2007年09月30日

[その他]法学と経済学のあいだ:矢野誠編著『法と経済学 市場の質と日本経済』読書メモ

矢野誠編著『法と経済学 市場の質と日本経済』(東京大学出版会、2007年)読書メモ

Law&Econ.(法と経済学)の視点から、各種法制度と、教育制度について検討する興味深い本があった。慶應義塾大のCOEの取り組みのまとめ、ということであり、オムニバス形式になっている。全般的にはやっつけ仕事という感じがそないではないものではあるが、2つの意味で面白かった。

1つは、Law&Econ.の視点から上手に法制度を分析しており、「へぇー、おもしろいなぁ」と思えるものがあったという面白さ。
いま1つは、法制度を経済学的に分析をしてはみているけれど、「噛み合ってないなぁ、なぜ噛み合ってないのかなぁ」と考えされられる面白さ。

実はもう1つ面白さがあって、全く経済学的な分析でもないし、法学的にも面白くないというという、「本書の目的を理解して書いてないぢゃん」っていう代物が含まれている面白さ。これは突っ込みをいれるには楽しいのだが、批判だけするのは好きじゃないんで省略。


■Law&Econ.による興味深い分析
利息制限の設定がまずいとかえって低所得者が苦労して追い込まれるよ、というあたりとまとめている、福井秀夫教授の執筆部分と、借家法の規定はかえって賃借のコストを上げてしまって若者や高齢者などの層も打撃を与えているよーというあたりをまとめている八代尚之教授の執筆部分は面白い。

どちらの法制も「弱者保護」が保護法益のひとつとして説明される。そうであるならば、上記の指摘は重要だろう。

ただ、それぞれの法制の保護法益が実は「弱者保護」じゃないんだよ、となると批判は当らない可能性がある。

例えば、利息制限に関しては、こういう考え方もありえるかもしれない。(あくまで仮想的な話だけど)
「リスクのある資金調達をさせて、何もかも手がなくなってしまって社会保障に逃げ込まれると社会にとって負担が大きいから、大怪我をして立ち直れなくことを阻止している。」
たとえば、低所得者の中には多重債務に陥ってもすぐに再生の道を選ぶことなく、生活がどん底になってようやく社会保障に救済を求める人が多い、という事情があって、もっと手前で再生の道を選んで欲しい、という価値判断をしているという、ということがその1例になる。

次に借地借家については、こういう考え方もありうる。
「地方によっては賃貸借家屋提供者が寡占状態になっている。その場合、契約の自由にゆだねていては、借り手との差が解消し得ない。そこで、法が介入している。」
もっとも、そんなの独占禁止法のスコープじゃん、といわれればそのとおりだし、全国一律でそのようなルール設定をする不合理は解消されない。

ついでに借地借家法に対する(本書ではない)一部の説明への疑問を述べる。一部の説明では貸主=強者、借主=弱者、という構図を描いているところもある。しかしこれは常にはあてはまらないように思う。相続で承継した1、2件の物件のみを持っている個人も貸主となりうる。

そういう背景事情を加味すれば、借地借家法での対処でなく、独占禁止など他の法律の観点からこの問題は検討されるべきではーとも思えなくもないのだが、専門外なので言及はこれくらいに。

■法律学と経済学が噛み合わない箇所
以上のように、面白い箇所もあったのだが、残念ながら、Law&Econ.をきちんと使えてないのではないかと思える箇所があった(注1)。「法と経済学ってなんかねー」というネガティブな声が存在する要因として、大きく3点上げられることがあるので、本書においてそのような箇所があるかを洗い出してみた。

(1)法律解釈が間違っている
経済学的視点からはおかしい!とおっしゃっている箇所が、実は法律の読み違い、という場合もあるようだ。これではガクっときてしまう。もっとも、この本ではそういう箇所はなかった…はずである。本書の場合、法学者と経済学者がコラボレーションしているのでそこのところは担保されている。

(2)経済学的に批判しなくてもいい場面で批判をしている
法学から見ても十分議論の対象となるところで、経済学を持ち出して、法学から見た見方はおかしいと主張されているかの様な箇所も見受けられる(注2)。確かに、一部の法解釈論ではドグマとも言えるところから出発して埒があかないような説明をされているものもある。それを批判するのに、経済学的なモデルによる分析は補強材料にはなるだろうが、クリティカルな批判とするには、議論が噛み合わない恐れがある。

(3)分析モデルが古い
高校の「政治経済」で見るようなモデルを提示されて、「ほら!こんな風に説明できます」なんていうものもあった(注3)。学生のレポートじゃないんだから、といいたくなってしまう。
古典的経済学のモデルからでなく、きちんとゲーム理論で分析してみろよと非難が世の中にはある。これは確かに当っていると思う。法律では情報の非対称や複数の立場の異なるプレイヤーの利益調整を問題として制度設計をすることが少なからずある。それなのに、情報の完備を前提とするモデルや2人ゲームモデルで分析されて、「ほらダメだ」なんていわれたらたまらない。情報不完備n人ゲームモデルで説明して、それでも法律または法解釈がおかしいといえるのかまで踏み込んで欲しい気がする。

