2007年10月30日

[つぶやき]「創作」ってなんだろう、なんていうふわっとしたお話

個人的なことで恐縮だが、時間が上手に使えていなくて知的財産勉強ができていない。ふんわりとしたことしか考えられないので、恥をさらすつもりで、今日はふんわりとした話題を。

研究・技術計測学会で、東大の丹羽清教授、妹尾堅一郎教授が「イノベーション」の概念(正確には用語法、だろうか)の整理を試みていた。

おおよそ、お二人の意見は次のところで集約していた。すなわち、「イノベーション」といっても「既存モデルの改善・成長」「新規モデルの創出」という2つの理解がありえ、それぞれの意味のところを達成するには異なる手段が必要なことに留意しないといけない、ということだった(注1)。

丹羽教授は「新規モデルの創出」について、「意図した新規モデル創出」と、「serendipity」(偶然、ぱっと生まれるもの)の2種類が有ると指摘されていた。

さて、この「serendipity」という言葉が面白い。一説によると、スリランカ(かつてのセイロン)の王子が偶然の発見を繰り返す…という物語に着想を得てイギリスで生まれた18世紀の造語らしい
(注2)。

仮にそうならば、この「造語」であるところが面白い。裏を返せば、偶然ぱっと生まれる、ということが乏しかったことの証左なのではないだろうか。

知的財産、特に著作権を巡る話の二次創作を巡る話題で、「日本は摸倣を重んじた文化発展をたどった一方、欧米は独創を重んじていた」ということが語られることがある。この「独創」をserendipityの意味でとらえていることが多いように思う。しかし、欧米、少なくともイギリスにとって「serendipity」は輸入概念ならば、そういう文化像は誤っている可能性が高い。

(注1)これはおっしゃるとおりだなぁと思う。それぞれがそれぞれの思惑でイノベーションと言う言葉を使っていたように思う。言葉である以上仕方が無いが、なじみの無い言葉ほど懐が深すぎて議論がずれる原因になってしまうことがある。
(注2)外山滋比古「思考の整理学」(筑摩書房、1986年)69頁。
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2007年10月24日

[商標]商標的使用とメタタグを巡る判例・学説の整理に関する覚え書き

メタタグ(中でもdescriptionタグ)で、他人の商標を使用することが商標権侵害になるか、という点についての学説・裁判例の整理にあたっては、「メタタグの視認性に対する認識」という前提条件の差の視点に留意しなくてはいけないように感じた。

例えば、結論としてメタタグにおける商標の使用を商標的使用にあたらないと述べる、青江秀史=茶園成樹「インターネット知的財産法」高橋和之=松井茂記編『インターネットと法 第3版』(有斐閣、2004年)285頁は、メタタグが画面上に表示されないことを前提としている。

他方、結論としてメタタグにおける商標の使用を商標法上の使用と判断した〔クルマの110番事件〕大阪地判平成17年12月8日は、MSNサーチ上で検索結果としてdescriptionタグの内容が表示されることをもって視認性有りと認定し、その上で商標的使用と述べ(下線部2007/10/25追記)ているように読める。

私の判例の読み方が正しいのであれば、両者の結論の差の要因は、単に特定のサーチエンジンがメタタグ無いの記述を表示させる機能を有しているか、そうでないかを知っていたか知らなかったかの差に留まる。

これに比べ、結論としてメタタグにおける商標の使用を商標法上の使用と述べる、土肥一史「ネットワーク社会と商標」ジュリスト1227号(2002年)26頁は、視認性の捉え方が少々独自であるように読める。土肥教授によると、メタタグの場合「ソースを読めば視認できる」(keywordタグを想定されていると思うが)「検索者が入力したキーワードとの一致という形で視認できる」と述べている。いずれも商標の冒用者の積極的な行為により視認性が生じたものとは言いにくいところではないだろうか。言い換えれば、識別性が有るというにはグレーな領域では無いだろうか。

その意味で、土肥教授の2002年段階での見解は、時代を先取りした点ですばらしい功績ではあるが、商標的使用論に関するこれまでの考え方からは異質であるように思われる。

(注)なお、学説の整理にあたっては、青木博通『知的財産権としてのブランドとデザイン』(有斐閣、2007年)174頁を参照した。
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2007年10月23日

[時事][知財一般]アイディアにも著作権が及ぶと主張してビジネスを止めさせた事例…これって本当?

