日本の著作権法の萌芽期における、一大事件「プラーゲ旋風」について、よくわかってなかった。そこで、「プラーゲ旋風とは何か」「どのような影響を与えたのか」を、簡単にまとめてみた。恥ずかしながら、きちんとした歴史研究が出来ないため、すべて二次資料に拠っている(よって、「〜の解釈では」、「〜によると」、という留保をつけざるを得ない点、ご了承いただきたい)。
1.プラーゲ旋風の背景(1)演奏権留保条項の存在かつて演奏は原則自由だった。例えば、ドイツの1870年著作権法50条2項は、楽譜として発行された音楽的著作物について、その楽譜上に「上演権が作曲家に留保される」旨の表記がされていないとき、作曲家の許諾を得ることなくその楽曲を自由に公に演奏できると規定されていた(注1)。これを演奏権留保条項と呼ぶ(注2)。
しかし、演奏権留保条項は、
レコードの登場・普及に伴って、作曲家・作詞家から疎まれることとなる。そこで、1908年ベルヌ条約
ベルリン改正条約11条3項は、演奏権留保を明示せずとも演奏権が発生する旨を規定し、これを受けてドイツ著作権法などは同条項を外す改正を行った。
ところが、日本は、演奏権留保条項を著作権法から外さなかった(注3)。これが、プラーゲ旋風のひとつの契機となる。
(2)ラジオ放送の開始しかし、1920年
アメリカでラジオ放送が開始されると、
音楽著作物の利用は格段に増える(というよりは著作権者の目に付く)ようになった。日本でも1928年に開始され、これとともに、演奏権留保の無い音楽が無断で用いられたのである。
ラジオでの著作物の利用については、世界的な議論となり、1928年ベルヌ条約
ローマ会議で、無線放送による伝達について著作者の権利が及ぶこととなった。この会議の結果、日本では、昭和6年著作権法が改正され、同権利が導入されたうえ、演奏権留保については放棄されることとなった(注4)。これにより、ラジオでの音楽利用について演奏権留保の有無を問わず権利行使が可能となったのである。
(注1) 〔R・シュトラウス作品の保護期間事件〕東京地判平成18年3月22日判例時報1935号135頁における被告の主張参照。
(注2) その理由は、管見は覚知できなかったが、推測するに慣行を法制化したものであったのだろう。
(注3) その理由もまた良くわからないが、改正に関わった水野錬太郎博士が、その意義を簡潔に記載しているのみであることの指摘があり(著作権法百年史編集委員会編『著作権法の百年史』131頁〔吉村保〕(著作権情報センター、2000年))、単なる手落ちや重要性の認識が低かったことから、改正の検討に漏れただけに過ぎない可能性もある。
(注4) 前掲注(3)『著作権法の百年史』229頁〔豊田きいち〕によると、演奏権留保についてはあまり議論の俎上に上がらなかったようである。
2.第1次プラーゲ旋風(注5)
(1)第1次プラーゲ旋風の中身権利行使が可能になったことを受けて、ドイツ・
フランス・イギリス・
イタリア・オランダの音楽著作権管理団体(略称・カルテル)は1932年、東京の府立高校教諭であったドイツ人のウィルヘルム・プラーゲ博士を代理人とし、権利行使を委任した。
プラーゲ博士はまず、NHKに対し1931年(昭和6年)の著作権法改正以後の使用料として2000円を交渉により勝ち取り、以後は年額7200円を支払うことで妥結、しかも翌年には更新を拒絶し、年18000円を請求したのである(カレーライスが当時10銭弱ということを勘案すれば、現在の価値にして1億8千万円となろうか。)。結果、NHKでは1年近くにわたって欧州の音楽のほとんどが流れない事態となったのである。このほか、各所に対してプラーゲ博士は訴訟を行っていった。
これらの要求が法外であることや、プラーゲ博士の高圧的な態度、また、当時外交上孤立しつつあったことの3点が影響し、プラーゲ博士に対する反発が沸き起こった。中には、ベルヌ条約を脱退すべきであるという議論まで登場した。
(2)第1次プラーゲ旋風の影響このことを受けて政府は、1934年(昭和9年)、著作権法を改正した。プラーゲ旋風の影響と目されるのは次の2点である(注6)。
・適法に複製されたレコードを放送に用いる場合、著作権者の許諾は不要
・著作権者との協議ができず、利用が不能になった場合は、一定の条件下で強制許諾
(注5) この章は全面的に、前掲注(3)『著作権法の百年史』228頁以下〔豊田きいち〕の記述によっている。
(注6) 前掲(注5)参照、豊田きいち氏の解釈による。
3.第2次プラーゲ旋風(注7)
(1)第2次プラーゲ旋風の中身プラーゲ博士は、1937年(昭和12年)、自ら権利管理団体を立ち上げた。これに権利を預けた代表的な日本人は、山田耕筰ぐらいであったものの、当時の権利者や利用者は大いに危機感を持った(注8)。
(2)第2次プラーゲ旋風の影響第1次プラーゲ旋風を受けて、権利者と利用者の間の仲介機関の必要性も感じられていたことから(注9)、1938年(昭和13年)、権利管理団体につき許可制を取る仲介業務法が制定された。許可制にした点は、プラーゲ博士らの締め出しにあったと一般に理解されている(注10)。
(注7) プラーゲ旋風というとき、本稿のように分けて考えるものは無いが、時間的な隔たりと、影響の観点から、分けて考えるべきではないかと思われる。
(注8) 前掲注(3)『著作権法の百年史』238頁〔大家重夫〕。
(注9) 斉藤博『著作権法 第2版』(有斐閣、2004年)321頁参照。
(注10) 実際、プラーゲ博士の団体は許可されず、後に違法に仲介業務を行ったとして逮捕されている。なお、かようなやり方には「偏狭な陰湿さ」が感じされると、斉藤教授は非難されている(前掲注(9)322頁)。
4.おわりにプラーゲ旋風の内容と影響を考察すると、その主要な意義は、日本における著作権保護が弱いことに対する外圧でも、当時存在した日本バッシングの風潮の現れでも無く、日本人に著作権者の権利行使と利用の円滑化のバランスを意識させれられた点にあるのではないかと思われる。
外圧と考える見解に対しては、次のように疑問を指摘できる。なるほど演奏権留保に端を発するものの、これが日本の著作権制度独自の保護の弱い点であったのだろうか。先述したようにドイツでも同様の制度を採っていた。単に、新技術の登場により利用の機会が増大したことに対し、日本の対応が遅れていた(あるいは意識していなかった)だけである。ましてラジオの登場の際には日本はきちんと対応している。
日本バッシングであるという指摘に対しては、当時の日本の反応を見ればそのような一面もうかがわせる。しかし、これは日本人がそのように感じただけ、つまり単なる過剰反応ではなかったか。現にプラーゲ博士は、日本が定めた(旧)仲介業務法に則り権利管理団体を設立しようとしている。単なるバッシングならばこのような行動は取らないだろう。あくまで合理的に権利者の代理人として行動していた証左ではないか。
プラーゲ旋風は、強制許諾制度、また、権利管理団体制度という2つの利用円滑化を図ろうとする制度を生み出す契機となった。そして、その背景には新技術の登場という事情があった。この点は、コンピュータネットワークの登場による著作権への
インパクトとなんら変わりないのである。
なお、さらに詳しくは、以下の資料が良いと思われる。
・大家重夫『著作権を確立した人々――福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士…』(成文堂、第2版、2004年)