とまぁ、こんな感じなのかなぁとは思うけれど、下を見たらきりがないし、自分の無学ぶりも披露する結果になっているであろうから、上を見ようってことでまとめておく。

(注1)じゃあお前が使えるのか、といわれれば、全くダメなので、えらそうな言い方であることは心苦しいのだが…。
(注2)例えば、八田達男=阿部泰隆「借家法」〔阿部泰隆執筆部分(第2節 借家法と契約自由の原則)〕『法と経済学 市場の質と日本経済』167頁は、現行の借地借家法解釈では老朽化した家屋であっても家主から更新拒否ができないかのような説明を行っている。しかし、家屋の老朽化に関しては借地借家法28条の「正当事由」の解釈論の問題として法学的な視点から十分議論可能であり、わざわざ経済学的視点に立ち入らなくても議論ができるように思う。法学から見た場合、老朽化して十分なペイが得られないという負担(場合によっては、維持コストが収入を上回ることもある)を所有者に負わせることを、「借主の生活の保障」を理由に正当化できるか、ということになると私は考える。
(注3)若杉隆平=若杉春枝=川本明「薬事制度」『法と経済学 市場の質と日本経済』48頁以下は、薬剤に関する特許とジェネリック医薬品の関係について単純な価格決定直線で説明されていた。そんなもん、グラフにせんでもわかるわい!というのが正直な感想。
posted by かんぞう at 00:33| Comment(2) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月29日

[つぶやき]ブログの背景も衣替え

めっきり寒くなりました。
気候に合わせて本ブログも衣替えをしました。
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2007年09月28日

[著作権]文化芸術だけを守るものかどうか

岡本薫「国際政治問題になった著作権」時の法令1787号(2007年)26頁以下読書メモ

岩波新書『著作権の考え方』で、率直な見解を述べられたことで有名な岡本薫、元・著作権課長のエッセイが載っていた。面白いものだったのでちょこっと紹介…。

■エッセイの概要
著作権は、近時、経済問題としての性質を帯びてきたと岡本さんは述べられている。その要因として3点を指摘されている。具体的には、産業と深く結びついた著作物が登場したこと、媒体が多様化し産業と深く結びついた媒体が一般化してきたこと、伝達経路も多様化し、その伝達経路が産業と結びついていること、の3つを挙げられている。
各国においても著作権を所管する省庁として経済系省庁が登場することが多くなっていることを挙げ、著作権が産業経済と関わりを深めつつ有ることを窺わせている。
さらに、経済問題が国際政治問題の中心となっている近時の傾向を挙げ、著作権も同様に国際政治の問題、つまり自国利益の確保が主要な関心に変化したと述べられている。
そして、これらの傾向はベルヌ条約設立当時の目的から離れていった、と指摘をされている。

■私見
おおよその方向性については共感を覚える。
著作物が有力な経済上の財貨である以上、ビジネスルールとして取り扱われるようになるのは、当然の成り行きだと思う。
もっとも、正直なところを言うと、元々の出自はビジネスルールにちかいところだったんじゃないか、とも感じているが…。
頭の整理ができていないが、私は、特定の事業法に近いものであった著作権が、技術の進歩で複数の事業にまたがるようになり、競争(の調整)法としての性質をもたざるを得なくなってきたと考えている。
このような変化を著作権の変化として受け入れるか、断固拒否するかは、岡本さんが指摘するように個々人の価値判断とそれらの総体である民主的な判断にゆだねられると思う。しかし、法解釈の上で、感情レベルの話として、「経済問題」としての理解が明示的でないにせよ影響を与える可能性はある。
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2007年09月23日

[著作権]iPodへの私的録音録画補償金課金のその後?

先日、文化審議会著作権分科会 私的録音録画小委員会、平成19年度第12回会合を傍聴してきた(注1)。
本論については、縷々意見が出ているところなので私はコメントをしないが、この会合で気になった点を備忘として残しておきたい。

PCなどもっぱら録音・録画に使われない記憶装置ついては私的録音録画補償金の対象とすることに対しては消極的な意見が出ていたが、委員のお一人が「もっぱら私的録音録画に用いるソフトウエアについて議論をする余地がある」ということを匂わせる発言をされていた。

視点としては面白いと思うし、補償金の対象とする正当性はある程度担保されるだろう。
ただ、政治過程の問題として、そんなことをしたら、電機メーカーだけでなく、ソフトウエアベンダーも敵に回しかねない訳で、なかなかそうはいかないよねーと思った次第である。

(注1)文化庁関係者の皆様、どうか探さないでくださいね(笑)
posted by かんぞう at 21:00| Comment(0) | TrackBack(1) | ☆著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

[特許]特許権の通常実施権登録制度見直し議論が期待できそう

■特定通常実施権登録制度創設に引き続き、通常実施権登録制度も見直しへ
今年の5月に産業活力再生特別措置法改正法により、包括ライセンスのライセンサー保護につながる特殊な通常実施権登録制度が導入された。

そこでの議論は、ほとんど利用されていない通常実施権登録制度そのものについての見直しを射程とするものではなかった。
(本ブログ「[特許]特許権の新たな通常実施権登録制度」(2007年7月18日)参照)