(2007年11月4日追記)

■センセーショナルな記事:アイディアも著作権侵害
IT Media「アイデアに著作権なし……それでも「いいめもダイエット」サービス停止」(2007年10月16日)《リンク》という記事を配信した。内容は、リンク先をご参照いただきたい。

記事がなかなかセンセーショナルなものであるため、いろいろと話題となったようだ。問題となった警告(仮に記事が伝えるところが正確であるなら、そのように評価できる)を行った岡田さんのブログには、非難のコメントが多数寄せられていた。しかし、ご本人の書き込みによれば、記事に事実と異なる点があった可能性も窺える(注1)。

■問題の本質について推し量る
本件の事態について、ある程度合理的な説明をしようとすると、次の3つが考えられるのではないだろうか。

(1)パブリシティ権を巡る紛争が本質である可能性
記事によると、岡田さんの許可無く、岡田さんの名前や著書を挙げていた、ということなので、パブリシティ権を巡る争い、という可能性が考えられる。
紛争の理由としては本件においては合理的であると私は思う。
これまで、顧客吸引力をもった著名人の氏名の冒用が不法行為にあたると判断される事例は積み重なっている(注2)。
もっとも、裁判例から見るに、「顧客吸引力を専ら著名人の氏名・肖像に依存している」かがターニングポイントとなっているようであり、本件の用いられ方がパブリシティ権侵害と評価できるかは微妙な判断となるだろう。

「微妙」と思われるポイントは次の2つである。
・岡田さんの名前の持つ顧客吸引力を専ら利用しているか?(これは程度問題なので、事実関係がわからないとなんともいえない)
・岡田さんの名前以上に、本の題名の持つ顧客吸引力が作用しているのではないか。そうすると、「物のパブリシティ」の問題となるが、これは厳しそうである(注3)。

(2)挨拶がない!とか、「道義的問題」という可能性
次の可能性は、自己の書籍のアイディアを用いている上、無断で名前を使っているのに「挨拶が無いのはケシカラン」という可能性である。法的な根拠は乏しいと考えるが、それを補うのに、著作権紛争の形を通じて法的紛争となったなされた可能性がある(注4)。
個人的な感触で恐縮ではあるが、「挨拶が無くてケシカラン」といったことが、何らかの実体法の枠組みで表れることが少なからず有るように思う。

なお、著作物とは次元の異なる話であるが、似たような構図が特許の世界にあるように感じる。研究活動において、他人の開発したマテリアルを用いて完成した成果に対し、提供元への何らかの情報のフィードバックの要求なり出所表示の要求があると聞く。マテリアルがどの程度研究に貢献したかは分野によって大きく異なるが、多くの場合、マテリアルの提供元の表示や、研究成果のフィードバックを求める法的根拠を見つけることは難しいように思う(注5)。これもある種の「挨拶」系のお話ではないだろうか。

(3)著作権に対する勘違い
最後の可能性として、著作権制度について(特に本件では翻案について)誤解されていた、と言うことが考えられる。岡田さんは著作権法の専門家でないので、そのような誤解をなさっていても、非難することは私にはできないし、やむを得ないことであると思う。
ただ、このような誤解により競争環境に萎縮効果が生じることの弊害は否めない。国の施策としては「より良い著作権教育」を今後していかないといけないね、という話になるだけだろうなぁと思う。単に権利を守ろう、ではなく、正しく権利を守ろう・正しく権利を主張しようという形の教育をする必要が有ると感じるのである。

(注1)もっとも、書き込みを削除されているし、それ以上の反応をなさっていないので何とも言えない。私としては、事実が分からないから何とも言えないね、という態度でこの記事を書いている。
(注2)〔おニャン子クラブ事件控訴審〕東京高判平成3年9月26日判時1400号3頁。
(注3)〔ギャロップレーサー事件最高裁判決〕最判平成16年2月13日民集58巻2号311頁参照。
(注4)私はこの類型の紛争を「挨拶が無くてケシカラン」系紛争と勝手に分類している。この類型に属すると考えられるものとして、漫画家の松本零士さんが歌手の槇原敬之さんと紛争になった事例(本ブログ「[時事][著作権]松本零士「銀河鉄道」騒動雑感」(2006年11月13日)参照)。
(注5)もちろん、マテリアルの譲渡契約で単に決まっただけ、と考えることが自然である。しかし、このような契約を定型としている研究機関が少なくない、とも聞いていることにかんがみれば、「挨拶が基本」と考える慣習があるのではないか、と思うのである。
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2007年10月19日

[商標]商標の普通名称化の防止

青木博通『知的財産権としてのブランドデザイン』(有斐閣、2007年)の第1章第1節「商標の普通名称化」を読んでいて、なかなか勉強になった。備忘録として刺激を受けたポイントを。

■欧州における普通名称化防止に関する制度
標章であっても、普通名称として使われるようになると、その時点で商標出願をしても登録を受けられなくなり、同一または類似の標章に対して、侵害の主張が認められなくなる。

それを防ぐため、欧州では登録を受けた商標に関して次のような制度設計がなされている。
・商標権者の側から「辞書、百科事典、その他の同様な書籍」(注1)において商標を一般名称としての印象を与える形で用いている場合、その書籍発行者は次版において登録商標であることを明示する義務を負う(欧州共同体商標理事会規則10条(EC40/94))。
・他方、商標が普通名称化した場合登録が取り消されうる(同50条(b))。

これを受けて、青木弁理士は現行商標法に普通名称化を防ぐ手だてが無いことを問題視し、立法論として、日本においても欧州共同体商標理事会規則10条同様の規定を設けるべきと述べられている(注2)。

■欧州の制度への疑問
確かに、直感的には欧州共同体商標理事会規則10条は正当性がありそうな規定にはなっている。しかし、決定的な疑問が有る。普通名称化に貢献するのは、(少なくとも現在においては)辞書/百科事典などの「書籍」が主なのであろうか。

ガチガチの文言解釈をすれば、ここには「新聞」や「ウェブサイト」、また、「データベース」は含まれないと思われるが、反復継続的に公衆に語のイメージを与えると言う点ではこれらの媒体と、辞書/百科事典などの書籍では差がないのではないだろうか。

私はそのように思うのだが、そうすると欧州共同体商標理事会規則10条の合理的な説明がつかない。むしろ一方的に辞書/百科事典の出版社のみを制約する規定ともとられなくもない。

■妥当な解決策は?
ただ、裁判の運用上、辞書の記載が重視されてきたということである(注3)。このことに鑑みれば、上記の点が直感的な同制度の合理性を支えてきたのだろう。

しかし、運用が問題であるなら、それを改めればよい。

法的な問題はさておき、たとえば普通名称化の認定にあたっては辞書の記載を参酌するが、普通名称化の防止に尽力していれば、それをもって普通名称化に否定的な認定をする、という運用もあり得る(注4)。
(注1)訳は、特許庁のWebサイトによる。http://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/fips/ec/crct/chap3.htm#law10
(注2)青木博道『知的財産権としてのブランドとデザイン』(有斐閣、2007年)34頁。
(注3)日本においても同様に辞書の記載が斟酌された例として〔巨峰事件〕が有る。
(注4)法的に問題が有りそうだが、これの検討は後日…。(と言うときはたいてい忘れる)
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2007年10月17日

[商標][わからないこと]小売等役務に該当しない「小売」行為って何?

平成18年で商標法が改正され、「小売等役務」が指定役務とされたが、これに関して一点わからないところが有る。

特許庁の改正商標審査基準によると「小売等役務とは、小売または卸売の業務において行われる総合的なサービス活動(商品の品揃え、陳列、接客サービス等といった最終的に商品の販売により収益をあげるもの)をいう」と言うことだが、青木博通『知的財産権としてのブランドデザイン』(有斐閣、2007年)90頁によると、商標法2条2項は小売または卸売の業務において行われる顧客に体する便益の提供のみをサービスとしているため、商品の販売行為のみは小売等役務に含まれない、とされている。

理論的にはわかるのだが、小売等役務に含まれない小売の形態と言うのは実際的にあり得るのだろうか。イメージできない…。

お読みになられている方で、お気づきに方は教えていただければ幸いである。
posted by かんぞう at 01:34| Comment(6) | TrackBack(0) | ☆商標 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[特許法]インド特許法の特徴を聴いてきた

知財研主催のシンポジウム「インドの知的財産制度と企業戦略」を聴いてきた。インドの知的財産制度の情報自体が乏しいので、貴重な機会である。

シンポジウムは、インド政府の知的財産制度への取り組みの紹介が中心であった。参加者から基礎的な質問が多く出されていたことを考えると、日本においてインドの知的財産制度への理解はまだまだ低いのだろう。

かくいう私もインドについては全く知らなかったので良い勉強になった。

■インドにおける知的財産制度の特徴
・1998年のパリ条約加盟以降、国際的なハーモナイゼーションを行うべく、法改正を実施。制度上の相違点は解消しつつ有る。
・相違点は、(1)伝統的知識・遺伝的資源の取扱い、(2)特許要件の違い、(3)プログラム特許の取り扱いの違いである。
・(1)遺伝的資源に基づく発明を特許出願する場合、出所を明示する義務がある。違反すると取り消し事由となる。
・(2)組み合わせ発明を中心として、高いレベルの進歩性(明白な効果)が特許法上求められてる。それゆえ、医薬品に関しては特許付与の機会が少ないと批判されている(注1)。
・(3)プログラム特許は、特許付与の対象として認められていない。プログラムにより特定の機能を実現する装置として、特許付与の対象になるかについては、2004年段階でこれを肯定する規則が定められたものの、ソフトウエア協会などの反対を受けて2005年に同規定が削除された。
・知的財産権の侵害に対しては、裁判所が独自に排除命令を出すことが可能…らしい。(憲法226条、227条に基づくようだ)。

■インドの知財制度に触れての感想
遺伝的資源の取り扱いについては、インドネシアと並んでこれらの保護に熱心な国らしい特徴である。
中国と異なり、エンフォース面で優れている、とのことであったが、日本の特許法と類似している(というよりはかなりの程度参照されたと思うのだが)中国特許法と異なり、インド特許法はある程度の独自性を保っている(注2)ことを鑑みれば、一長一短と言えよう。
進歩性についてはユニークであり、実際、特許登録件数は産業の規模に比べて少なめである。

(注1)スイスの製薬会社novartis社が、そのような基準はTRIPs協定に反すると主張して、登録査定を拒絶した審決に対し取消訴訟を提起したが、マドラス高裁はこれを棄却したようである(シンポジウムにおける山名准教授の紹介による)。
(注2)山名准教授はこれをイギリス法の伝統を引き継いでいるためと理解されていた。
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2007年10月15日

[時事]ついにその日が来た

すでに『企業法務戦士の雑感』のFJneo1994さんや、小倉弁護士がふれられているところであるが、中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)が発売された。

ちょうどお客先に行く用事で丸の内にいた私は、仕事中にも関わらず、まっすぐ丸善 丸の内OAZO店に向かって、立ち読み!山積みしている点、丸善 丸の内OAZO店のセンスが良いと感じてしまう(注)。

買わないの!?と思われるだろうが、この日のために貯めておいた図書券をうっかり家に忘れてしまったので、仕方ないのだ…。

ともかくも、期待通りこの本は面白い。
前書きを読むと、転換期にある著作権法の解説書としてダイナミックな構成をはかりたい!という思いをもたれていたことが吐露されている。その上で、田村先生の教科書をダイナミックな構成をとっている一例として紹介されている。

気合いの入りようが窺える。
早く読破したいものである。

(注)このOAZO店はどの書籍の品揃えも良いが、法律関係、こと、知的財産関係はすばらしい。良い目利きがいるのだろう。
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2007年10月10日

[その他]パブリシティ権を巡る、新たな興味深い事案

振り付けにもパブリシティ権?〔ピンクレディー振り付けパブリシティ権事件〕の概要
MSN産経ニュース(2007年10月8日記事)によると、
 元ピンク・レディーの未唯(みい)さんと増田恵子さんが、女性週刊誌に掲載された過去のステージ写真をめぐり、「振りつけにもパブリシティー権がある」として、出版元の光文社に計312万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていることがわかった。
とのことである。

事実関係の概要は次のようである。
(同記事より引用)
 訴えによると、週刊誌「女性自身」は今年2月27日号で、「ピンク・レディーの激しいダンスダイエットする」との趣旨の企画記事を掲載。記事とともに、大ヒット曲「ウォンテッド」「渚のシンドバッド」などを歌い踊る2人の過去のステージ写真など、計14枚の写真を無断掲載した。
 2人は訴えの中で、「ピンク・レディーとして5曲連続ミリオンセラーを記録するなど人気を集め、その知名度はいまだ衰えていない」として、まずは肖像のパブリシティー権を主張。
 その上で、振りつけ自体にもパブリシティー権があると主張している。

これから判断するに、主たる主張は、
雑誌の一記事の中で無断で写真を使用したことがパブリシティ権の侵害である。
というものであり、予備的に、
・振り付け自体にもパブリシティ権があり、その振り付けを撮影した写真の無断使用もパブリシティ権の侵害である。
と主張していることが窺える(注1)。

■筋の悪い主張か?
これを見て、「なんて無茶な」という感想もあると思われる(注2)。

だが、予備的主張の構成はともかく、主としてオーソドックスな意味でのパブリシティ権を主張しているのであるし、(後述するが)それが100%認められるか難しい局面であるため、なんとかして予備的な主張をひねり出す代理人の姿勢には、私は筋の悪さは感じない。

まず主たる主張について検討する。
パブリシティ権侵害との明示がないものもふくめて、これまで芸能人の肖像写真の無断利用が不法行為であるとされてきた事案は多い(注3)。それゆえ、主たる主張としては真っ当なものである。

ではこの主張が受け入れられる可能性はどうか。
本件のような雑誌の一記事での利用の場合について、利用の態様からの総合判断によって不法行為該当性が否定された事案(注4)があることから、何らかの予備的主張をしておくことが望ましい。その意味で、代理人の方針は真っ当である。

■予備的主張の「振りつけにもパブリシティー権がある」はどう評価できるか?
こちらの主張は、直観的に苦しい。
少なくとも先例は無い。

では、この主張を根拠づけることはできないだろうか。
現在、パブリシティ権は複数の法的性質からなるものとの理解がある(本ブログ「[知財一般][やるべきこと]パブリシティ権を整理する枠組みについてのおもいつき」(2007年5月4日記事)参照)。

それに基づいて考えると、次のようになるだろう。

□人格権
振り付け自体の人格権と言うものは認められないだろうし、仮に、振り付けに化体した人格、と説明してしまうと、著作物の通説的な理解と重複し、「著作権の主張ぢゃん、あんたは著作権もって無いヨ」と言われてしまうので、この性質に基づく構成と理解するのは苦しいものと考えられる。

