2008年06月17日

[つぶやき]携帯電話を禁止することに疑問

内閣の教育再生懇談会が、小中学生に携帯電話を所持させないよう求める提言を出した。

私的領域での行動の制限を強化すること、情報統制を強化することに対して、私は気持ち悪さを感じる。
なんかさ、日本の近くにある、かの国みたいで。
ま、これは私の個人的な感じ方ではあるが。

もちろん「子供を守りたい」という気持ちはわかる。

が、その思いを実現するのに、その方法は本当に正しいのか?
その方法しかないのか?
それ以外の方法を考え、それ以外の方法を磨くことを考える努力を、大人たちは怠っていないのか?

「有害情報」による悪影響を問題視するならば、有害情報に触れることがいかに子供たち自身の成長に影響するかを、情緒的にではなく(注1)、科学的に教えるのでは不十分なのだろうか?

それでは効果がないことは確かめた上で、携帯電話という有害情報に触れうるツールの一つの使用自体を禁じる提言を出したのだろうか?

あるいは、一定の効果はあるが、一部では効果がないことを問題視しているのだろうか。そうだとすれば、その一部が残ることが世の中に重大な悪影響を与えることがわかっていなかれば、その他大勢の行動を制限することに見合わないのではないだろうか。有害情報に触れることによる悪影響はそんなに大きいのだろうか?

情緒的なことを言ってみる。

携帯電話をもつことを「原則禁止」すれば、携帯電話をもっている子供は「悪者」になるかもしれない。
お父さんやお母さんが耳の聞こえない人の場合、メールは親子をつなぐ道具になる。(少なくとも家への重要な連絡手段である)
もちろんそのような背景事情を知っている人は、批判的な眼で見ないだろうが、何も知らない世間の多数の人はその子を批判的な眼で見ることは想像できる。
そんなのはレアケースだから切り捨ててしまうのだろうか。

いつでもどこでもネットワークにアクセスできることは、興味を持ったものをその場で調べることが出来ることを意味する。
好奇心おう盛な子供の興味をその場で(たとえば山や川で)、満たすことが出来る。新たに考える契機になるかもしれない。

…さて、ここで挙げた「情緒的なこと」は世間がユビキタス、ユビキタスともてはやしていた時に指摘されていた、ユビキタス化による利点である。(前者はバリアフリー、後者は間隙時間学習)

ユビキタス社会に関わるであろうツールを摘まなければならないほど子供たちに「有害」なのだろうか。「有害」と価値判断して、スタンダードをつくることは望ましい未来を作るのだろうか。

それとも子供たちは「昔ながら」に育ってほしいから、敢えてユビキタス社会から排除するのだろうか。「昔ながら」に育つことは至上の価値なのだろうか。ただのノスタルジーで規範を作られたのではたまらない(注2)。

(注1)子供たちの科学離れ、学力低下を唱える声が多いが、それを唱える声のもとは本当に「科学的で」「教養に満ちている」のだろうか…と教養も無く、科学の基礎である論理性も不十分な私が言ってみる(笑)
(注2)規範を作る者の考える力が乏しい場合、その規範の正当性を正確に判断できず、結果として望ましくない政策が実行され、考える力を乏しい世代を生み出すことに寄与してしまう蓋然性が高いと(経験上)思われる。なお、規範を作る者とは、主権者であり政治をコントロールできる私たちであることを付言しておく。(そう書いたところで、自分の考える力の無さがすごく恥ずかしくなった…)
posted by かんぞう at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ●つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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