保護期間については、財産権の保護期間について現行の期間が長すぎるとの結論に至ったことが明示されている(ただし、具体的な保護期間については結論が得られなかったことが記されている)。
・クリエータの権利を重視し、創作者主義が貫徹され、著作権契約法が部分的ではあるが提案され(大陸法では詳細な著作権契約法が定められている)、さらにに、権利制限規定の中には報酬支払い義務を伴うものが提案されている(たとえば、学術目的のための利用についても報酬の支払いが定められている)。

以上の点を踏まえたうえで、自然人たるクリエーターが意識されている点、政策形成メカニズムに対する課題認識、の2点が日本への示唆となることが指摘された。

(3)京俊介「著作権法の立法過程分析:政治学の視点から」
京報告では、官僚・利益団体・政治家の三者に着目し、立法作業を行う官僚が他のアクターの行動をどう読んだ上で立法提案を行うかをモデル化し、事例を用いて検証した京俊介『著作権法改正の政治学』(木鐸社、2011年)の概要が紹介された。
まず、日本の著作権法立法過程については、多くの有権者が関心を持たないlow-salienceの政策分野であることが特徴として指摘された。これは選挙区を超えた利益に関わるものであり、イデオロギーとも無関係であるため、政治家も積極的に関与しないことが要因である(なお、ドイツでは著作権をイシューとした海賊党が躍進したが、これはドイツが比例代表制を中心的な制度としていることの影響であると考えられることが指摘された)。
また、これまで著作権の立法過程を巡る議論では、著作権法の内容が権利者に有利であること、権利者団体が組織化されている一方、利用者は組織化されていないことを踏まえて、「強い利益者集団」がいることが特徴であるととらえられているが、これだけでは立法者側の動機が明らかになっておらず説明として不十分(立法者側がブラックボックスになっている)ことが指摘された。

そこで、京(2011)は、次のようなモデルで検討を行った。すなわち、官庁が政策案を提示し(第一段階)、それに対して利益団体が評価し、必要であればロビイングをし(第二段階)、政治家は必要に応じて政策に介入する(第三段階)、とのゲーム(官庁、利益団体、政治家の三者の戦略的行動)と仮定する。そのうえで、官庁が利益団体・政治家の行動を読んだうえで政策形成を行うとの前提に立つ。(ゲーム理論を用いたことは、戦略的な読みあいを分析するため)
まず、利益集団の要求を聞き入れても政治家の特にならない場合は、官庁が望ましいと考えられる政策が提示され、それが受け入れられる。具体例としては利益集団である出版社が細分化されていて票にならなかった、写真の保護期間の延長(著作権法全面改正時。50年への延長)である。
次に、利益集団の要求を聞き入れることが政治家の得になる場合であり、かつ、ロビイング能力を官庁が充分に理解している場合は、限界まで官庁が妥協を行う。具体例としては応用美術の保護(著作権法全面改正時)である。
最後に、利益集団の要求を聞き入れることが政治家の得になる場合であり、かつ、ロビイング能力を官庁が充分に理解していない場合は、官庁が望ましいと考える政策が提示され修正が行われる。具体例としては、レコード二次使用の範囲(著作権法全面改正時)である。文化庁は例外なく徴収したかったが、利益集団の一つである飲食業界が免除を訴えた(しかし、文化庁との関係が薄かったため、官庁は予測できなかった)。飲食業界は票田であるため、政治家が介入し、飲食業界を例外とする立法が行われた。

このようなモデルでとらえた従来の著作権法の立法過程の下では、大きな変革は難しいことが指摘された。これは利益集団に重大な利益がかかる場合には政治ルートを通じて拒否権が発動されてしまうためである。また、立法を担う文化庁官僚にとって政治的リスクを負ってまで行うインセンティブが現在ところないことも要因として指摘された。

しかし、政治家が関心を持つインセンティブを持つ(例えば、全国区の比例代表制をとり、著作権を関心対象とする有権者層が一定数要る)、あるいは、独自の関心を持つ与党議員が登場する、野心的な文化庁官僚が登場する(例えば、文部科学省内の人事制度上もそのような試みを許容する、具体的には特定ポストに長期間つける)という条件が整えば著作権リフォームはできる可能性があるとの分析が示された。

[注1]日本語の翻訳バージョンはこちらから参照可能。
[注2]Pamela Samuelson,"Unbundling Fair Uses",UC Berkley Public Law Research Paper No.1323834 (2009).
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[著作権]著作権法学会研究大会(2012年度)個人的なまとめ

著作権法学会研究大会(2012年度)が開催された。著作権法立法政策をテーマとし、法解釈学だけでなく政治学からの報告も併せて行われるなど、学術的にきわめて意義深い内容であった。
法学者だけでなく、政治学、政策学、経済学の研究者、また、これらの領域に関心がある実務家にとって示唆に富んだものであると考え、ここにその要点をまとめる。

■著作権法学会研究大会(2012年度)個人的なまとめ 構成
(0)見出し(本記事)
(1)報告まとめ−石新報告、上野報告、京報告−
(2)報告まとめ−大須賀報告、野口報告、田村報告−
(3)討論まとめ
(4)筆者考察 (作成中)

※阿部浩二先生による基調講演は戦中から戦後にかけての著作権法学の発展、さらに現行著作権法の立法過程にもかかわる点を詳細に紹介されたものであったが、個人に関わる点が多かったことを踏まえ、ここでは紹介することを控えた。

■留意点
本概要は筆者の責任でまとめているうえ、ご報告者の方に断りなく公表しているものである。学術的な議論が一日も早く共有されることが望ましいのではないかとの筆者の独断(独善的な判断)によるものであることは予めお詫びする。
なお、報告の詳細は翌年の『著作権研究』に掲載されると予想される。ここでの記述は全て筆者のバイアスがかかっているものとご理解いただき、あらゆる批判は筆者に対してのみ頂きたい。

■追記(2012年4月26日)
学会の様子は以下のブログでも触れられていた。その日のうちにまとめられていて、すごい。
鷹野凌「著作権法学会研究大会に行ってきました」『見て歩く者』(ブログ、2012年4月21日記事)
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2011年01月19日

[著作権]まねきTV事件最高裁判決のロジックに対する疑問点(tweet並の短さで簡単に)

(さっきの記事のエッセンスをざくっとまとめてみました)
最高裁判決についてはそのロジックに疑問がある。なぜ送信の主体をそのように言えるのかがわからない。
また、これまでの裁判例で示された規範と違って、直接の侵害行為として解釈されている。この解釈が一般化できるのであれば、相当に射程が広い規範になる。とんでもない影響を与えないだろうか。
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[著作権][時事]まねきTV事件最高裁判決のロジックを読み解く...試み

テレビ放送の転送サービスや楽曲のオンラインストレージサービスについては、複数の下級審例があった。例えば、選録見撮事件やMYUTA事件、そしてロクラク事件、まねきTV事件である。

とくに最後のまねきTV事件は、テレビ放送された番組を録画し特定の者に送信する機器を預かり管理するビジネスに対して、知的財産高等裁判所はその形態を詳細に検討した上で著作権侵害を否定したことから、さまざまな注目を浴びてきた。まねきTVのポイントは、1つの機器から1人のユーザーにしか送信を行わないところにあった。私的複製として反論できるように工夫されていた。

しかし、昨日(2010年1月18日)に下された同事件上告審の判決では、最高裁判所は原審の判断に不足があると認定し、審理を差し戻したようである。ここでは簡単にそのロジックを読み解いてみたい(そして、どうも私には自信が無いという微妙な雰囲気を感じ取っていただき、諸兄・姉のお教えを頂きたい...)。

■まねきTV事件最高裁判決のロジック:カラオケ法理ではなく「送信可能化」主体の解釈
まねきTV事件最高裁判決(最判H23・1・18(平成21(受)653)は、これまでの選録見撮事件やMYUTA事件、そしてまねきTV事件でとられた、いわゆる「カラオケ法理」(注1)−行為の支配性や営利性があれば直接侵害主体と看做す法理−に準拠しなかった。

最高裁判所は、(私の読み方が誤っていなければ)まねきTVが行っている行為は「公衆」への送信ではないものの、著作権法上、公衆送信権侵害の一つとなる送信可能化にあたると判断している(ただし、注意していただきたいのは、著作権侵害にあたると明示的には述べていない(注2))。

送信可能化にあたると評価したロジックが私には理解しづらいのだが、おそらく、次のロジックに立っていると私は解釈した。
・公衆が利用する回線に接続されており、情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置は、ある主体から公衆(他の主体)に送信を行っていれば自動公衆送信装置と評価できる(たとえ単一の機器宛に送信する機能しかなかったとしても)
→この装置に情報を入力する行為は送信可能化にあたる
→なお、自動公衆送信の主体とは、装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者と解するのが相当
→本件の自動公衆送信の主体はまねきTVサービス提供者であり、受信者は右主体から見ると不特定の者であり公衆である
→故に、上記の自動公衆送信装置で録画した放送番組を受信者(他の主体)に送信するように出来ることは送信可能化行為である
(→これが公衆送信権侵害にあたるかは、下級審で再審理される必要がある)

詳細な判決文(一部)は以下の通りである。
自動公衆送信が、当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置の使用を前提としていることに鑑みると、その主体は、当該装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者と解するのが相当であり、当該装置が公衆の用に供されている電気通信回線に接続しており、これに継続的に情報が入力されている場合には、当該装置に情報を入力する者が送信の主体であると解するのが相当である。
これを本件についてみるに、各ベースステーションは、インターネットに接続することにより、入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的にデジタルデータ化して送信する機能を有するものであり、本件サービスにおいては、ベースステーションがインターネットに接続しており、ベースステーションに情報が継続的に入力されている。被上告人は、ベースステーションを分配機を介するなどして自ら管理するテレビアンテナに接続し、当該テレビアンテナで受信された本件放送がベースステーションに継続的に入力されるように設定した上、ベースステーションをその事務所に設置し、これを管理しているというのであるから、利用者がベースステーションを所有しているとしても、ベースステーションに本件放送の入力をしている者は被上告人であり、ベースステーションを用いて行われる送信の主体は被上告人であるとみるのが相当である。そして、何人も、被上告人との関係等を問題にされることなく、被上告人と本件サービスを利用する契約を締結することにより同サービスを利用することができるのであって、送信の主体である被上告人からみて、本件サービスの利用者は不特定の者として公衆に当たる


■若干の検討
「装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者」を自動公衆送信の主体と規範的に判断した点がポイントであると思われるが、このことの影響は少なくないように思われる。

例えば、オンラインストレージや(それに類似しているが)ネットプリントサービスに影響を与えることが想定される。オンラインストレージ等はそのサービス提供者が自動公衆送信の主体となることは間違いないだろう。通常、利用者はクローズな場であると認識しているので、場合によっては利用者にとっての私的複製によって複製された著作物を、これらのオンラインストレージ等に取り込むことがある。

しかし、オンラインストレージからの送信主体は(私の理解が間違っていなければ)上記の最高裁判所の判断基準では、同サービスの提供者である。そのサービスの提供者から見れば、ユーザーは不特定多数にあたる。つまり、オンラインストレージへアップロードされたファイルを送信可能な状態にすることは、公衆への送信可能化行為と評価できる。判決ではそこから先へは踏み込まれていないものの、通常は公衆送信権侵害が素直に認められるだろう。

そうだとして、このような行為は、規範的に見て望ましくない行為なのだろうか。私にはそうは思えない。
最高裁判決のロジックを一般化できるとすると、その規範は妥当性に欠けていると私は思う(注3)。

■余談ではあるが:海外への配信サービスは実現してほしい
さて、これらの事件は、テレビ局が海外向けの配信を行っていないところ、海外から日本のテレビ放送を見たい、というニーズに対応したことにより生じたものである。

もちろん、テレビ局がオンデマンド型の配信に躊躇う理由はわかる。おそらく次の3つが主な者だろう。
・映像コンテンツはデータサイズが大きく、配信のためのプラットフォームへの多額の投資が求められる(悪いことに、番組制作費すら削る現状では投資はしづらい。なお、コンテンツに拠る収入を直接得るためには既存のプラットフォーム(Youtubeなど)は使うことが出来ない)。
・NHKを除けば、広告収入ビジネスモデルをとっているところ、オンデマンド配信は、時間や視聴率に応じた広告料設定というビジネスモデルの根幹を揺るがしかねないため手を出しづらい。(とくに国内でオンデマンドサービスをすると広告ビジネスモデルは崩壊する)
・契約慣行上、番組制作段階でオンデマンド配信(それどころか放送波での再放送すら)に関する許諾をとっていない場合が少なくない。また、海外での放送に関する許諾もとっていないばあいが少なくない。

だが、在外邦人は110万人(注4)、在外の日系人は200万人(注4)も存在し、しかも、海外の中では日本文化に親しみを持つ者も少なくない。日本国内の視聴率が落ちているのであるならば、海外に活路を見出すことも良いと思う。