□不正競争型の競争秩序違反(標識の冒用)
まず、振り付けが、それが利用されたサービス/商品の出所がピンクレディーであることを表すものだ、と言う必要があろう。これは難しいのではないか。たしかに振り付けは「ピンクレディー」を想起させることに疑いは無いだろう。しかし、ピンクレディーの振り付けを見て、商品等出所の混同が起こるか、と言われれば、私は疑問を感じる。
ただ、この性質に基づく構成が本件では一番無難かもしれない。

□当該行為のインセンティブを著しく削ぐと言う意味での競争秩序違反
こんな利用のされ方をするのでは、もう振りをつけて踊れない!…というにも難しいように思う。よって、これは苦しいのではないか。

若干無茶な主張であるように素人目には感じるが、そういう無茶な主張をすると原告のパブリシティを傷つけかねないことは原告代理人も承知されているところであると思う。ならば、よほどの理論的正当化ができており勝算があるのか、あるいは、よほど光文社に恨みが有るのか…。
(注1)あくまで産経新聞の報道による限りであるので、「窺える」とした。残念ながら他の新聞から報道はなされていない。
(注2)私は最初そう思っていた…。
(注3)詳細は内藤篤=田代貞之『パブリシティ権概説 第二版』(木鐸社、2005年)を参照。
(注4)たとえば〔ブブカ2002事件高裁判決〕(東京高判平成18年4月26日判タ1214号91頁)。
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2007年10月05日

[知財一般]創出された情報についてコントロール権を与えることで新たな情報が生まれるかどうか。

最近、自分の時間の確保ができていない。時間の量り売りをしていてはダメだ…と思うのだが。
そのような事情なので、今日は脱力系の書き方となっている。たぶん、間違い、ピンボケ
多数。

Dennis S. Karjala, Does Information Beget Information?, 2007 Duke L. & Tech. Rev. 1に触れた(注1)。この論文は、オープンになった情報が新たな情報を生み、除法の豊富化に結びつくとし、情報の豊富かインセンティブ増大のため、情報をオープンにし、さらに創作活動を活発化させる仕組みとして創作者に対する情報コントロール権の拡大を唱えるR. Polk Wagner, Information Wants to Be Free: Intellectual Property and the Mythologies of Control, 103 Colum. L. Rev. 995 (2003)への批判が中心となってる。

Wagnerの主張は、2段階に分かれる。まず、情報は情報をねずみ算式に生む、と理解している。例えば映画が発表されば、それに触発され、直接関係する評論、小説、それに影響された小説…と情報の豊富化が起こる、と説明している。次に、そもそもの情報創出のインセンティブとして情報へのコントロール権が有用だとの前提の基に、コントロール権強化により情報豊富化を導くことができる、としているようだ(注2)。

で、カージャラの批判の要点は何点か有って、そのうち1つが、コントロールが行き過ぎたら負のインセンティブになるじゃん!というもの。

今回はこれに関して(言いがかりを)考えてみたい。

まず、今回は単純に「金銭的な」インセンティブを中心として考える。
現状の知的財産法のもと、一つの作品(a1)で権利者が得られる利益をp[0][a1]とし、現状より情報へのコントロールが強くなった状態で権利者が得られる利益をp[1][a1]と便宜上表記する。
当然、
 p[0][a1] < p[1][a1]
である。

で、この増加分の使い道であるが、他の侵害の可能性があるものへのアタックに使われる可能性があるのではないか。
著作物においては顕著であると思うが、独自創作だろうが、「似ている」のであればとりあえずアタックしてみる、ということが考えられる。その原資には、コントロール権の強化により増加した金銭的インセンティブ部分が当てられるのである。
特に、 p[0][a1] << p[1][a1] の場合にその傾向は顕著だろう。
1回でも勝てば利益を一気に増やすことができるということで、濫訴となる可能性も捨てられない。

後から情報を生み出す者は、確率qでp[1][a1]に比例したいくらかの損害賠償を支払う潜在的なリスクが有る訳だが、qは増大するし、p[1][a1]はでかいし、というのであれば、合理的な者は一個良い情報を生み出したら、あとは情報の豊富化に寄与しない、というのがあり得ると思う。

というわけで、極端なモデルではカージャラ教授の言うことに賛成!というのが今回の記事であるが、後で、できるかぎりこの論文の要旨をまとめたい。

(注1)コンピュータプログラムの著作権法上の保護についてまとめた、『日本−アメリカコンピュータ・著作権法』(日本技術評論社、1989年)でご存知の方も多いはず。最近は著作権延長に反対する論文以外目立った活動がないような…。少し残念である。ちなみに、この論文も著作権延長に反対する立場からのもの。
(注2)まだ精読できてないので(ってほんとはかなーりまずいんだけど)とりあえず「ようだ」ってことで。なお、Wagnerはideaも含めたinformationすべてについて言及している。
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2007年10月02日

[不正競争]ヌーブラ事件の評価

西井志織「不競法2条1項3号該当行為に対する損害賠償請求の主体――ヌーブラ第1事件――大阪地判平成16・9・13」ジュリスト1314号(2007年)読書メモ

東京大学Dr.コース所属の若手研究者による論稿がジュリストに掲載されていた。取り扱っている事案は著名なものであるし、ある程度議論が出ているものであるが、非常に明快に整理がなされていた。

■論文の概要
まず、不正競争防止法2条1項3号の請求主体については、資本労力を投下して商品化した者に限られるとする考え方と、他のアクターも主体になることができると言う考え方に大きく分かれる。西井さんは後者の考え方の多くの背景には公正な競争秩序の維持を目的とする「摸倣の阻止」が根拠となっていると指摘され、その上で、本判決が「公正な競争秩序」維持のためにいたずらに請求主体が増えることは望ましくないと触れていることに言及されている(181頁)。
次に、本判決が請求主体として認めた「商品形態の独占について強い利害関係を有する」者の理解として、類似する同一部の判決を手がかりに、本来的な請求者である資本労力を投下して商品化した者からの「伝来的な」者(特許権の場合における独占的通常実施権者と同じ立場)をいうのではないか、とした上で、その具体的な判断基準に2つの可能性を検討されている。
1つ目として、本判決に続く判決に言う「開発者の独占的地位に基礎を有する」地位をもつ者、という基準を検討され、その場合、なぜその者が請求主体となりうるといえるかについて積極的な理由が無いと批判される(182頁)。
2つ目として、上記のように理解せず、独立した基準として考える場合を検討され、その場合、積極的な理由付けが無いと批判される。
また、仮に「伝来的な」者であるとするならば、特許権の場合においては「伝来的な」者は差止め請求権を有しないことを指摘し、解釈論としての整合性を問題視されている。
その上で、西井さんは、平成17年改正前の3号の理解と言う限定は付した上で、3号は資本労力を投下して商品化した者の保護規定と解されることから、その趣旨にそう理解をすべきとされ(つまり、資本労力を投下して商品化した者に限られるとする考え方を支持)、そのうえで、債権者代位権の可能性を行使すべき(つまり、方向としては、井上由里子「不正競争防止法上の請求権者--成果開発と成果活用の促進の観点から」日本工業所有権法学会年報29号(2005年)141頁以下に賛同)と述べられている。

■私見
なるほど!と正直なところ感じさせられた。

請求主体の判断基準を巡っては、そもそも3号の性質論によるところが大きい。私自身は、2条1項3号の請求主体については、宮脇准教授の説明(宮脇正晴「判批」判評567号37頁以下)が説得的と考えていたが、少なくとも平成17年以前の3号解釈論として、立法者が明確に示した性質論をなぜ無視できるかが説明しにくいところではある。
ただ、17年改正で「日本で最初に販売されてから」という行が足されたことにより、「投下資本回収の危険」を保護する性質に転化したようにも思われる…と未練は示しておきたい。

ともかくも丁寧な説明と、理論的な展開に、勉強させられるところが多々有る論稿である。今後のご活躍が期待できる若手研究者のお一人であろう。
posted by かんぞう at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆不正競争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする