2007年07月02日

[著作権][つぶやき]著作権保護期間についての考慮要素についてのSam Ricketsonの考え、および、保護期間延長をめぐる理論的考察の意味

RCLIP第21回研究会に参加してきた。
タイトルは「著作権の保護期間に関する理論的考察―欧米の議論を踏まえて―」であったが、報告者ご本人が自身が断りをいれてらっしゃったように、欧米での議論の紹介にとどまるものであった。著作権の保護期間に関するRicketson教授の理論的考察の紹介と、米国での著作権保護機関を巡る諸議論(表現の自由との関係を中心とした議論)の紹介であった(注1)。

その中で、私は「保護期間についての考慮要素」と「保護期間延長をめぐる理論的考察の意味」について思うところがあったのでひとこと。

保護期間についての考慮要素

研究会の報告を元にすると、Ricketson教授は次の考慮要素がある、と述べられているようだ(整理は筆者)。
1)保護期間と創作者の寿命
1-1)保護期間算定において創作者の寿命を基礎とするか否か?
 1-1-a)積極的理由
  ・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
 1-1-b)消極的理由
  ・不公平感を生じさせる
  ・投下資本の回収に必要な機関さえ保護すれば十分なのではないか
1-2)死後も保護するかどうか?
 1-2-a)積極的理由
  ・不遇の芸術家が多かった歴史的背景を踏まえれば、家族の不要のため死後にも利益を保証することが必要である
 1-2-b)消極的理由
  ・相続人等が作品を抑圧するような権利行使をする可能性がある
  ・長期の保護につながるが、長期の保護がなされある場合、権利者の確認が困難になる場合が多くなる
2)保護期間と著作物の類型
2-1)著作物の類型に関わらず統一的な保護期間を設定することは妥当か?
 2-1-b)消極的理由
  ・新しい著作物に対応できない

これ考慮要素が果たして網羅的なものなのか?というと疑問を覚えてしまう。おそらく、Ricketson教授も網羅的なものとして挙げられているのではないだろうか。
目立つものでは、
2-1-a)・類型の区分が困難である
というものが欠けている。

また、こういう要素も挙げられる。
1-2-a)・死後も保護しないと、著作物を利用したい者が創作者を殺そうとするインセンティブになる(笑)
冗談である。

著作権は人格を保護しているのか、単なる経済的利益の保護にとどまるのか、というレベルの観念的なものまでつっこむのであれば、この考慮要素で決定的に決まると思うが、そうでない限り、この要素ではどうしようもないように思う。使い方としては、価値観対立のデッドロックに陥った時に、民主的解決を図る際の、説明ツールなのかなぁと思う。

なお、出席者のコメントで勉強になった点があった。アメリカでの保護期間延長の際、創作インセンティブ増大の効果について経済学者らは「きわめてマージナル(めっちゃ少ない)」といっていたらしい(注2)。政策的には考慮できる見解である。

保護期間延長をめぐる理論的考察の意味

研究会で気になった(残念ながら悪い意味で)点が、政治的力学の説明にも注力されていたことである。さらに、政治的力学を検討した上での法理論支持をしたいともとれる発言はきわめて残念であった。会場からも質問が上がっていたが、政治力学が強く作用する、というのであれば、理論的検討を事前に行う必要がない。事後的な記述的な分析さえあれば、学問的に十分ということになる。

私はそういうスタンスは違うと思う。多くの法制度設計に置いて政治的力学が最前面に出ることは、少なくとも十分な教養ある人たちが立法に中心的に関わる社会ではまず無いと思う。理由は2点だ。

・理論的な裏付けに乏しい、政治力学のみで制度をつくっていっても、利害の異なる人たちの中では合意形成が困難だと考えられる。バカばかりならば政治力学でなんとかなるかもしれないが、立法の現場はバカではやっていけない。これは国際的な場になればいっそう強調されるのではないか。
・理論的な裏付けに乏しいまま立法しても、エンフォースの段階で対立利害の者のコミットを得られない。結果的に力で押し通した意味が大きく減殺される。合理的な人間ならば、立法段階で理論的裏付けを確保し、コミットメントを得ようとする。

さらに言えば、私は政治的力学が働く場面は次のようなきわめて限定的な場面だと思っている。

・理論的につめていったときに、価値観の対立に至ることがある。そのときに政治的な力学が考慮される(これは言い換えれば民主的正当性が担保されるということだが)。

質問者は、著作権制度の立法課程の政治過程研究というきわめてユニークな研究をされていた方だった。おそらく、質問者の意図は法学研究全体の意味を否定したかったのではなく、政治学研究者の立場から、法学者が理論を詰めていく作業を怠ってはならない、という警鐘を報告者に対してなさったものと思われる。

(注1)記述的な調査報告と、理論的研究の報告には聴衆の期待が大きく異なる、と私は思う。その意味で、タイトルのつけ方が残念であった。また、報告者はプレゼンに慣れてらっしゃらないのか、Ricketson教授の議論紹介でほぼ終わってしまった点も残念であった。これからの糧にしていただければ、と感じた。
(注2)おそらく、これ:Amici Curiae in support of Petitioners, May 22、2002。
posted by かんぞう at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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