とくに、私は在外邦人に触れる機会が少なくなかったため痛感しているのだが、在外邦人は日本のテレビ番組に飢えている。NHK BS以外のドラマ、バラエティが見たいと繰り替えす駐在員や学生は何人もいた。彼らの気持ちを思うと、なんとか海外向けオンデマンド配信を実現していただけないか…と思う。
(注1)やや古くなるが、本ブログで著作権の間接侵害に関する裁判所の判断基準のフローを整理している(2006年11月22日記事「[著作権]間接侵害についての整理」)。その中で、直接の侵害者と擬製するいわゆる「カラオケ法理」の一般化には批判があることに言及した。
(注2)考えにくいが、公衆送信権侵害について何らかの規範的な要素を加えた解釈がなされ、侵害にあたらないと判断される可能性もないわけではない。
(注3)ただし、最高裁判所が判決を書くにあたっては、知的財産権訴訟の知見を持つ方が調査官として携わっているはずである。そうであると、慎重な検討はなされているはずではある。あるいは私の読み間違いであるのかもしれない。
(注4)外務省『海外在留邦人数統計』
(注5)財団法人海外日系人協会調べ、
http://www.jadesas.or.jp/aboutnikkei/index.html
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2010年05月29日

[著作権]電子出版で出版社は権利の一部譲渡を受ける交渉をする余地ができた

2010年6月4日修正

Kindleに続いてiPadが発売され、電子出版がいよいよ加速する可能性が出てきた。
出版社側には単なる媒体の変化と捉えず、ビジネスモデル変革の機会と捉えている様子もうかがわれる。その中で、新たなビジネスモデルを守るためにも、これまでのビジネスモデルを守るためにも出版権の強化や著作隣接権の創設を求める意見が出版社側からは挙っている(注1)。

だが、本当に制度をいじる必要があるのだろうか?第三者の著作権侵害に対応するのであれば、思い切って著者と著作財産権を共有すればよいのではないだろうか(注2)。そのような手は使えないのだろうか?

ここでの結論は、これまでの慣習からそのような著作財産権の取得が難しかったものとの推測に留まる。が、そうだとした場合、電子出版がその慣習を打ち破るきっかけになるのではないかとも思う。

以下では、(1)出版社は共同著作者になることができないのか?契約で著作権の持ち分の一部譲渡を受けることはできないのか?、(2)慣習を打ち破るために電子出版をどのように利用するか?、について考察する。

■出版社は共同著作者になることができないのか?契約で著作権の持ち分の一部譲渡を受けることはできないのか?
そもそも出版社は共同著作者になる可能性はないのだろうか。出版社の機能、出版社が提供する付加価値から考えてみたい。

まず、出版社サイドからは、出版社の機能として、
1)才能の発見を行うことができる
2)権利の束としての性格がある出版物の利用にあたって窓口となり、かつ、調整役となることができる
等の点が挙げられている(注3)。

また、
3)情報の責任の所在を明確にしており読者の安心が担保できる(場合がある)
4)編集、装丁により著作物の価値を向上させる、あるいは著作物が伝えようとしている思想・感情をより引き立たせる(場合がある)
というところもあるように思われる。

このうち、(4)に着目すれば、出版社の編集作業は創作的な表現活動にあたる場合があるように思われるのである。

しかし、実際にそのような扱いをしている出版社は少ない。慣習として「編集なんてそれほどの価値はない」という謙虚な思いがあるのだろうか…。

契約で著作権の持ち分の一部譲渡が行われている、という例も、委員会制作方式の映画以外では聞かない。だが、出版社が著作物に付加価値を与えているならば、きちんと著者との間で交渉してよいし、するべきだと私は考える。もし仮に、それほどの付加価値を与えていないとするならば、そんな出版文化は守っても仕方ない。だが、出版社の付加価値はそのように低いものではないと私は信じている。
※ (2010年6月4日追記)この点について、編集者は創作的な活動に関わっていると言えるが、出版社名義で著作物が公表されていることはあまり多くなく、原始的に著作権を得ることは難しいとの指摘を頂戴した。
ご指摘の通りであり、著作者表示に関する慣行を変更しない限り原始的に著作権を取得することは難しい。
また、一部譲渡は、権利移転の事実を登録する必要があるため容易には進んでいないと考えられる。浅い分析であったこと、恥じいる次第である。

■慣習を打ち破るために電子出版をどのように利用するか?
では仮に出版業界がこれまで謙虚であったために、著作者から権利の一部の委譲ができていなかったとしよう。その打開策はないのだろうか?

私は電子出版によって、出版社がその付加価値を著者に示すことができる機会となると考えている。

電子出版では次のような実験が容易である。
・出版社が従前通り付加価値を与えたものを電子出版する。
・同時に、出版社が何ら付加価値を与えていないものを電子出版する。(その際に、付加価値をつけるために要した費用と等価の価格差を付けることが妥当である(注4))

もし出版社が適切な付加価値を生じさせており、かつ、読者が適切に出版社の付加価値を評価しているのであれば、前者がより好まれるはずである。こうすることで著者は出版社のありがたみを感じるだろう。

上記のような行動は実は単なる実験に留まらず、購買層をセグメント化し、上位層には高付加価値の電子書籍を、中位層以下にはお手頃な電子書籍をそれぞれ提供する、というビジネスモデルと置き換えても良い。

(注1)日本書籍出版協会「 知的財産戦略の推進についての意見」日本書籍出版協会Web(2010年)、平井彰司「出版の現在」文化審議会著作権分科会基本問題小委員会(平成22年第2回)資料1、文化庁Webサイト(2010年)。
(注2)もちろん著作権法64条によって共有著作権者全員の合意がないと権利行使ができないため、契約によりオーバーライドしておく必要はある。いずれにせよ契約で対処可能である。
(注3)前掲注1・平井。
(注4)電子出版の場合、限界費用が0に限りなく近いので価格差の付け方は難しいが…。
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2010年05月21日

[著作権]違法ダウンロード行為を抑止するために日本版三振(スリーストライク)アウト制を導入するとしてもISPによる自主的な取り組みを促すためには解決しなければならない課題

著作権の権利者団体の方がいわゆる違法ダウンロード行為(無許諾でアップロードされた著作物をダウンロードする行為)を抑止するために、日本版三振(スリーストライク)アウト制の導入を求めていく、と発言されたことを受けて、ここ半年、三振(スリーストライク)アウト制について議論が活発化している。

■三振(スリーストライク)アウト制度への批判
著作権を侵害するアップロード行為を抑止する手段を超えて、違法ダウンロード行為を抑止する手段として、三振(スリーストライク)アウト制を選択肢とすることについては以下のような批判がある。
1)インターネットとの接続を遮断することに伴う基本的人権の侵害が、著作権侵害を抑止することに伴う社会的利益と釣り合わない可能性がある
2)著作権侵害行為に対して国際的に手厚い救済手段があるにもかかわらず、さらに過剰な保護を与えることは合理的でない(もっとも、これは現在のところ刑事罰が科されていない違法ダウンロード行為には、有力な理由にはならないかもしれない)
3)家族、ルームメイトの1人が違法ダウンロードを行っていた場合に、そのISPを共同して利用していた人の表現、情報受領を妨げてしまうことは妥当でない(過剰な私的差止行為となる懸念)(注1)
4)著作権者にとっても負荷が大きい(注2)

1)、2)は価値判断にゆだねられるものであり直ちに結論を出すことはできないが、3)は立法にあたって十分に留意する必要があるだろう。

他方、4)については、インターネットサービスプロバイダー(ISP)側が自発的に著作権侵害をチェックする仕組みがあればよい、との意見もあると思われる。しかし、そのような反論に対しては、私は新たな課題として、
・ISP側が自発的に違法DLを監視し、接続を遮断することは現行法上期待しにくい
ことを指摘したい。

■ISP側が自発的に違法DLを監視することは現行法上は法的に期待しにくい
前述のとおり、著作権者の負担を軽減するには、ISP側が自発的に違法ダウンロード行為をチェックすることが求められることが推測される。

ISPが一方的に違法ダウンロードかどうかは判定できないため、おそらく違法にアップロードされた著作物のデータを特定し、当該データを含むダウンロード行為があったかをISPに判定させる、というスキームが想定される。(以下、この想定のもと議論を展開している点に留意いただきたい。)

その場合、ISP側はパケット解析をしてチェックを行うことが一般的になるものと思われる。その場合、単にアクセス先だけでは違法ダウンロード行為がどうかわからないため、パケットの内容を解析(ディープ・パケット・インスペクション(=Deep Packet Inspection(DPI)))することになる。

しかし、違法ダウンロード行為を自動的に判定するためにDPIを実施することは、通信当事者(この場合は、違法ダウンロード行為者と当該著作物がアップロードされているサーバー間)以外の者が積極的意思をもって通信の秘密を知ることになる。このようなことを行ったISPは電気通信事業法179条にいう「電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密を侵す」行為にあたると考えられる。

著作権者の利益を守るための行為であるから、正当防衛にあたると見ることもできるかもしれないが、憲法に定める通信の秘密を具体化したと解釈できる電気通信事業法の規定を正当防衛で一蹴できるかについては容易に判断しがたい。ISP事業者にとってはコンプライアンス上のリスクとなろう。ISP側の自発的な違法DLの監視を期待するのであれば立法上の対処をしておくことが望ましい。

もちろん、事前に通信当事者の同意を得ていれば電器通信事業法179条の問題は生じないが、「ホームページ上の周知だけであったり、契約約款に規定を設けるだけであったりした場合は、有効な同意があったと見なすことは出来ない。」との理解が一般的である(注3)。そうであるならば、事前に契約者に明確な同意を求めることとなると思われる(注4)が、違法ダウンロードを意図している者であれば、合理的にはそのような同意をしないであろうし、また、同意を求めないようなISPと契約することになるだろう。同意を求める場合、監視は実効的に機能しない。

このような事態を防ぐには、違法ダウンロードを監視するためのDPIを実施することを同意したユーザーとのみ契約することをISPに一律に求める立法を行うことも手であるが、これは国が間接的に国民の通信の秘密を侵すことになりうると思われる。憲法上の論点を整理する必要が生じることとなる。

■結論
違法ダウンロード行為を抑止するために日本版三振(スリーストライク)アウト制を導入するとしても、同制度では著作権者の負担は小さくない。これを解消するために、インターネットサービスプロバイダー(ISP)側が自発的に違法ダウンロード行為をチェックすることを期待する意見もあるかもしれないが、チェックのためにISP側がディープ・パケット・インスペクション(DPI)を実施することは、法的な課題があるため、自主的な実施を期待することは難しいと考えられる。

通信当事者の同意がない場合、電気通信事業法違反になりかねず、ISP側は実施することをためらうであろうから、自発的なチェックは実施されにくいと考えられる。また、通信当事者の同意があったとしても合理的には違法ダウンロードを行うような者しか同意していないと考えられるため実効性は担保されないだろう。

□参照
追記:
知的財産戦略本部 コンテンツ強化専門調査会 インターネット上の著作権侵害コンテンツ対策に関するWG「インターネット上の著作権侵害コンテンツ対策について 報告書(案)」(2010年5月)では、三振(スリーストライク)制度について継続的な検討を行う必要性があるとして、以下のようにまとめられている。

そのなかでISPの自主的な取組を期待する向きもあるが、過大な期待は出来ないであろうことを私は指摘したい。
 インターネット上の反復的な著作権侵害行為への対策として、フランスや韓国などでは、数回の警告を経た上でインターネットへの接続の制限(接続の遮断)やアップロード等のアカウントの利用の制限(アカウントの停止)を行う制度(いわゆる3ストライク制度)が導入されている。
 常習的で悪質な侵害者に対して、社会全体で取り組むことは重要な課題であり、また、こうした制度は特にファイル共有ソフトを通じた侵害には有効な対策であるが、実効性の確保の観点、自由の一定の制約とのバランスとの観点等について課題があり、現行制度における警察の取り締まりによる効果、諸外国における実施状況とその効果等も見極めながら、さらに検討を行う必要がある。
 なお、一部プロバイダは、自主的な取組として、プロバイダと利用者の契約約款において、侵害行為者に対してプロバイダがインターネットへの接続の制限等の必要な措置を取ることを定めている。こうした自主的な取組は重要であると考えられるが、通信の秘密との関係で許容範囲が明確でないため、その許容範囲の明確化や手続きも含め、検討する必要がある。

(注1)heatwaveさんのブログ記事「日本版スリーストライク法に断固反対する」『P2Pとかその辺のお話@はてな』(2009年12月16日記事)
(注2)小倉秀夫弁護士のブログ記事「スリーストライク法導入を検討するよりアップローダー対策した方が効率的では?」『benli』(2009年12月21日記事)
(注3)一例であるが、『利用者視点を踏まえたICTサービスに係る諸問題に関する研究会 第二次提言(案)』総務省Webサイト(2010年)54頁-59頁(右報告書は、DPI技術について法的検討を加えている(もっとも、より公共の利益とは関わりのない行動ターゲティング広告について検討を行ったものである)。今後、最終提言が公表される見込みである)。
(注4)余談となるが、私は実効的な同意の取得は可能であると考える立場にある。DPIについては別の機会で整理したい。
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2010年03月21日

[著作権]チャップリン事件知財高裁判決の国際私法の観点からの意義

道垣内正人「チャップリンの映画の著作権侵害についての準拠法」ジュリスト1395号(2010年)172頁-174頁読書メモ

■要旨
〔チャップリン映画DVD事件〕知的財産高等裁判所判決(注1)は、著作権侵害の準拠法決定ルールがベルヌ条約5条2項にあると位置づけていると理解した上で、裁判所のこれまでの判決が同条に基づき、著作権侵害の準拠法を保護国法としてきたことを紹介している。その上で、ベルヌ条約5条2項が準拠法決定ルールではない(法廷地法によることを定めているだけである)との理解を紹介し、そのような(=法廷地法によるとの)解釈は、あえて不統一な法の適用を求めているものであると批判している(道垣内正人(2010年)174頁)。
他方、知的財産高等裁判所判決の中で損害賠償請求権の性質決定において不法行為であると位置づけたことについては、ベルヌ条約5条2項を準拠法決定ルールと見るのであれば、「ベルヌ条約が殿範囲の問題を保護国宝によると定めているかと見極めるべき」と指摘されている。その上で、5条(2)でいう「保護の範囲及び著作権の権利を保全するため著作者に補償される救済の方法」の中に(法文として稚拙な点はあるにしても)損害賠償は含まれないと解釈することは適切でないとし、知的財産高等裁判所はベルヌ条約上損害賠償請求権も著作権の救済の方法として位置づけられると解釈した上でベルヌ条約5条2項により準拠法が日本法になるとの理解を示唆している。

■私見
知的財産高等裁判所の判断は、ベルヌ条約5条2項を準拠法決定ルールと見ていると理解することは、判決文の該当箇所の文言を読む限りでは適切であるように思われる(注2)。その上で、そう見ているのであれば著作権侵害に基づく損害賠償の性質決定にあたってはベルヌ条約が参照されなければならないとの主張も正しいと思う。

ただ、1点気になる点は、ベルヌ条約5条2項にいう「保護の範囲及び著作権の権利を保全するため著作者に補償される救済の方法」("the extent of protections, as well as a the means of redress afforded to the author to protect his rights")に損害賠償が本当に想定されていたか(直感的に含まれていそうであるが…)、という点である。この辺りは条約の制定史や当時の国際的な法制をふまえる必要があるので私には論及できないが、引っかかるところである(注3)。

(注1)〔チャップリン映画DVD事件〕知財高判平成20年2月28日判時2021号96頁
(注2)ただし、判決文全体を見た中で整合的に解釈するためには、素直に読んではいけない、という指摘がありうるかもしれない、ということは留保しておきたい。
(注3)我が国では立法技術上、損害賠償請求権は一般不法行為と同じであるために、形式的には両者が含まれる法典は分けられていたが、実質的に著作権侵害の救済手段として損害賠償が予定されていた、ということはおそらくできるだろう。
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2009年09月13日

[著作権]米国の録音物に関する著作権についての覚書

十分に調べ切れていないため間違っているところもあるかもしれないが、日米の差異として気になったので、覚書を。

米国では、1976年著作権法によって、録音物それ自体の著作権(日本では著作隣接権に位置づけられる)は、公衆に対して当該録音物を用いること(公演すること)には及ばない規定となっている(米国著作権法114条)。これは、立法者が明確に意図して作られた規定である。

つまり、録音物を公衆に対して利用する際(注1)、利用者は、録音物が音楽の著作物であれば、作曲者、作詞者(詞がある場合)、実演家(米国では媒体に固定された実演についてはその著作権者となる)から利用許諾を受ければよい。レコード会社が利用に当たっての権利処理に介在する必要が乏しいことになる(注2)(注3)。

音楽関係の著作権を巡る議論において、米国の議論を参照する際には十分に注意したい違いである。

ただし、録音された物の公衆送信には録音物に関する著作権を有する者の権利が及ぶ(つまり、レコード会社の権利が及ぶ)(米国著作権法114条)(注4)。この点を考えると、実際上は日米の違いはそれほど大きくないのかもしれない。

(注1)録音物を私的に使用する場合は「録音物を使用する際」と表現すれば良いので、厳密には「録音物を利用する際」で良いのだが、念のためこのように表記した。
(注2)録音されている著作物に関する権利の譲渡を受けていない限り、窓口として有益というものに留まるだろう。
(注3)著作権の集中処理を行う場面で、使用料についてレコード会社に分配される額が多く、伝統的な著作者(作曲家、作詞家)の取り分が少ない、といった不平が出ることもない。
(注4)Arthor R. Miller & Michael H. Davis(著)=藤野仁三(訳)『アメリカ知的財産権法』(八朔社、2008年)220頁によれば、ロビイングの成果であるとされている。
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2009年04月27日

[時事]著作権法とネマワシ

著作権法がビジネスにおいても重要度を増すと平行して、創作者間、創作者ー頒布者間、頒布者間それぞれで利害対立が先鋭化している(注1)。同時に、創作活動に資する道具が増加し、多数のクリエーターが登場し、「一億層クリエーター」化が進んでいる。さらに、情報のデジタル化が進み、侵害行為とその発見双方が容易になっている。

このような変化がある中で、制度を設けたり、変更する場合に関係者の利害調整は大変だと思う。現実に利害調整を行っているのは、我が国では間違いなく霞ヶ関だが、いわゆる脱藩官僚による霞ヶ関回想本を読んでいると、業界の利害調整に慣れていない省庁もあるようだ。

おそらく文化庁もそのような省庁の一つであると思う。文部科学省も含めて、業務をざっと見てくと、業界の利害調整をし根回しをする経験というのは、それほど多くないように思える。

最近見たある論説で、元の著作権課長さんが「著作権延長を巡り多数の同一の批判が寄せられ戦慄を覚えた」趣旨を述べられていた。その背景は必ずしもわからないが、もし「祭り」にあって業務が進められないような事態があったのであれば、そのような行為を行った者には私としても怒りを覚える。矜持がある人間ならば適切な言説で意見を訴えるべきだ。だが、もしただの「パブコメ」できつい意見が寄せられた、ということであれば、甘ったれたことを言うんじゃないというのが本音だ。

利害対立の中で調整を失敗すれば、片方からボロクソに叩かれることは、やむをえない。まして、制度設計を行う霞ヶ関にいてそのような弱音は吐くべきでない(注2)。中央官庁のキャリア官僚という政策形成のプロフェッショナルである以上、甘い評価はできないだろう。

■文化審議会著作権分科会基本問題小委員会を見るとタメイキ…ただし留保すべき点も
Copyright&Copy Diaryの末廣さんが指摘されている(注3)が、著作権制度の根本的なあり方を議論するための委員会として設けられた文化審議会著作権分科会基本問題小委員会の委員が、現行の著作権制度にいわゆる保守的な方が多いように思われる。

ここからは、利害が鮮明になっていることを文化庁側が直視していないように見えてしまってもしかたない。

だが、これを合理的に解釈する2つの方向がある。

まずは、片方の意見に立って政策的価値判断として決定を下すとの態度をとったのかもしれない。
ただ、そうだとすると強固な理論武装が必要になるだろう。そのためには、理論上の調査研究が既に尽くされていることが前提条件になる。しかし、文化庁自身の研究や、関連する団体の研究を見ても、保護期間延長や私的録音録画補償金とDRMの関係について、海外の動向を含めてきちんと整理したものは十分に蓄積されているとは言えない(単に公開していない可能性もあるので外野はなんとも言えないのが本音だが)。
もし理論武装が十分でなければ、一方の業界からつつかれてまた「炎上」してしまう。前述の通り、文化庁の方は様々な利害調整を行うキャリアを積んでいるとは思えない。もしそうならば、慎重にあるべきだ。

次に、保守的な方々のガス抜きの場として設けた可能性も考えられる。

末廣恒夫さんの2009年4月20日の記事「基本問題小委員会傍聴記」『Copyright&Copy Diary』によると、同委員会の方向性が十分に示されていないということであるので、これは十分に説得的かもしれない(注5)。

そうであれば、少なくとも現在の原課の方々はなかなかのネマワシ上手である可能性もある。

■文化審議開著作権分科会法制問題小委員会を見ると応援をしたくなる
他方で、フェアユース規定を検討する法制問題小委員会は、法務省の担当者を含めており、精緻な検討を行う姿勢を読み取ることができる。

もっとも、イジワルな見方をすれば、すぐれて法制的な問題においては(産業界での根回しと異なり)根回しが上手、というだけなのかもしれない。

この点は、今後の動きを見ていきたい。

(注1)ただし、一部の著作物の世界では創作者の発言力は小さいことがある。
(注2)無数の匿名のパブコメより、特定の、迫力ある圧力団体から笑顔でドギツイ意見を提出された方がよほど怖い、と思われる霞ヶ関の方もいるだろう…。
(注3)末廣恒夫「著作権制度の根本的なあり方を議論する委員」『Copyright&Copy Diary』(2009年4月13日記事)。
(注4)末廣恒夫「日本版フェアユースを審議する法制問題小委員会が始まる」『Copyright&Copy Diary』(2009年4月25日記事)。
(注5)そうであってほしい…。なお、そうでなかった場合、著作権制度に対してリベラルな立場の方は、文化庁にパブコメを寄せるのでなく、他省庁の領空侵犯を支援するか、議員立法を支援することをおススメしたい。
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2009年02月28日

[著作権]国際条約を破る自由

中山信弘=三山裕三「対談 デジタルネット時代における著作権のあり方(上)(下)」NBL898号(2009年)20頁-26頁、NBL890号(2009年)48頁-54頁読書メモ

中山名誉教授と三山弁護士の対談に興味深い話題が触れられている。要旨は以下の通り(なお、要旨は筆者の責任でまとめた)(注1)。
国際条約を遵守しなかったとしても、WTOへの提訴を経てリタリエーションを行われることになるが、国益に叶うのであれば遵守しないことも選択肢である。著作権制度において、条約の文言に沿うことに神経質になり、情報流通を阻害するとすれば、それは国益にそぐわない(注2)。


私はこの指摘に賛成する。
では、仮に著作権制度において国際条約を破る立法を志向したときに何を乗り越えらなければいけないのだろうか。

本来的には国際条約を国内法化するか否かは政治的決定にゆだねられているはずであるが、著作権に関しては政治家が取り上げる動機が乏しいため(注3)、所管官庁の意思が影響を与えているものと考えられる。

政治過程の実証研究によると、中央官庁は一般に組織存続(につながる行動)を選好としているとの研究結果がある(注4)。
それに基づく研究によると、文化庁においては、
−著作権法規定間の整合性の確保(事務的コストを下げると共に、政治介入を防ぐことができるため)
−国際条約との整合性確保
を嗜好しているとの仮説を立てるとこれまでの立法過程が説明できるようだ(注5)。

そうだとすると、現状では、文化庁の原課に、国際条約を破ることも受容できるようにすることが妥当な方法となる。もちろん、パブコメで意見を伝えるというのもあるだろうが、彼らが恐れる不合理な政治介入を防ぐよう、政治をウォッチすることも求められるのかもしれない。

(注1)中山信弘=三山裕三「対談 デジタルネット時代における著作権のあり方(上)(下)」NBL898号(2009年)26頁。
(注2)なお、樋口範雄「契約を破る自由について」アメリカ法217号(1983年)40頁以下(同『アメリカ契約法 第2版』(弘文堂、2008年)にも納められているはず…)を紹介されていた。
(注3)京俊介「著作権政策形成過程の分析(一) ―利益団体,審議会,官庁の行動による法改正メカニズムの説明―」阪大法学57巻2号(2007年)326頁脚注34。
(注4)戸谷哲郎(青木昌彦完訳・戸谷理衣奈訳)『金融ビッグバンの政治経済学』(東洋経済新法社、2003年)。
(注5)京俊介「政策形成に対する利益集団の影響力―著作権法全面改正における事例間比較−」阪大法学58巻5号(2009年)263頁以下。
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2009年02月26日

著作権法42条2項(裁判手続等における複製、とりわけ、特許出願、薬事審査に おける複製に対する権利制限)の解釈について

南亮一「最近の著作権法の改正動向について―学術情報を中心として―」情報管理50巻12号(2008年)816頁-824頁読書メモ

国立国会図書館の南亮一さんの論考は、著作権法改正の経緯と動向を詳説されているものだが、その中に、著作権法42条2項の立法経緯を解説するだけでなく、解釈上の論点を示していらっしゃり、参考となった。

■行政庁に提出するものに限られるか否か
著作権法42条2項については、行政庁に提出するものに限り無許諾での複製が許容されるのかが解釈上の論点となりうる。

現在のところ、立法者(所管官庁の原課である文部科学省文化庁長官官房著作権課)は、同項は42条1項にいう「行政の内部資料として必要と認められる場合」の拡大規定であって、あくまで行政庁に提出するもののみに限定するべきとの立場を示している(注1)。

これに対して、南さんは、文化庁著作権審議会法制小委員会で行政庁に提出するもののみに限定すべきとの議論と合意がなされたのは、特許審査手続に関する場合のみであることに触れた上で、
・薬事関係文献の提出では、関連文献を収集した後提出文献を選択しているという実態があることを指摘し、未提出文献は廃棄を条件として42条2項の権利制限の対象に含めるべきとの考えを示されている(注2)。

私は直観的には南さんの解釈の結論には引きつけられるものがあるが、解釈上の根拠が十分でないのではないと考える。
特許審査にあたっても、必要な技術文献を調査しているであろうし、調査に当たって文献の複製を行っていることが少なくないだろう。
そうすると、実態は決定的な理由にならないのではないだろうか。

薬事審査については、国民の健康を保護する等の何らかの優越的な価値を持ち出せばよいように思われるかもしれない。だが、そもそも、この解釈の違い意味を持つのは、
ー個人が薬事申請を行う場合(提出目的であるため私的複製にならない可能性が高い)
ー文献の複製の後、提出文献を選択する場合
に限られているように思われる。

提出前に行われる文献の精査段階では、複製を伴わず原典にあたるか、あるいは、権利処理をして複製をしているはずである(注3)。そうすると、未提出文献についても権利制限を認めることによる利益は限定的である。

他方、特許審査にせよ、薬事審査にせよ、それに提出される文献の量が多いことから、本規定は著作者の利益との衡量から限定的に利用されるべきとの意見がある(注4)ことに鑑みると、私は、立法者の解釈に立つことを妥当と考える。

なお、42条2項は、より積極的に解釈して、試験研究の例外のような位置づけと読むこともあり得るかもしれない。そう解釈するのであれば提出の有無は問われないこととなる。ただし、そうするとなぜ42条に設けたかについては説明が難しい。

(注1)文化庁長官官房著作権課「解説 著作権法の一部を改正する法律について」コピライト551号(2007年)34頁。
(注2)南亮一「最近の著作権法の改正動向について―学術情報を中心として―」情報管理50巻12号(2008年)821頁。
(注3)タテマエだ、と言われればそうなのかもしれないが…。
(注4)半田正夫・松田政行編『著作権法コンメンタール 2 23条~90条の3』(勁草書房、2009年)349頁。
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2008年12月28日

[著作権]北朝鮮映画事件控訴審判決が不法行為の成立を認めた点を考える

報道によると、北朝鮮で製作された映画の著作物の日本での保護を否定した判決(東京地判平成19年12月14日(注1))の控訴審判決(知財高判平成20年12月25日(判例集・最高裁判所ウェブサイト未登載))が下され、原審同様、北朝鮮の著作物のわが国での著作権による保護は否定されたものの、法的保護に値する経済的価値を認め不法行為の成立を肯定したとのことである。

判決文が現時点では公表されていないため、正確な分析ができないが、考えられる可能性に触れておきたい。

北朝鮮などのわが国が国家として未承認の国で創作された著作物がベルヌ条約上保護されるか(注2)という点については、おそらく原審のロジックに沿ったものであろう。すなわち、国家間の権利義務関係は未承認国家との間では原則生じないものの、保護すべき価値が普遍的価値を有する場合、例外的に権利義務関係が生じるとした上で、著作権の保護は普遍的価値とまでいうことができないと評価するロジックである。私は国際法に知見がないが、このロジックに異論のあるものではないと考えられるからである。

耳目を集める点は、不法行為の成立を認めた点である。
確かに、本来であれば著作権で保護されるものであり、十分に法的保護に値する価値であると評価できるが、著作権法の適用上の解釈として保護しないとなっているものについてこれを覆すことには違和感もある。
しかし、敢えて不法行為法上の保護を認めたことの背景には、わが国の著作物の北朝鮮での冒用行為に対する民事的なアクションを担保するため、との思いがあるのかもしれない。

条約の解釈として、わが国で北朝鮮の著作物が保護されない、ということは、北朝鮮においてもわが国の著作物が保護されないことを意味する。これでは、日本の利益に叶わない可能性がある。そこで、北朝鮮内で行われる著作権侵害行為の一部でも止める手段を確保するため、不法行為の成立を認める方向で検討された可能性もあるのではないかと私は考える。
ただし、この判決で示された不法行為法の解釈は日本の不法行為法の解釈である。これが意味を持つのは、北朝鮮でなされた著作物の冒用行為に対する準拠法が日本法となる場合に限られる。法の適用に関する通則法では、不法行為の準拠法は加害結果の生じた国であるが、例外的に「不法行為の当時において当事者が法を同じくする地に常居所を有していたこと」(法の適用に関する通則法20条)がある場合には、日本法が準拠法となる。
これをまとめると、北朝鮮でわが国の著作物の冒用を行っている者が日本に常居所を有する場合、不法行為法上の責任を問うことができる、ということになる(注3)。
実質面を考えると、北朝鮮に存在する者に対して請求を行ったとしても実効性に乏しいため、日本に常居所を有する者が対象になってさえいれば、良しといえるだろう。

もちろん、そうではなく、一般的な知的創造の成果は不法行為法上保護されるものであった、著作権法はこれにさらに特別に強力な保護(翻案行為に対する禁止権、差止請求権など)を付与しているものである、と考えていると捉えることもできる。特に、原審判決文では、両当事者の挙げていない世界人権宣言の規定への言及があった。同宣言への配慮である可能性もある。

これらの点については判決文を精査してみたい。

(注1)評釈として、猪瀬貴道「判批」ジュリスト1366号(2008年)など。
(注2)なお、北朝鮮はWTOに加盟していないのでTRIPs協定上の義務は生じていない。(この点は、原審判決が、台湾で創作された著作物の差異として明示している)。
(注3)裁判管轄についても議論が必要であるが、わが国で争うことが特段の不公平な事情とならないと考えられ、認められる余地は大きいのではないか。
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2008年12月16日

[著作権]応用美術の著作権による保護を巡る解釈論の仏・独における歴史的な根っこ、そして、これからをどう考えるか

早稲田大学・北海道大学グローバルCOEジョイントシンポジウム(2008年11月29日開催)に参加した。概略をわかりやすく抑えることが出来、おもしろかった。報告からは、おのおのの先生方の考えていらっしゃる深い点も窺えたので、私としては、一聴衆として、このような場があることに心から感謝したい。また、報告をされた先生方の高い見識とわかりやすいプレゼンテーションに厚く御礼を申し上げたい(ボリュームの多い内容をまとめるのって大変だと思う…)。

さて、この記事では、シンポジウムのセッション2の主要なトピックであった、応用美術の著作権による保護について、まず、シンポジウムで得られた点をまとめ、さらに、解釈論ではなく(注1)、主として政策論として眺めてみる。なお、得られた知見に関する理解の誤りは筆者である私の責任に帰することは明示しておく。

■シンポジウムで得られた知見:応用美術の著作権による保護を巡る解釈論の仏・独における歴史的な根っこ
応用美術を著作権により保護すべきか否かについては、1900年代前半のベルヌ条約改正を巡る議論の中で世界的に取上げられて以降(注2)、今もなお続く議論となっている。わが国でも昭和38年の著作権法改正の際にも重要なトピックとして議論されたものである(注3)。
著作権法が産業保護法的な性質を一切有しない、と理解されていたことが、おそらく議論の根幹であったの思っていたが、仏・独の議論の根を見ると、それだけに限らないようだ。

シンポジウムにおける駒田准教授の報告(注4)によると、1793年法により著作者の複製権が保護され、1806年法により工業意匠の保護が定められたとき、1806年法は1793年法の特別法と捉らえられたことにより、重複保護を否定する解釈論が登場したようだ(注5)。そこで、両者を峻別する基準について100年近く議論が行われたが、結局のところ、決定的な基準は導くことが出来ず、1900年の間近になって、Pouilletにより美術的価値は意匠法、著作権法分け隔てなく保護されるべき(注6)と主張され、これが法制化された。その結果、現在では知的財産法で、応用美術の著作物も著作物として例示(L.112-2 CPI)した上で、「(著作物は、その)価値・目的のいかんを問わず」保護される(L.112-1 CPI)と規定している。

他方、ドイツの状況は異なる。本山教授の報告(注7)によると、(a)旧意匠法が、(a-1)名称が「図案及び雛形についての著作権に関する法律」で、著作権法の特別法だった(制定も同時で兄弟関係であることが意識されていた、(a-2)効力も相対効だった、こと、(b)形態の独占に対する懸念があること、から、学説・裁判例とも、重複保護を否定する解釈論として段階的創作説(わが国の基準類似のもの)が展開されてきた(注8)。
しかし、2004年の改正で、意匠法は産業保護法として自立し、著作権法との密接な関係を断絶した。以前から、段階的創作理論への批判があったところであるが(注9)、意匠法改正を機に段階的創作説の理論的基盤が失われたと捉える見解も出ている(Eck、Kurら)

以上のように、議論の根には法体系上の位置づけに関する議論があったようだ。
これは日本とは状況が異なる。

■なぜ応用美術の著作権保護に関する議論が続くのか?―単なる法学者の遊び?or部分最適化された知的財産制度への嗜好?
日本やドイツの採る段階的創作論は司法での判断になじみにくいとの思いは少なからず共有されるところだろう。その点で、フランスの割り切りはすばらしい。

さて、ここで立ち止まってみると疑問に思うことがある。
なぜ著作権で保護しない(=権利としては弱める)という議論に、関係の業界は強く反対してこなかったのだろう?
私の認識不足なのかもしれないが、ロビイングの中で強い主張としては見られない。
特に、保護目的が異なるのであるから重複保護が認められても良い、との学説が登場して以降は、もっと積極的に応用美術の著作権による保護への主張が出ても良いはずである。

それを説明する可能性は3つある。
1つめは、マニアの話と思われて無視されていた。
2つめは、主張はあるのだが、人数が少ないまたは組織化が難しく声が届かない。
3つめは、応用美術に関わる方々の中では、自分たちの分野の成果物を保護する内容として著作権は重たすぎる、というある程度のコンセンサスがある。

私の力では検証できないが、もし3つめが成り立っているとおもしろい。
これは荒唐無稽な想定ではないと思う。たとえば、イギリスでは応用美術の保護期間は短く設定されている。

もちろん、著作権の解釈として、保護対象を絞る議論は難しい。シンポジウムでも報告者の間で指摘されていたが、権利内容の調整(権利制限等)を行うことが適切なのだろう。

そうすると、これは分野に応じた望ましい知的財産制度を採ろうとする動きの1つにつながりうるのかもしれない。
ただし、そのように部分的に最適化された制度を採った場合、境界部分では紛争が増えることが難点ではある。そのデメリットまで考えた上で、応用美術の世界にとって著作権の制限が良い制度といえるならば、思い切った議論もいいように思う。

(注1)わが国での解釈論について、本ブログでも拙いながら若干の整理を行っている。「[著作権]応用美術の保護基準―作花説―」(2007年月日記事)参照。
(注2)たとえば、斉藤先生の概説書にこのあたりの話が詳しい。
(注3)たとえば、中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)が参考になる。
(注4)駒田泰士「フランスにおける応用美術」『早稲田大学・北海道大学グローバルCOEジョイントシンポジウム』(2008年11月29日開催)
(注5)その前提として「特別法は一般法を(当然に)破る」との法理があった。
(注6)いわゆる美の一体性理論。その詳細は、先行研究に当たるべきだが、極めて乱暴に言うと、「美術である以上、創作の程度を峻別することは出来ない」との理論と私は理解している。
(注7)本山雅弘「ドイツにおける応用美術」『早稲田大学・北海道大学グローバルCOEジョイントシンポジウム』(2008年11月29日開催)
(注8)裁判例としてBGH GRUR 1995, 581。
(注9)Schricker, Abschied von der Gestaltungshohe im Urheberrecht?, 1994
posted by かんぞう at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月21日

[著作権]国籍って何だろう?―著作権制度の比較から見てみると―

国籍法改正を巡っていろいろな意見が飛び交っているよう。国籍ってなあに?ってところは非常に興味深い論点ではあるのだけれど、私にはこれをきちんと考える力はない。できることといえば、遠いところでどーでもいいことを調べておもしろがることくらいだ。

と、いうわけで、面白がってみた。

■著作権法において国籍はどのように取り扱われているのか
著作権法において「国籍」が問題となるのは著作権の保護適格の場面。日本では「国籍」を問題にしている。でも中には国籍を問題にしない国もある。
そこで、ここでは著作権の保護を与えるか否かで「国籍」を問題にしているかどうかを列挙してみる。
なお、きっかけは、アフリカ諸国の著作権制度を見ているときに、国籍を問題にしていない国があったことにある。そんな国がほかにあるのかな…が出発点になっている。

□国籍を問題にする国
アメリカ
第104条(b)
最初の発行の日に、著作者の一人以上が、合衆国の国民もしくは住民、条約加盟国の国民、住民もしくは主権者、または無国籍者であること(住所地の如何を問わない)。
(著作権情報センターWebサイトより引用。山本隆司・増田雅子共訳。)

イギリス
第154条
著作者が実質的な時に次のいずれかに該当する資格ある者であったときは、著作物は、著作権保護について資格を有する。
(a)英国市民、英国従属領市民、英国国民(海外の)、英国海外市民、英国臣民又は1981年の英国国籍法の意味における英国被保護者
(著作権情報センターWebサイトより引用。大山幸房訳。)

インド
第13条2項
発行著作物の場合には、インド国内において最初に発行され、または当該著作物がインド国外で最初に発行された場合には、著作者が当該発行日(著作者が当該日に死亡しているときはその死亡日)にインド国民であること、
(著作権情報センターWebサイトより引用。山本隆司・岡雅子共訳。)

…ざっとみると先進国はほとんど国籍を問題にしているようだった(全部挙げるとキリがないから割愛)。

□国籍を問題にしていない国
フランス
第111の4条 フランスが加盟国である国際条約の規定に従うことを条件として、 ある国が、 いずれかの形式においてフランスで最初に公表された著作物に十分かつ有効な保護を確保しないことが、外務大臣との協議の後に確認される場合には、 その国の領域において最初に公表された著作物は、フランス法によって著作権について認められる保護の利益を受けない。
(著作権情報センターWebサイトより引用。大山幸房訳。)
※ただし、111条の5でソフトウエア著作物については国籍を問題にしている。

ガーナ
第1条(2)著作物は以下の条件を満たす場合に著作権を与えられる。
(中略)
(c)(i)ガーナに常居所を有する者により創作されたこと。

■結論
というわけで、国籍を問題にしていないのはその某アフリカ諸国の話に留まるものだったようだ。
とはいえ、著作権法の世界ではごくまれに国籍を問題にしていないことがあったって面白くないですか?
国際条約が張り巡らされているから国籍なんて実質的にはあまり関係ないって冷静な突っ込みはナシで。
posted by かんぞう at 01:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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