本質的な問題を解決していない、という問題意識があるのか、この7月から通常実施権登録制度についてのワーキングループが設けられた。産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会 通常実施権等登録制度ワーキンググループである。まだ議論が始まったばかりであるが、その動きは注目に値する(注1)。

■充実した議論への期待
通常実施権等登録制度ワーキングでは、事務局が緻密に整理した論点が挙げられている。(第1回ワーキングループ配布資料4「通常実施権等登録制度の見直しに係る論点について 」《特許庁へのリンク》。本腰を入れた議論が行われるであろうことを窺わせる。特許庁やるじゃん。

主には、
・必要的登録記載事項の見直し(とくに対価額の取り扱い)
・段階的開示制度の導入の検討
・通常実施権者からのサブライセンスの保護
・出願中の権利についての通常実施権
が議論の中心となるようだ。

2つ目の論点である段階的開示制度の議論は特定通常実施権登録制度が参考になるのかもしれない。

4つ目の論点である出願中の権利についての通常実施権については、補正との関係を含めて考える必要があるとされていた。私は、価値観のレベルではあるが、補正に関与したいというニーズは小さいのではないかと考えている。
委員の一人である茶園教授は、出願中の権利についての通常実施権は「補償金請求権を行使しない旨の宣言にすぎない側面」と、「特許の通常実施権の予約的側面」があると指摘されていた。前者であれば補正に関与する必要は無い。後者であっても、出願公開前は、多くの場合ライセンシーはコアとなる技術思想のみを把握しているものと推測される。

ともかくも先に挙げた特定通常実施権登録制度の議論において、拙速であるとの批判がなされていた(注2)ことを鑑みれば、今回のワーキングループでの議論は、腰の入った良い議論となることを期待したい。
(注1)特定通常実施権登録制度は経済産業省の知的財産政策室が担当しており、他方、こちらの議論は特許庁の制度改正審議室が担当している。一見すると縄張り争いの香りも感じてしまうが、注2に挙げたように違った理由があるのではないかと思っている。
(注2)もっとも、三角合併などによる不都合の懸念に対処することが急務であったことが予想される。
posted by かんぞう at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆特許 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

[その他][書評]格差社会の根をちょっとだけ考える

■橘木俊詔『格差社会―何が問題なのか』 (岩波書店、2006年) 読書メモ

「格差社会」の中身を統計的分析によって示していく入門書。格差の切り口を、世代、職業の固定化、地域と言った点から整理している。それぞれの方が、それぞれに抱いている「格差」像が、かなり多様なものであるんだ、というのを認識し、議論を整理するのに適した本であるように思う。

また、かなり冷静な視点で記述されている点には好感が持てた。

興味深かった分析は次の3点。

・若者世代の「就業形態」「収入」格差が深刻であり、改善の必要がある。
・職業階層の固定化も進んでおり、これが格差を感じさせる要因になっている可能性がある。
・税を通じた富の再分配が、G8+北欧諸国の中で上手に行えていない。

もっとも、その主張部分については、
・なんで北欧とやたら比べるの?
という疑問が湧いた。

北欧は理想的なシステムを導入しているかもしれないが、若い頃は海外で過ごして、老後北欧に戻ってくる、という福祉へのフリーライダーが少なからず存在するという問題点もはらんでいる。

最後に、読んでいて抱いた私のぼんやりとした思いを羅列しておく。

・格差社会といわせる主観的な要素は「高齢化」かもね。
・若者の格差は将来を考えたら手を打たないとやばいよね。
・都市圏と地域の格差があるっていうけれど、統計的に見ると、都市圏のはずの関西圏が良い数字出してないなぁ。
・お医者さんって階層固定の度合いが高い気がするなぁ…。
posted by かんぞう at 19:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ☆その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月17日

[つぶやき][著作権]自己の作品への強い愛が生む悲劇:〔愛の流刑地類似表現事件〕に思うこと

■原告の著作権侵害の主張が一蹴された事案:〔愛の流刑地類似表現事件〕(注1)
この7月、作家渡辺淳一さんの著作が著作権侵害に当るかが争われた民事訴訟の判決(東京地判平成19年7月25日平成19(ワ)7324《リンク:裁判所》)が下された。判決文はわずか4ページ。原告の主張は一蹴され、渡辺さんが勝った。

事案は次の通りである。
日経新聞社に自作の小説を送付した原告は、その送付から5ヶ月後に日経新聞上で連載された渡辺淳一さんの著作である『愛の流刑地』ストーリー展開が(原告の思いとしては)似ていることから、同作品が自己の作品の盗用であると考え、著作権侵害に基づき2000万円の損害賠償を請求した。

裁判所の判断は原告主張の表現箇所の創作性の有無が中心である。この点の判断基準は、
「創作的に表現したもの」というためには,作成者の何らかの個性が発揮されていれば足り,厳密な意味で,独創性が発揮されたものであることまでは必要ないが,言語からなる作品においては,表現が平凡かつありふれたものである場合や,文章が短いため,その表現方法に大きな制約があり,他の表現が想定できない場合には,作成者の個性が現れておらず,「創作的に表現したもの」ということはできないと解すべきである。
と述べていて、目新しさはない(注2)。

また、個別の認定においても、
・アイディアの同一性を主張するものであって,表現の同一性をいうものではない
・同一であるとも類似しているともいえないことが明らか
・日常的によく使用されている,極めてありふれた表現であって(しかも,そのほとんどは,1ないし2単語の語句である。),同部分に著作物性が認められないことが明らか
とあっさり述べられているにとどまる。

推測するに、かなり無理のある主張に基づいた訴訟のようだ(注3)。

■〔愛の流刑地類似表現事件〕における原告の主張が分かった!
残念な点は、具体的な原告の主張する著作権侵害箇所の対比表が付いておらず、どの程度のものか分からないことだった。

が、この間偶然めくってみた週刊新潮に、原告の主張の一部が書いてある記事を発見!!
渡辺淳一「あとの祭り 大迷惑の記」週刊新潮2007年8月16日・23日合併号82頁によると、原告が著作権侵害であるとして、傍線をふっている箇所は、
・千駄ヶ谷
・比ではなかった
などなど、ワンフレーズに過ぎないものであるようだ。

もちろん、被告サイドの主張なので、公平な選定ではないかもしれないが、判決文とあわせて考えると、これは無理な主張に基づく訴訟と理解せざるを得ない。

おそらく、原告は「アイディアの盗用だ」という主張が中心であったのであろう(注4)。もちろん、このような主張は著作権法の容れるところではない。

■この手の訴訟が起こるやむをえなさと、今後への危惧
この事件について、渡辺さんは前述の記事で「金目的か?」と書いている。
少額訴訟ならともかく、本件のような巨額の損害賠償を求める訴訟ではそれはないだろう。原告も多額の印紙税を払っているだろうし、かなりの手間をかけなくては通常訴訟は起こせない。

おそらく「私の作品」なり「私のアイディア」は「唯一私のもの」という強い思いが動機となったのではないだろうか。私は、知的な活動によって生まれた成果であるがゆえに、このような強い思いの暴走が時として起こることは仕方の無いことであると思う。

ただ、巻き込まれた人にすれば迷惑な話であるだろうな、と感じる。もし増えることがあれば、創作物を表現することをためらうようになってしまうかもしれない。

これに関して、私が1点だけ危惧している点がある。著作物(それ自体でなくても、あらすじだけでもいい)がデジタル化されていくと、ネットワークを通じて容易に検索できるようになる。そうすると、「私の作品」に強い思いを持った人が、「私の作品」に似ている著作物を容易に発見できるようになる。その結果、このような「強い思いのこもりすぎた」訴訟が増える可能性もある(注5)。

これを避けるためには、プロの作家さんたちは、紙媒体で、ひっそり書店の奥に並べられる頒布するやり方を選び続けることになるのかもしれない(注6)。

(注1)事件名は慣用であるが、ユニ著作権センターの表記に倣ってみた。
(注2)言語の著作物の創作性を巡る近時の裁判例では、ほぼ共通の判断基準である。
(注3)行政書士の大塚先生は、速報段階で指摘されている。「「愛の流刑地」事件〜著作権 損害賠償請求事件判決(知的財産裁判例集)〜」『駒沢公園行政書士事務所日記』(2007年7月26日記事)《リンク》参照。
(注4)なお、アイディアの盗用自体の可能性にも疑問はある。連載小説であるとはいえプロの作家がほんの5ヶ月足らずで書けるものだろうか?すくなくとも、そのようなリスキーなことは編集者は喜ばないだろう。取材等も含めると、原告が原稿を送付する前段階でプロットが終わっているようにも思われるのだが…。
(注5)この記事は、市井のアマチュア作家がプロの作家に対してアタックした例を挙げているが、プロの作家がアマチュアの作家に対してアタックすることも考えられる。二次創作ならともかく、オリジナルなものに対しても誤った訴訟が提起されるような自体が続けば、アマチュアの表現活動への萎縮も考えられる。後者の懸念の一つとして、一度著名となった表現が事実上独占されてしまう可能性を示唆されるものに、作花文雄「表現物としての創作性の評価と公正な利用秩序――個性に基づく独自の表現物の創作に対する適正な保護と侵害性判断局面の在り方――」コピライト547号(2006年)、がある。
(注6)作家さんたちの中に著作物再販を維持する方向を望む意見が相当数いらっしゃるのは、このような理由によるものかもしれない!?(笑)――もっとも、文藝協は再販制度維持を現状では原則としながらも、流通も見直せと主張していることには留意――。
posted by かんぞう at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ●つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月16日

[特許]専用実施権の数量的制限が分からない

■数量的制限を認めない見解への疑問
専用実施権には制限を課すことができるものの、数量的な制限を課すべきではないという見解がある(注1)。その理由は、同一内容の専用実施権を複数設定できることになり、専用実施権の排他性と言う趣旨を没却するからであると述べている。

もちろん、「排他性」を金科玉条にするならそのような考え方もうなずけるが、そもそもの出発点に疑問を感じる。「特許権者の排除すら可能にする」という点は、専用実施権制度においてそこまで大事なのか?

設定した範囲での「排他性」を確保し、実施権者に対して損害賠償請求権と差止請求権を与える制度にすぎないと理解するならば、数量制限も許されることになると考えられないだろうか。

■数量的制限を認めた場合の不都合
もっとも、数量的制限を認めた場合の不都合は2点ある。

1点目は、当該特許権を実施したい第三者が誰に許諾を求めたらよいか分からない点である。場合によっては、専用実施権者と結んだライセンスが無意味となり、二重払いのリスクを負うかもしれない。

ただし、これに対しては、数量的制限という専用実施を結んだ段階で他の者へのライセンスを原則許容しない意思表示だと理解でき、これは問題がない、と言う立場もありうる。決定的な不都合とはいえないのではないか。

2点目は、侵害者が存在した場合の、損害賠償額の算定方法である。
特許権者と専用実施権者が併存することで、侵害者の側がそれぞれにいくら払えば良いかわからない、という不都合が出てくる。もちろん、特許権共有の場面でも生じる問題に似ているが(注2)、この場面での特徴的な不都合は、持ち分の合意があり得ないため、損害額を按分するという考えが採りにくい点にある。これはかなり悩ましい。

以上のように考えると、数量的制限を課すことができないとする理解は合理性があると言えるのかもしれない。とはいえ、否定する理由には納得しがたい点もある。誰か解きほぐしていただけないものか。

(注1)中山信弘『工業所有権法(上) 第2版増補版』(弘文堂、2000年) 436頁。本稿は中山先生の見解にケチをつけてみようという、ドンキホーテ記事である。
(注2)特許第2委員会第2小委員会「権利行使から見た共有特許権に関わる問題」知財管理50巻(2000年)11号1659頁以下参照。
posted by かんぞう at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆特許 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

[時事][著作権]黒澤作品の保護期間を巡って感じるちょっとした違和感

映画の著作者は誰か?
チャップリンの映画の保護期間を巡る東京地裁判決(東京地判平成19年8月29日(H18(ワ)第15552号)《裁判所へのリンク》)が下ったのは、ついこの間のことである。

その詳細は、FJneo1994さんの「[企業法務][知財]著作権狂時代」『企業法務戦士の雑感』(2007年9月14日記事)で丁寧な解説と明快な分析が加えられている(注1)。是非そちらをご覧頂きたい。
同判決の要点は、「パッケージを見ると団体名義の著作物に見えるけど、映画の中身を精査すると、Directed by...とか書いてあって、著作者はチャップリンだよねー」という認定である(と私は理解している)(注2)。

これに引き続いて、黒澤明監督の映画の保護期間を巡って東京地裁が判決(東京地判平成19年9月14日(判例集未搭載))を下したようだ。

報道によると、
判決は、黒澤監督を「映画の全体的形成に創作的に関与した」著作者の1人と認め、作品の冒頭に「監督 黒澤明」などの表示があることから団体名義の著作物には当たらないと判断。10作品の著作権は2036年まで存続すると結論づけた。
(毎日新聞 2007年9月14日)
ということである。

これを見る限り、先のチャップリン東京地裁判決と同じ認定基準を採っていることが窺える。

■東京地裁の認定基準による結論への違和感と、映画製作会社の主張への違和感
東京地裁の認定基準を一般化すると、「パッケージの表示をそれほど問題とせず、映画の中でのクレジットを重視して、著作者を認定するプロセス」と言えるかもしれない(注3)。

そうすると、映画の著作物を利用しようとする側にとっては、「著作権が復活した」ように見える結論を導くことになる。この違和感は、先にあげたFJneo1994さんが指摘なさっているところであるが、私も共感する。

(以下の箇所は初歩的な勘違いによるものでしたので削除します。ご指摘いただいたとおりすがりさん、ありがとうございます。)
もう1つの違和感は、著作者は監督であった、と主張する映画製作会社の姿勢への違和感である。

もちろん、当時は著作権法上、著作者は≪契約で特段の定めが無ければ
≫監督と評価されることが通常であろうから、映画製作会社の主張は法律上はおかしいものでない。
また、最大限著作権法の保護が長くなるように主張を選択することも、訴訟戦略としては合理的であり、なんらおかしいことではない。

しかし、映画制作会社は昭和45年の著作権法改正に当って、現行の29条の制定――つまり、映画の著作者は原始的に映画制作会社だ、というルールの創設――を求めた側の1人のようである(注4)。

仮にそれが真実であるとすれば、片や監督は著作者で無いとする制度をつくり、片や監督が著作者だといっているのである。ちょっとムシが良すぎないだろうか(注5)。…まぁ、感情的な違和感に過ぎない…。

ただ、1点気になることもある。
当時、明示ないし黙示の契約として、団体名義の著作物として扱う取り扱いは無かったのだろうか?

もっとも、この点の証拠は、本件訴訟のような場合、訴訟の第三者である監督の遺族か、原告である映画制作会社しかもっていないだろう。被告にとってはなかなか不利だ。


このような状態が、「コンテンツ大国」を目指す日本にとって良いのかどうか、私は、関係者が考え、議論する必要があるように思う。

(注1)最近、きちんと作られたブログの「引用」――実際は剽窃ではないかとお叱りを受けるかもしれない――に頼りすぎてしまっている勘はあるが、私の実力上、オリジナルな分析もできない。優れた先行研究成果をバシバシ活用することをお許しいただきたい。
(注2)なお、映画においてことさら「名義」が注目されるのは、問題となる映画が創作された当時、現行著作権法29条に相当する規定が無かったからである(…といいながら、手元に旧法が無いので若干自信が無い…間違っていたら教えてください)。
(注3)黒沢映画についての判決を精査する必要があるので、暫定的な推測として述べている。このことは留意していただきたい。
(注4)梶間俊一「監督は映画の著作権者である」日本映画監督協会《同協会へのリンク》。
(注5)もちろん、これが禁反言に反する、ということにはあたらない。
posted by かんぞう at 23:57| Comment(2) | TrackBack(0) | ★時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月10日

[時事][特許]出願中のビジネスモデル特許を担保とする融資??――「ビジネスモデル特許」の時代??――

大坪和久さんの「ビジネスモデル特許権(?)を担保に融資(?)」『パテログ』(2007/9/9記事)で、ある種、純粋な「ビジネスモデル」の、それも「出願中の特許(特許を受ける権利)」を担保融資が行われた例が紹介されていた。

■事案の概要
大坪さんの記事で紹介されている日経の記事が、事案をわかりやすくまとめているので一部を引用する(なお、後述することになるが、今回は「批評」目的の引用だったりする)。
NIKKEI NET(2007/9/8)
商工組合中央金庫は花・植木卸売業のジャパンプランツ(岐阜市)に対し、出願中のビジネスモデル特許を担保に、1000万円の運転資金を融資した。ジャパンプランツは切り花や観葉植物の独自商品から売れ筋を選び、小売店向けに容器や給水装置、陳列棚と一緒に配送する仕組みを構築している。今回はこの仕組みがビジネスモデル特許を取得できると判断し、融資を実行した。

特許を受ける権利(出願中の特許)のみを担保に融資する例は珍しいな…と思いきや、

商工組合中央金庫からのプレスリリース《商工中金へのリンク》では、
商工中金(岐阜支店)は、8月31日、株式会社ジャパンプランツ(本社:岐阜市、代表取締役:熊崎 重司氏)に対し、知的財産権(ビジネスモデル特許権(出願中)、商標権)を担保として運転資金を1,000万円融資しました。
とあった。

なんだ、商標権とセットかよ。日経さん、はしょっちゃダメぢゃん。

とはいえ、特許を受ける権利を担保に含む融資は珍しい。

■意外なオチ?
一体どんな特許か気になるところである。大坪さんが紹介されているように、会社のwebサイトに何故か自ら出願公開をされている。果たしてそれが今回の担保の対象となったものかは判然としないが、商工中金のプレスリリース記載の発明名称に似ている発明をピックアップしてみた。

特願2006-326761
【請求項1】鉢内に保水部を設け、この保水部に植物を指した状態で、鉢を通い箱に収容して、荷主がスーパーマーケット等の小売店に出荷して配送し、小売店側では前期鉢のまま陳列することを特徴とするシステム
http://www.japanplants.co.jp/tokyyo_t_TOP.htmより)

…あれ?
自然法則の利用は?

私は特許実務の専門家でないので素人判断にすぎないので恐縮だが、これって「単なる取り決め」ではないのだろうか。

そもそも、日本において「ビジネスモデル特許」とはソフトウエア(情報システム)という形でしか権利取得できない(注1)。しかし本件の明細書を見る限り、請求項にはもちろん、発明の詳細な説明にも情報システムの香りはしない。

であるならば、ここに公開されている出願は拒絶されるのではないだろうか。

もちろん、webに公開していない出願に係る特許を受ける権利が担保となっている可能性はある。
(ただ、なぜ上のような特許を出願してしまったのかは合理的な説明ができないが)。

あるいは、特許を受ける権利はともかく、ビジネスモデル自身+商標権に対して融資をしたのだろうか。
それならば、商工中金のプレスリリースはミスリードであるし、それに乗せられた日経さんはかわいそうだ。

いろいろつっこみたいところはあるが、下手をすると自分が素人であることを棚に上げてぼろくそに言いそうなので、これくらいにとどめておく。

(注1)基本的な入門書にも書いてある。たとえば、角田政芳=辰巳直彦『知的財産法 第3版』(有斐閣、2006年)403頁。
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[意匠]意匠類比判断基準へのニーズを探ってみた

9月6日の記事に引き続いて法施行の話題をもうひとつ。
この4月から、改正意匠法が施行され、侵害の場面における意匠の類比判断は需要者の視点を基準に行うこととなった。

意匠の類比判断基準については、いわゆる創作説と混同説に分かれているところであったので、そこに一定の決着を付ける決定は当然のことながら批判もでてくる。とくに判断基準を「需要者」と定めたことで、混同説に立つかのようにも読めることから、創作説に立つ論者からの批判は強い(注1)。

もっとも、直ちに混同説をとったと見るのは早計であると言う指摘が的確であると私は考えている(注2)。

これに対しては、審議会でも同様の認識が一部の委員から示されているが、いずれ市場での混同を問題とする運用に転化するのではないか、との懸念がなされている(注3)。

この懸念はある種もっともなところである。「需要者」というのはどういう者をさすのか必ずしも判然とせず、不正競争防止法に言う「需要者」概念に引きずられる運用がなされる可能性も否定できない(注4)。

■改正過程を法解釈学とは違った視点で眺めてみて浮かぶ興味深い点
創作説の批判の根底の一つには、意匠法は創作保護法だという認識が創作説の論者にあるようにも思われる。

このような考え方は審議会においても一部の委員から示されている(注5)。

これに対して審議室長は、新しいデザイン観に基づいて意匠法の性格付けがなされることに違和感は無い旨の発言をなさっている。

さて、私自身は創作説と混同説のいずれかを支持するか、不勉強ゆえ態度を決められない。そのためか、法解釈と異なる点が気になっていまった。それは、なぜここまで特許庁が強気なのだろうか、という点である(注6)。

法改正にはきちんと調査をするのが日本の中央官庁であるように思う。何らかのニーズ側の裏付けがあるのかもしれない。気になるのでちょっと調べてみた。

■意匠の類比判断基準に対するニーズ
残念ながら管見の限り直接に意匠の類比判断基準に関するニーズ調査を行った研究が見当たらなかった。そこで、意匠の出願目的から類比判断基準のニーズを推測することにする。

ところが、意匠の出願目的についての調査も詳細なものが見当たらない。やむを得ず、主として意匠の出願目的を問う調査でないもの(注7)の結果から推測することにした。

それによると、
摸倣品・類似品対策 約90%
他社の権利侵害不存在の確認・証明 約65%
自社のブランド力強化 約60%
特許権の補完 約45%
ライセンス収入 約5%
ということである。

主たる目的と思われる上位3つから、意匠の類比判断についてのニーズを解釈をしてみた。(正直言って乱暴な解釈である以上、異論もあるはず。もし抜け落ちている視点があれば指摘していただければありがたい。たぶんたくさんあると思われるが…。)

産業財産権である以上当たり前ではあるが、摸倣品・類似品対策が出願の主目的となっている。

デザインの場合、需要者が摸倣品を見て外形上似ているからと混同をし、結果として粗悪品をつかまされた!と勘違いされることがある。意匠権者がこれを嫌がっているのだとすれば、「勘違い」を問題にしてほしい、つまり、「需要者」の「混同」を問題にしてほしい、という方向につながるかもしれない。

あるいは、市場の代替を問題にしているのかもしれない。つまり、デザインが差別化の大きなポイントである場合は、需要者にとって「似ている」ものであれば市場で代替されてしまう。これを意匠権者がいやがっているのだとすれば、やはり同様に需要者を判断基準にしてほしいと言うことにつながる(ただし、「混同」までは問題にならないだろう)。

他方、マネされてオリジナリティーが損なわれて腹が立つ、というところを問題にしているのであれば、当業者からの創作性についての視点にしてほしいと言うことにつながるように思われある。

次に、他社の権利侵害不存在の確認・証明について解釈してみる。ここで問題となるのは、市場で流通する際に当該物品が侵害品である懸念を払拭するところにあろう(注8)。

そうであるならば、極力流通事業者にとってわかりやすい基準が求められよう。すると、創作的な観点と言うデザイナーサイドの視点より、「需要者」に依る基準が好まれるのではないだろうか。

最後に、自社のブランド力強化であるが、これが意味するところが、自社のオリジナリティーの確立と言うのであれば、創作上の視点へと結びつくように思われる。

他方、先に指摘したような「粗悪品をつかまされた!という勘違いが嫌」という意味の、比較的消極的な意味でのブランドの確立なら、「需要者」の「混同」が問題となろう。

本来、出願目的を精緻に問う調査ではないので正確でない可能性はあるが、これを見る限り、「需要者」サイドの視点へのニーズが強いのではないか、という推測が可能であるのではないだろうか。

(注1)創作説を提唱されている牛木理一弁理士は強い口調で批判をされている。(かなりの怒りがこもっているように読める)論稿として牛木理一「改正意匠法24条2項への疑問――DVD著作権裁判の教訓――」パテント59巻10号(2006年)35頁以下。なお、創作説からの批判で主要な点は、登録時には当業者を判断基準とする創作性の概念により、既存の登録意匠との距離が問題とされるのに対し、侵害の場面では「混同」という概念で問題となる意匠との距離が問題とされることは、スマートではないのではないか、というところにあろう。
(注2)牧野利秋「意匠法の諸問題」ジュリスト1326号(2007年)84頁以下。本ブログ「[意匠]意匠の類似についての創作説と平成18年改正」(2007/2/20記事)参照。
(注3)「産業構造審議会 知的財産政策部会 第10回意匠制度小委員会 議事録」《経済産業省へのリンク》峯唯夫委員発言。なお、(注2)に挙げた牧野先生も参加されている。
(注4)なお、審議会で田川審議室長が、需要者の意味について「ある物品にとって最も経済的な価値を評価し得る需要者というところが実際には判断の基準になってくるのではないか」という解釈を示している点は注目に値する(前掲注3参照)。
(注5)前掲注3峯委員発言参照。
(注6)なお、ある程度センシティブな問題には、審議会の委員の人選を通じ江、省庁側の意向を通すと言う手法があるらしい(著作権の法改正にまつわる話であるが、京俊介「著作権政策形成過程の分析(一) ―利益団体,審議会,官庁の行動による法改正メカニズムの説明―」阪大法学57巻2号(2007年))。今回の場合、異論を唱える委員が多い点がなお注目される。それほど特許庁はニーズを把握していると言う自信があったのかもしれない。
(注7)特許庁「デザインの開発・管理・保護・出願戦略に関する調査」『平成18年度特許出願技術動向調査・意匠・商標出願動向調査 CD‐ROM』(発明協会、2007年)。非常に目立たない調査報告書である。筆者は偶然見つけた…。
(注8)権利侵害の有無が気になる!ということで、売り上げに影響した事案として、〔ピーターラビット事件〕大阪地判平成19年1月30日平成17(ワ)12138。なお、判決のまとめは、大塚法務行政書士事務所「「ピーターラビット」マルシーマーク事件〜著作権に基づく差止請求権不存在確認請求事件判決(知的財産裁判例集)〜」《外部リンク》『駒沢公園行政書士事務所日記』(2007/2/5記事)が非常に参考になる。個人的なことだが、大塚行政書士のまとめにはいつも勉強をさせていただいている。恥ずかしいので表では言えないがこっそり感謝の意をお伝えする。
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2007年09月06日

[著作権]映画盗撮防止法施行を受けて

ネット上の著作権の議論ではあまり評判の良くない「映画の盗撮の防止に関する法律」が施行された。

これに関しては、すでにFJneo1994さんが「誰が作ったんだこんな法律。」『企業法務戦士の雑感』(2007/5/31記事)で、審議過程で明らかとなった問題点を整理されている。

その中でも「映画の一部だけ撮っちゃったらどうなのよ」との点についてちょっと考えてみた。

程度問題ではあるが、20秒とかそれぐらいの「一部」であれば、審議における甘利大臣の発言通り、法目的に照らして「不当」である印象は拭い去れない。

もっとも、条文を素直に読む限りでは、heatwaveさんが「映画盗撮防止法を全力で批判してみる」『P2Pとかその辺のお話』(2007/9/4記事)で指摘される通り、「不当」であっても逮捕されうるのである。

では、なんとかしてこの不都合から法律を救えないだろうか?(注1)

切り口として、「映画館等において観衆から料金を受けて上映が行われる映画」の解釈論に持ち込んでみることはどうだろうか。つまり、(若干詭弁めいて聞こえるが)「一部に留まる場合は『料金を受けて上映する映画』とはいえない」(その一部分だけ流してもお金とれない)ぢゃん、ということで法の対象外、と解釈する方法である。

ただ、そこの解釈論の持ち込んでも、どこを『料金を受けて上映する映画』の判断基準とするかは悩ましい。
作品全体としての利用が意図されていたのであるから、映画全体に限りなく近いところ二判断基準を置くべき、という考え方もあり得るが、場合によっては部分部分の利用が企図されていたりもする。ではケースバイケースで、とすると、不当性は解消されない。
悩ましい…。どなたか良いアイディアはないだろうか?

(注1)暗に「文言がしょぼいんだよ」という思いがこもっていたりする。本法律の条文の文言についてのつっこみは、本ブログでかつて行ったことがある。ただ、内容につっこみをいれたものではないのでしょっぼいが…。内容面での突っ込みは先に挙げたFJneo1994さんの記事が適確。
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2007年09月03日

[時事]司法試験考査委員から教員を外すべきか

今日の朝日新聞社説に、
考査委員は半数が裁判官や検察官、弁護士らだが、残りは法科大学院教授らが務めている。1人でも多くの合格者を出したい大学院の教員を考査委員にするのが、そもそも間違いなのだ。来年からは全員外した方がいい

とあった。

現実を考えたら、「そんな無茶な…」と思う。
司法試験クラスの問題作成は尋常ではない労力がかかるだろう。そういうしんどい仕事は研究者の義務だよね、というような空気があるところに、突然それを実務家がやれというのも無茶な気がする。

まず時間的に厳しい面があるのではないか。

裁判官や検察官の方の仕事は膨大で、いっぱいいっぱいと聞いている。その中から時間を割くのは厳しいのではないだろうか。(それを解決するために裁判官、検察官の増員ができれば良いのだが、公務員改革でそうできないというのが苦々しいところだと感じている。)

弁護士さんだって同様だろう。きちんと問題が作ることができ、答案を評価できるほど優秀な方は忙しいのが常では…?しかも、そのような方の中には大学院の教員も兼任されていたりする。

試験内容面でも厳しい。

一度でも学生に試験問題を作った方ならわかると思うのだが、きちんとした問題を出すには出題者はその分野のプロフェッショナルでなければ作れない。まして、ハイレベルなこところにいる司法試験受験生を選抜する試験である。

そうすると、上記社説によると、考査委員の実務家の方に「特定の」分野のプロであることが求められることになると思うが、幅広い分野の理解が求められ、日々の仕事に追われていることを考えると、あまりにも酷だ。

もちろん、そのような特定分野のプロの弁護士さんもいらっしゃるが、分野によってはレアケースだ。そういう分野では、特定の方が毎年考査委員に選ばれることで、中立性が疑われかねないことも想定できる。

無茶な!というのが私の感想。もっとも問題点もある程度共有できる。たとえば、司法試験委員になったら、法学部の教授にする等で対処しようと言う中間策などを考えてみたくなった。
posted by かんぞう at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ★時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする